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「やばい」と「めっちゃ」という言葉の頻用は言語の貧困化か -日本語の未来を考える-

言葉は品格が表れる

 このところ、「やばい」と「めっちゃ」という言葉を耳にする。令和時代を迎えて、日本人は知らず知らずのうちに2つの言葉を会話や文章で頻用することが多くなったという気がしてならない。これは時代の隆盛なのか。それとも、言語の貧困化が進行していることを意味するのか。

 私自身は普段「やばい」と「めっちゃ」という言葉を使わない。たまに人との会話につられて「やばい」を使ってしまうが、極力使わないようにしている。なぜか。自分の品格を疑われてしまうからだ。

 言葉というものは、人の性格や知性を表すことだと考えている。

 大方、世の中の意見は「人は見た目が9割」と言うだろう。だが、「人は見かけによらぬもの」と言うこともできる。

 ある交際相手と接する時、その容姿が良くて育ちも良さそうというイメージがある。しかし、実態は酒癖と女遊びがやたら酷く、だらしない性格が表に出たなと落胆してしまう。思わぬ落とし穴に嵌るのだ。

 言葉も同じである。ある話題について話をする時、語彙が豊富な人や多種多様な話題をネタとして保有している人は思考が深くて面白いと思う。話している相手の言葉を聞いているうちに、知性や品格を感じることができる。一目置かれる存在とみられる。

 例えば、「あなたは音楽に造詣が深いようですね。私も音楽に関してあなたから色々なことを学んでおります。尊敬の念をもっております。」という具合だ。まわりくどいだろうが、印象度は高くなる。

 逆に、中身が薄っぺらな人やありきたりな言葉・シンプルで相手の母性本能をくすぐるような言葉を使う人は品格を疑われてしまう。「ねえ、姉ちゃん。俺の店に来てぐびっと飲まない?うち、めっちゃ楽しいぜ。君もやばいくらい、はっちゃけちゃおうぜ!」「僕と一緒にくれば、君の人生はバラ色になるよ。」という具合だ。恐ろしい。「あの人、さては私のカラダを狙っているじゃんか!」と背筋が寒くなる想いになる。きざったらしいとはこの事である。
 果たして、どちらの人と付き合いたいと思うだろうか。

巷に広がる「やばい」と「めっちゃ」

 私は至る所で「やばい」と「めっちゃ」という言葉をよく聞くようになったと感じている。通勤中の電車の中でも中学生や高校生、大学生などの若者たちがこぞって「これ、やばくね!?」「それって、めっちゃ楽しいフェスじゃん!?」という話し声を耳にする。
 小説やエッセイでも、近年の作品には「やばい」や「めっちゃ」という言葉をよく目にするようになった。
 テレビ番組やYouTubeを観ていても、タレントや俳優などの芸能人からジャーナリストや評論家などの文化人まで「やばい」と「めっちゃ」を使っている。学者などの知識人もまれにであるが、使っている人がちらほらいる。そうでなければ、若者の心を掴むことができないからだ。

 年代についても、幼稚園や小学生である子どもから10代・20代の若者までの人々は普段の会話でよく使用している。私は若者だけの特有の現象かと思った。だが、そうではなかった。30代でも40代でも「やばい」や「めっちゃ」が増えている。50代や60代でも使用頻度が高そうだ。統計を取っていないから、全容は分からない。そこまで確信を持ったことは正直なところ、言えない。

 ついつい人につられて使用する気持ちは分かる。時代の趨勢なのかもしれない。だが、私は疑問に思った。これは言葉の貧困化ではないのか。このままの状態が続けば、日本語は衰退していくのではないかと。

「やばい」と「めっちゃ」の意味

 「やばい」は元々どういう意味なのか。日経おとなのOFF『おとなの語彙トレ』2018年5月6日号(日経BP社)では以下のような解説をする。

< [もと、香具師やしや犯罪者仲間などの社会での隠語]
 ①違法なことをするなどして、警察の手が及ぶ恐れのある状態だ。
 ②自分の身に好ましくない結果を招く様子だ。
 最近の若者の間では「こんな旨いものは初めて食った。やばいね」などと、一種の感動詞のように使われる傾向がある
(『新明解国語辞典』参照)>

