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『すずめの戸締まり』

封切りから遅れること1週間、新海おじさんの『すずめの戸締まり』を鑑賞。真っ先に思ったのは、

新海誠は創作界の禁忌を破った、ということ。

以下、ネタバレでしかありません。悪しからず。ネタバレでしかありません。


予告動画を観た時、正直、違和感を抱いた。
「なんかめっちゃファンタジーに寄せるやん」って。毛色を変えてきたなって。率直にそう感じていた。

確かに、天気の子だって、君の名はだって、それ以前の作品だって、超自然的な描写はある。それらがファンタジーじゃないとは言わないけれど、現実世界が固いベースにあるファンタジーだったとは思う。ローファンタジー。

だから、作画を見、曲を聴き、「ああ、本当はおっちゃん、ハイファンタジー寄りがやりたかったんだね」と決めこんでいた。ハイハイ、ジブリ寄りね。君の名は、天気の子で調子に乗ったおっちゃんが、今度は好きなことやるんすね。

ーー ビジホのはりやま、いざ鑑賞 ーー

…?

あっれ〜〜

うお〜〜なんか、ちがった〜〜〜

すみません。全然違いました。やっぱり、おじさんはおじさんのままでした。普通に、ベースは現在の日本でした。異国とか出てこなかったわ。めっちゃ神戸とか東京とか言うやん。おっちゃん、疑ってごめん。

まあさ、喋る猫とかうろつくイスとかありえんのはありえんのよ。ありえんのだけどさ、それを観て(作中の)一般人がビビってるあたり、当たり前の物理法則が成り立ってる世界がベースな訳よ。現実に仮想をベタ塗りさせて、調和を目指すやり方は、変わってなかったってことよ。その辺り、おっちゃんの作品には強固な一貫性があるよね。映像美(というか作画美?)も相まって、爆ウケするって分かってるんよね。それがオリジナリティであって、流石におっちゃんも、ここで大きくは進路変更しないか。どうしよう、次回作でめっちゃ森とか魔法とか古代王国とか出てきたら。


創作界の禁忌について。あ、ちなみにこれは私が勝手にそう言っているだけです。

これまで、東日本大震災を大々的に扱う、あからさまに扱うことは、創作界では避けられてきたと考えています。おそらく、倫理観と興行面によるところが大きいはず。
(※一切存在しないというつもりはありません。あくまでトレンドとしてです)

東日本大震災の被害を顧みることは、大多数の日本人にとって嫌なこと、可哀想なこと、苦しさ、悲しさ、概してネガティブな意識を引きだします。全日本人にとって、共通して「嫌な過去」というのは、それはつまり、全日本人が共感できるエピソードだということです。それを叩き台に、冒険と救いの物語を生み出したら、そりゃウケる。(良い意味です。)恋愛感情はおっちゃんの好みということで一旦置いといて、少なくとも、「協力して地震を回避させる」物語をファンタジーチックに描いていくさまは、観客をのめり込ませやすいんだろうなと思いました。

数多の作り手が、恐れて手を出せなかったフィールドに乗り出していく。おっちゃんのやり口と度胸、加えて実績がそれを可能にさせているわけよ。

もちろん、安易に取り扱ってはならないことは、見る側も同じだと思っていて。分別のある取り扱い(取り扱いってなんやねん)、マナーを心掛ける必要はあるのでしょう。なんか言う人はいるかも知れませんが、古より、芸術には社会風刺のエッセンスが含まれていて、作品に起こすことは悪いことではないという考えがあり、悪とは言えないと思ってます。


そういえば古代からさ、地震はナマズが起こしてるとか言われてきた訳ですよ。地の中にいる存在が、言ってみれば自然こそが世界を支配していて、人間はそれに抗えないって。畏怖って感じですね。

ちなみにどうしてミミズにしたんだろうか。そこは理解が及ばなかったので、観劇鑑賞おじさん失格かも知れません。

おっちゃんの作品では、自然への畏怖が具現化されることが多いと思っています。相応の技術が発展していても、事故や災害で人が亡くなってしまう現実があって。そんな自然法則や、必ず訪れる死という現実と向き合って生きていく。

当たり前の日常、学校に通う、会社に出勤する、どこかへ出かける、用事を済ます

いつも通りの日々の裏側には、目に見えない自己犠牲があったりもして。
それでも、そんな誰かの自己犠牲には全く目もくれなくて。

淡々とした日常の外側に、抗えない「なにか」があることを気づかせてくれるのが、おっちゃんの作品だと考えます。

おっちゃん作品の主人公は、みんな利己的さと利他的さを併せ持っていて、好きになれる!すずめもそんなかんじ!

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