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若者はなぜ石丸伸二を支持したのか


都知事選のダークホース

 2024年7月7日、東京都知事選挙が終了しました。2週間の闘いぶりが繰り広げられました。結果は現職の小池百合子都知事が3回目の当選を果たし、3期目に突入することになりそうです。
 その中で今回の都知事選挙でダークホースとなった人物がいました。前安芸高田市長の石丸伸二氏です。かつて三菱UFJ銀行に勤務し、海外の駐在経験もある経済アナリストでしたが、後に政治の世界への扉を叩き、広島県の安芸高田市の市長を務めていました。
 石丸氏はYouTubeやTikTokなどのSNSを最大限に活用し、若者の心をつかむための選挙戦略を打ち立てていました。落選となりましたが、投票結果は小池百合子氏の2,918,015票についで1,658,363票を獲得し、2位となりました。選挙中は小池vs蓮舫の女性対決になる模様だと思われましたが、石丸氏が蓮舫氏の1,283,262票を上回る結果となりました。

 選挙戦の出口調査によると、10代・20代の4割、30代も少なからずおり、無党派層の37%も支持しています。総じて、4割の有権者が石丸氏に投票したのです。

若者がなぜ石丸氏を支持したのか

 では、若者はなぜ石丸伸二氏を支持したのでしょうか。
 2024年の東京都知事選で掲げたスローガンは「東京から日本を『経済強国』に」という力強いメッセージを届けました。「政治再建」「都市開発」「産業創出」の3つの柱を掲げた都政を行っていくと訴えたのです。SNSを駆使した選挙活動と15分の街頭演説を実行したことで、若者の心をぐっと掴むことに成功したといえるでしょう。

 しかしながら、10代から30代までの若者たちは石丸伸二氏の人物像をどれだけ知っているのかが理解できていないようにみえます。もし石丸氏が都政のリーダー、あるいは近未来の県政・国政のリーダーとなって牽引するようになったら、若者たちは本当に彼の公約を全面的に賛同できるでしょうか。

新自由主義の持つ危険性

 結論から言うと、石丸伸二氏は新自由主義(ネオリベラリズム)的思想の持ち主です。では、新自由主義とは何でしょうか。

国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府・民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする経済思想。

日本総研 経営コラム 『新自由主義』

 元々は思想家のハイエクが唱える「新自由主義論」から発端となりました。その代表例としてイギリスの首相マーガレット・サッチャー氏が提唱し、経済界や政界に浸透していきました。いわゆる「サッチャリズム」です。歴史学者の小関隆氏は以下のように解説します。

 < 国家の介入を縮減・廃止し、個人が市場で最大限の自由を行使できる条件を整える一方、自由の行使が招いた失敗や災難については自己責任で受け止めることを求める、これがサッチャリズムの基本であり、「責任を伴う自由」がキーワードとなる。サッチャーによれば、キリスト教が重視する個人にも自由が与えられるだけでなく、責任も求められている。「私たちに要請されているのは、どんな他人の罪でもなく、自分自身の罪を悔い改めることなのです。」いうまでもなく、苦境に陥ったからといって国家の福祉に頼ったり、労組に結集して数の力で要求をごり押ししたりすることは、「責任を伴う自由」に相応しいふるまいではない。>

小関隆『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』中公新書 p.203-204

 サッチャーが「英国病」と呼称されるほどの経済不況に陥ったイギリスを立て直すために徹底した政策を実行した結果、経済成長は実現しました。一方で、競争社会で挫折した者が痛みを伴うのも仕方がないという発想が残り、自己責任論に行きつくことになったのです。

 アメリカの場合はウォール街を中心とする金融資本主義を党是としており、これが「強欲資本主義」と揶揄されるようになりました。このような思想が政界や財界に浸透していった末、貧富の差が著しく拡大していったのです。
 要するに「役に立つか」「カネになるか」を価値基準とする社会です。そして競争で敗れた者に対しては「あなたの行動の結果ですから、ご自分で責任をとってください。」という自己責任論に辿りつきます。日本の場合はアメリカ型の新自由主義的な経済政策を敢行したのです。当時の小泉純一郎首相が政権を担っていた時に実行した結果、アメリカと同様に貧富の差が広がりました。

 石丸氏は銀行員出身であり、ニューヨークに駐在した経験もあることから、金融界のグローバルエリートと称されています。金融界で働いた者たちの大半は英米型の経済的合理性に基づいた思考で物事を判断しているのです。そして、徹底的に無駄を省きます。その意味で石丸氏は無駄を嫌うコスパ主義であり、「役に立つか」「カネになるか」の価値基準で物事を考えているのでしょう。ミレニアル世代やZ世代を中心とする若者たちも「コスパ重視」を徹頭徹尾行っています。このような価値観は石丸氏と波長が合ったため、都知事選でも優位に立てたのです。