日経おとなOFF『おとなの語彙トレ』2018年5月6日号 p.15

 要するに、物事について身の危険が迫ったり、犯罪を犯したりするときに使うのだ。それが若者の間では感情的な言葉としてずっと使われている。
 「やばい」という言葉を最初に使い、世の中に広く知れ渡るようになったのは川端康成である。

< もともと隠語だった「やばい」を小説で使ったのは文豪、川端康成。浅草で生きる不良少年少女を描いた『浅草紅団』(1930年発表)で、「私と歩くのはヤバい(危い)からお止しなさい」とカッコ付きで使われている。>

日経おとなOFF『おとなの語彙トレ』2018年5月6日号 p.15

 近年の若者は川端康成を知っている人がどれだけいるのか。少ないかと思う。だが、「やばい」の本家は川端康成だということは間違いない。

 一方で、「めっちゃ」は元々どういう意味で、なぜ広がるようになったのか。作家・翻訳家の樋口裕一氏は次のように解説する。

< この言葉は、もともとは「やばい」などと同じようにマイナスの面を語るために使われていた。「滅茶苦茶」という漢字があてられ、度外れなこと、筋道が通らないことを示すのに使われていた。ところが、近年では、関西の芸人を通じて広がり、プラス面、マイナス面いずれに場合にも度合いの強さを強調するときに使われているようだ。しかも、この言葉は、「めっちゃ大きい」「めっちゃ歩く」「めっちゃ赤」というように形容詞、動詞、名詞のいずれも修飾するので使い勝手がいい。>

樋口裕一『頭が悪くみえる日本語』青春文庫 p.140-141

 だが、樋口氏は日本人の語彙の貧困であると指摘する。

< 会社内、あるいは見知らぬ人の前でこのような言葉を使うと、その知性を疑われる。
 まず、「めっちゃ」という言葉そのものが語彙の貧困さを示すものでしかない。「これまで見た花と違って、紫の色合いがきれい」「そんなことされると思っていなかったのでうれしいです」「火がすごい勢いで噴き上がっていました」などと言ってこそ、聞いている者に状況を目に浮かぶし、しっかりした語彙で語っていることがわかってもらえる。ところが、すべて「めっちゃ」という、かつてはマイナス面を語るときに使われていたこの言葉ですまそうとする。語彙の貧困というほかない。
 しかも、この「めっちゃ」「めちゃくちゃ」という言葉は、それを使った時点で、その後に告げられる表現の語彙の質の低さまでもわかってしまうという点でも要注意だ。>

樋口裕一『頭が悪くみえる日本語』青春文庫 p.141-142

 手厳しいが、粛然とした気持ちになった。どうも若者から高齢者まで「やばい」と「めっちゃ」を実によく使う。日常会話やテレビでのコメントでも、聞いている人の想像を目に浮かぶような状況すら、これらの言葉で済ましてしまうのだ。
「やばい」と「めっちゃ」という言葉が氾濫する背景には何があるだろうか。

もはや「文学国語」は役に立たないのか

 私はこのような日本の言語事情が貧しくなっている背景に、若者を中心とした人々の「コスパ意識」と「タイパ意識」があるのではないかと考えた。

 令和の時代にいる現在、10代・20代・30代の若者は無駄を嫌う傾向がある。とにかく「コスパ」と「タイパ」を重視するのだ。

 理由は30年間に及ぶ日本経済の長期停滞にある。1990年代以降、日本経済はほぼ成長できないままでいる。実質賃金が20年以上下がり続けている。終身雇用や年功序列といった雇用システムはもはや古き形態になり、会社も労働者をいつまでも雇い続けることすら難しくなった。

 冷厳な社会で育った若者は「どんなに努力しても、仕事を頑張っても、心は疲弊する。無駄にエネルギーを消費するだけだ。」と考えるようになった。結果として、時間とお金の使い方を無駄なものにならないようにしようと心に決めたのかもしれない。ゆっくりと考える時間すらなく、生活にゆとりを持つことすら不可能に近い。