自己責任論の弊害

 新自由主義的価値観を持ち、自己責任論を持ち出す代表的な人物は堀江貴文氏、箕輪厚介氏、田端信太郎氏、橋下徹氏、成毛眞氏といったビジネス界の強者たちでしょう。石丸氏もこれらの人物と同じ価値観だといえます。

 その中で実業家の成毛眞氏はこのように述べています。

 <「自己責任」という言葉が物議をかもして久しい。
 だが、その意味がいっそう重みをもつのは、むしろこれからだ。正真正銘、100%自己責任の時代になっていくだろう。
 国民全員に提供されるセーフティネットであるはずの社会保障制度ですら、破綻に向かっている。
 2021年7月のある新聞記事によると、後期制度(75歳以上の後期高齢者が入る医療制度)に対して、現役世代の加入者を中心とする企業の健康保険組合などが負担する支援金が膨れ上がっているという。
 要するに、現役世代からの召し上げである。65歳以下の年代では、何十年も支払った額よりも少ない年金しか受け取ることができなくなっている。今でも平均年金受取額は、厚生年金を含めて月14万円台だ。
 このままいけば、いつか年金制度は実質的に破綻するだろう。加えて将来的にインフレが進めば、老後の月額年金は現在の1万円くらいの価値に下落する恐れすらある。(中略)
 今すぐに社会保障システムを劇的に改良したとしても、効果が出るのは40年以上あとになる。しかも有権者は社会保障システムを劇的に改良することを許さない。
(中略)
 徹底的に節税しながらセカンドビジネスで所得を増やし、カネを節約して投資に回す以外に、老後をまともに過ごすことは期待できないかもしれない。
 平均寿命の伸びによって、これからの「老後」は30年近い長さとなった。しかし、制度は固定化し、仮に大きく舵を切ったとしても即効性は期待できない。
 特に今の現役世代は国を頼るのではなく、したたかに自分の身を守りながら、自分なりに楽しく幸せな人生をつくっていくことを考えたほうがいい。>

成毛眞 富山和彦『2025年日本経済再生戦略』SB新書 p.14-16

 社会保障制度がいまや脆弱なものとなっており、現役世代が高齢者の社会保障のかなりの割合を負担しているため、中長期的に年金が枯渇することになると現実的かつ悲観的な見方を示しています。人口減少が進む傍ら、年々増え続ける高齢者人口の増大に拍車がかかっていることを考えれば、現役世代の将来における社会保障は皆無に等しいか、劣悪なものになると予想しているのです。だから現役世代は国や昭和的価値観の持つ人間に与せず、「自分の身は自分で面倒を見よ」と主張しています。
 しかし、100%自己責任社会になってしまったら、日本人が受ける公共サービスはどうなってしまうのでしょうか。
 経済評論家の加谷珪一氏は過度な自己責任論に対し警鐘を鳴らしています。

 < すべてが自己責任ならば、企業にリストラされるのも自己責任なので公的な失業保険も不要となります。米国のように年金や医療も民営にしてしまえばよいでしょう。ちなみに、自己責任社会の頂点に立つ米国ですら、生活困窮者向けには公的な医療制度や年金制度などが整備されていますし、今の日本で年金と医療を民営化してしまったら、保険料は跳ね上がり、多くの国民が満足な医療を受けられなくなるでしょう。
 結局のところ、今、声高に叫ばれている自己責任論とは、弱者に対するバッシングを行うための道具に過ぎず、経済活動における自己責任とは異質のものとなっています。こうした歪んだマインドは、社会的に問題があるのは当然のことですが、健全な市場メカニズムを阻害するという点において、経済的な悪影響も大きいのです。>

加谷珪一『国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶』幻冬舎新書 p.43-44

 もちろん、成毛氏にはバッシングの意図がないにせよ、100%自己責任社会はますます生きづらくなる社会です。もっと言えば、最初から国に税金を払う意味はないという話になるでしょう。
 新自由主義・コスパ主義・タイパ主義・自己責任論を是認している若者たちは、果たして将来的に高額な医療費や保険料を支払うことが可能なくらい「稼ぐ力」を持っているのでしょうか。水道も民営化してしまえば、水道料金も高く跳ね上がるため、家計に直撃することになるでしょう。その状況に立たされた時、人生設計においても命尽きるまで支払いきれるくらいの潤沢な金を稼げる力を持っていると豪語できるのでしょうか。私には到底理解できません。(全ての若者が上記のような政治思想を持っているとは思っていません。)

マネーゲームに勝つための教育は子どもを幸せにするか?

 また、石丸氏は公約の中に「教育」を掲げていました。投資対象として公教育の拡充を徹底して行うと訴えました。小中高の学校教育の改革と教職員の働き方改革という軸に焦点を当てています。これらの内容がどのようなものなのかは不明ですが、新自由主義的な価値観を持つ石丸氏からすれば、グローバル競争におけるマネーゲームに勝つための教育を行っていくという意図が透けてみえます。

 あくまで私の見立てですが、「役に立つか」「カネになるか」の価値基準で物事を考える場合、小中高の学校をビジネススクール化すればよいという発想になるでしょう。例えば、国語の授業では文学作品を読み解く文学国語、習字、古文・漢文などの項目を廃止してビジネスシーンに特化したかたちで国語を教えるということです。マネーゲームにおいて役に立たないものは徹底的に排除しなければ、世界中のビジネスエリートたちと渡り合うことができないからでしょう。同様に数学や英語の授業もビジネスに直結するものとし、社会や理科などの科目を後回しにするのです。体育はスポーツのほかに筋トレを習慣化するということです。健康管理も投資の一つであるからです。
 高校の場合は稼げる分野に特化した科目を取り入れることになるでしょう。例えば、生成AIを使ったIT技術やデータサイエンス、プログラミングなどに該当します。

 学校の教職員の選抜も重要です。教職課程を修了した人材よりも企業経験のある人材を採用するほうが打ってつけです。例えば、ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレー証券などの金融機関で働いた人材を学校現場に向かえれば、経済合理性のある子どもに育てることができます。金融教育のほか、ビジネスに勝つための手法を徹底的に教え込みます。会計やITなどのビジネスに必要な知識を詰め込むことになるのです。こういった教育指導のシナリオが想像するのではないでしょうか。

 このようにマネーゲームに勝ち続けるための教育方針に切り替えれば、日本の学校教育はがらりと変わることでしょう。
 確かに私も日本の学校教育にはいささか良い思い出がありません。日本の学校は元来規律や我慢を強いることで集団行動を叩き込むという日本軍式教育が根本を成しているのです。「ルールを守る」「みんな平等」という同調圧力が何よりも嫌でした。おかげで自分の頭で考えることが苦手な人間になりました。
 テストの成績についての話を聞くたびに耳が痛くなることがあります。なぜ高い点を取らなければならないのかが理解できませんでした。親や先生に話を聞くと、「一生懸命勉強していい点数をとっていい成績を残せば、いい大学に入って、一流の企業に入って幸せになれる」というあたかもポジティブなフレーズをかけるのです。これが中学や高校に上がると、偏差値教育に踊らされるハメになったのです。「一流企業に入らなければ人生は詰む」という発想自体、個人の生き方を狭めるものであり、納得がいきませんでした。
 以上の理由から日本の学校教育は古い価値観に縛られ、閉塞感が漂う空間に成り下がったと言わざるを得ません。

 だからといって、マネーゲームに勝てるような教育に転換すれば、子どもたちは一体どうなるでしょうか。競争に勝てない子どもは次々と脱落していくでしょう。プライベートでもビジネスにおける損得勘定で判断しますから、普通の会話すらまともにできなくなるのでないでしょうか。
 例えば、恋愛にしても交際する相手を決めるとき、株式投資と同じような感覚で選ぶことになるのです。相手の性格や人間性すら認めず、「稼ぐ力があるか」「収入が高くて自信があるか」で人を判断するのです。このような価値観を持った人が増えたらどうなるでしょうか。海外から見れば異常な光景だと思うでしょう。

 果たして「役に立つか」「カネになるか」の価値基準に基づいた教育を受けた子供たちは大人になり、本当に幸せな人生を送ることができるでしょうか。

 今回の東京都知事選では、都政のあり方をどうすべきかが問われています。全ての公共機関を民営化し、ひたすら「役に立つか」「カネになるか」の物差しで決めることは、東京都がますます住みづらくなると思えてしまいます。

 確かに東京の利便性の高さは天下一です。おしゃれな服飾ショップやレストランも立ち並んでおり、アミューズメント施設も充実しているため、世界で最も憧れる都市であることは疑いようもありません。
 しかし一方で、映画『男はつらいよ』の舞台となる柴又のような下町文化が根付く街並みや漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)』で有名な亀有といった漫画文化が生まれた場所ですら「無駄だ」と割り切り、簡単に切り捨てられるものでしょうか。長年親しまれた文化は多くの日本人にとって「忘却の彼方へと消えていくべきだ。」とは考えにくいでしょう。

 効率重視の社会で生きていくことは長続きしないと思います。それどころか、ついていけずに撤退する者が増えていくのではないかと危惧しています。

 こうして、競争至上主義を徹底した社会はいつしか「無限競争」という罠にはまり、格差が深刻なものになっていくでしょう。典型的な国の例はアメリカだけでなく韓国も同様です。(韓国の格差社会の実態については金敬哲『韓国 行き過ぎた資本主義』(講談社現代新書)を読んでいただければ理解できます。)

 若い人たちには石丸伸二氏と同じように新自由主義的なものの考え方が果たして幸せな未来を描くことができるのか。再度考え直してみてはどうだろうかと私は考えています。

 <参考文献>
 小関隆『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』中公新書
 成毛眞 冨山和彦『2025年日本経済再生戦略』SB新書
 加谷珪一『国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶』幻冬舎新書

ご助言や文章校正をしていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。