 すべての若者が無駄を嫌うのかと言えば、そうではない。「コスパ」と「タイパ」が割に合わない人もいるだろう。
 だが、これだけ鬱屈した状況下で若者は先々の不安を抱えており、結局のところ「無駄なことをしない。」と腹に決めている。「役に立つのか」という価値基準で物事を判断しているのだろう、というのが私の見立てだ。

 私たちが話す日本語は実社会で「役に立つのか」という視点で考えると、もはや次世代の日本人に日本語の奥深さや多様性や文学的素養が継承されず、徐々に衰退してしまうのではないかと危惧されている。

 学校では、文豪の作品を題材に扱った国語の授業が展開されている。古文や漢文も同じである。これらを「文学国語」という。だが、資本主義社会の下で「つまらないものだ」「そんなものはビジネスで役に立たない」とネット上で持て囃されるようになり、近年の国語教育についてSNSを中心としたネット論議では「文学国語や古文・漢文はもはや不要だ。」という声が浮上するようになった。

 文部科学省は従来の「文学国語」と「論理国語」の二つの科目のうち、どちらかを選択することができるようにすると公表した。「論理国語」では会社で扱う決算書やビジネス文書などの文章に触れる機会を増やし、実務に活かすための国語読解力を養う事が目的と定めたのだ。

 この案に政界や財界も賛同の声が上がっている。特に「論理国語」への期待は高まりつつある。実用的な文章を読みこなせるよう、学校教育で徹底して行わなければ、資本主義社会ないし競争社会で生きることはできないと考えたのだろう。

 しかし、国語教育の専門家の間では「文学国語の軽視だ。」として異論を展開した。日常会話や見知らぬ人に対して礼節を重んじた言葉・情緒的な言葉・人の感情を細部までに表す言葉・古来の美しい言葉が日本語の魅力である。それが廃れてしまえば、人の感情を読み取ったり、相手の心に寄り添うような言語感覚が失われてしまう。「役に立つ」という基準で決めてはならないと待ったをかける学者や教師もいる。

 また、『源氏物語』『枕草子』『古今和歌集』などの古典文学作品を日本の古語で読める人は東アジア文化圏の中では珍しいとされている。アメリカやイギリスなどの世界の国々でこれらの古典文学作品を研究の対象にするほど高付加価値のあるものだと賞賛されている。

 私は古文・漢文が苦手であり、古典文学を読み解いても「何の役に立つのか」と思ったのは正直な感想だ。
 しかし、『源氏物語』『古今和歌集』などの古典を味わい深い読み物として世界各国で読み継がれていることも事実だ。そう考えると、日本にとって日本語や日本の古典文学は「文化遺産」であるといえよう。

 アメリカやイギリスなどの英米文学作品が大学などの学校教育で教材として扱う授業があるのも、英語圏文学を継承していく責務があると考えている。それと同じだ。

 となると、世界からも文学作品が高く評価され、日本の文化の一つである「美しい日本語」の文化も社会的に価値があるものと見なす。

 果たして日本人は「文学国語」を「役に立たない」と安易に位置づけてよいだろうか。

日本語の「価値」は下がってきている

 学校教育において盛んにおこなわれている英語教育への熱は未だに高い。小学校から英語を学ばせるくらいだ。これはグローバル資本主義における競争で打ち勝つために、世界と戦える人材を送り出そうという大義名分で英語教育に力を注いでいるのだ。「今後も世界で対等に戦うためには英語力を身につけなくてはならない。」という名目である。
 一方で、肝心の国語教育はあまり熱心ではない。というよりも企業や役所で実務に役立つ「論理国語」を科目の選択に入れるくらいの政策判断だから、「文学国語」を選択する人は次第に減っていくのではないか。となると、日本語の「価値」は相対的に下がってきていると考えられる。

 若者は最近になって、言葉に触れる機会が減っていると言われる。新聞は読まない。雑誌も読まない。本も読まない。漫画すら読まない。これでは言語能力が培われない。その代わり、彼らはYouTubeやTiktokなどの短時間動画を見て、時間を効率よく使っているそうだ。内容によっては深い話になるかもしれないが、自分たちが「つまらない」と感じたものは観ない。言葉もシンプルな表現やわかりやすい言葉で解説しているので満足しやすい。
 若者全員が活字に親しんでいないわけではない。ただ、徐々に活字離れが増えてきているという。故に会話や文章でみかける言葉に「やばい」や「めっちゃ」が氾濫している。

 私はYouTubeやTiktokの存在を否定していない。時代の隆盛だから大いに活用しても構わない。ただ、そればかりでは言葉の教養を育むことができないと思う。

 いや、若者だけでなく全世代でも文豪や政治家がいくら美しい言葉・力強い言葉を使って伝えても、彼らは「学ぶ意味はない」と切り捨てるかもしれない。

 近年の日本政治の状況を見ると、明らかに言葉を大事にしない政治家が増えてきている。

 例えば、元首相で自民党所属の衆議院議員の麻生太郎氏は総理在任時に国会の答弁書を読み上げる際に「未曾有」を「みぞうゆ」と漢字を読み間違えた。それによって、社会人として恥ずかしくないように漢字ブームが到来した時代があった。
 また、同じく元首相で自民党所属の元衆議院議員の故・安倍晋三氏の語彙が極度に少ないとの指摘があった。安倍氏は視察先やイベント会場で地方の農産物を食べたときの感想を求められた。彼はきまって「ジューシー」と連発していた。メロンを食べたときの感想は「甘くてとてもジューシーだ。」と言った。シャインマスカットを食べたときも「ジューシーですね。おいしい。」と言った。食に関する言語表現の幅が狭いのである。
 彼らの発言を聞いていると、日本語に対する愛がない。

 政治家の言葉は社会にとって最も影響を与えやすい。故に言葉を慎重に選び、国民に納得できるような説明能力とその責任が求められている。ところが、不都合な真実を突きつけられると説明責任を果たさずに茶を濁そうとする。

 テレビやニュースなどでこのようなやり取りを見るたびに、「結局何も解決してないじゃん。口先だけか。」と唖然とした表情を浮かべる。政治に対する不信感を抱くのも当然だ。

 大手企業が組織上の不祥事を起こしたり、有名大学の部活動における暴力指導についての記者会見を見て、「被害者の心を分かっているのか!」と憤りを禁じ得ない。謝罪会見の場で釈明に追われる当事者の言葉を聞いても、心のこもった内容なのかといえば疑心暗鬼になる。

 年々社会問題が話題として取り上げる度に、国民は辟易しているのだ。こういった事情が続いてしまうと、若者は「何を言っても無駄」と感じてしまう。要するに、「言葉は単なる道具だから日本語の奥深さや多様性なんて、何も役に立たない。学ばなくていい。」と考えてしまう。コスパやタイパを優先するようになる。

 それだけではない。世の中に対して「おかしい」と思うことがあったら批判して然るべきだ。しかし、学校で批判的思考の訓練を受けずに過ごしてきたが故に、「異論を言ったら世間から外れるのではないか。」と恐れ、自分の気持ちや意見をうまく言語化できないでいる。

 これでは、若者の言語能力が育たない。その結果、言語の「貧困化」につながってしまう。

日本語の衰退を避けるために

 では、最後に日本語を衰退させないためにはどうすればよいかを考えてみよう。

 最初に話をしたように、語彙が豊富であれば他者から一目置かれる存在になれる。まずはモデルとなる人物を見つけることだ。

 例えば、元モーニング娘。でタレントの後藤真希さんの弟の後藤祐樹さんは端正なルックスだけでなく豊かな語彙力を持つ人物である。後藤さんは元々歌手だったが、芸能界を引退後に窃盗や強盗傷害事件を起こして逮捕され、5年6カ月の実刑判決を受けたのだ。

 服役生活の中で800冊ほどの本を読んでいたのだ。刑務所に入る前は全く勉強しておらず、漢字が読めなかったという。しかし、担当の刑事から小説を差し入れられたことをきっかけに読書を始めた。本を読んだり書いたりすることで徐々に言語力が培われ、家族から「最近、字がきれいになったね。漢字を書けるようになったね。」と驚きと喜びの声を聞き、「そう言われることが多くなったのは何より嬉しい。」と感慨深げだった。

 また、本を読むことで思考に影響が出たようだ。「考え方、発言の仕方がすごく変わってきました。自分の頭で考えたことを表現できるようになって、人に対して腹が立つことが減ってきました。」という。
 後藤さんの努力は実を結んだ。現在は地方議員として日々の政治活動に取り組んでいる。見事な復活劇である。
 単に語彙力を強化するだけでなく、論理的思考と情緒的思考のバランスを保つことができる。関心のあるテーマについて本を読んだことで興味を示し、人生の方向性を決めることにつながったのだ。
 こうした並々ならぬ努力は結果として人から好かれるようになり、応援されるようになる。気品高い人間へ生まれ変わることができる。
 だから、本や新聞を読んだりして外へ発信することで人生が変わることを後藤さんは証明したのである。

 次に豊かな日本語の表現力を養うために欠かせない方法は読書だ。国語教師の吉田裕子氏は次のような助言を行っている。

< 語彙を増やしていくための長期的な処方箋としては、やはり本や雑誌を習慣的に読むことが大切ですが、このときに読むべき本は、文豪の作品だけではありません。むしろ幅広いジャンルの本に触れることが大切です。ビジネス書を読めば最新のビジネス用語を知ることができますし、短歌や俳句の本を読めば風景や心情を描写する言葉に出会えます。>

吉田裕子『明日の自信になる教養④ 池上彰 責任編集 思いが伝わる語彙学』KADOKAWA p.70

 さらに、吉田氏は自身の読書体験からの学習法を紹介している。

< 身内の話で恐縮ですが、私の夫は会話の中で慣用句や故事成語を比較的よく使います。
 あるとき、その理由を聞いてみると、「『DRAGON QUEST ダイの大冒険』(集英社)で学んだ」と言うのです。私も読んでみたところ、確かに「コロッとてのひらをかえしやがった」(コミック第6巻)「軍門にくだってしまうとは」(コミック第5巻)「”つわものどもが夢の跡”をね・・・・・・」(コミック第5巻)などと、キャラクターがすぐに慣用句や故事成語を使います。こういう表現に感化される中で、語彙が自然と増えていたのですね。
 最近の作品なら、『鬼滅の刃』(集英社)は「生殺与奪せいさつよだつの権を他人に握らせるな!!」(コミック第1巻)のような言葉があったり、技やキャラクターの名前に難しい漢字が使われていたりして、小・中学生の語彙力アップにかなり貢献していると思います。
 マンガのようなサブカルチャーのコンテンツでも、ボキャブラリーの豊富なものを好きになると、語彙力が一気に伸びることがあるのです。

吉田裕子『明日の自信になる教養④ 池上彰 責任編集 思いが伝わる語彙学』KADOKAWA p.71

 文豪の作品に限らなくてもよい。『鬼滅の刃』や『呪術回戦』などのマンガにも語彙力を高める要素がある。だから、人にとって親しみやすい作品に触れて、何度も読んで言葉の力を育むことが重要だという。言葉の意味が分からないときは国語辞典やネットの検索で調べるようにすればよいのだ。

 最後に、我々日本人は日本語を内側から守る意識を持つことである。教育学者の齋藤孝氏は次のように述べている。

< 私たちは毎日使っている日本語という言語を、空気のように当たり前のものと受け止めています。しかし、「言語はいつまでも当たり前なのか」と問い直してみると、実は非常に不安定なものであるといわざるをえません。
 人類の長い歴史を振り返ると、過去には滅びてしまった言語が数多くあります。日本語も絶対に滅びないという保証はありません。
 言語はいわば生き物ですから、常に絶滅の危険にさらされています。現在の日本を見れば、日本語は安泰のようにも思えますが、将来を考えるとこのまま存続できるとは言い切れない状況があります。>

齋藤孝『なぜ日本語はなくなってはいけないのか』草思社 p.54-55

 その上で齋藤氏は過去の歴史を振り返り、国力に乏しい小国が大国に飲み込まれた事実を例に出し、このように述べる。

< 日本も将来的にどこかの大国に飲み込まれてしまうのではないか、という危機感を私は抱いています。現在、日本では人口が減り続けています。少子化が続き、若い世代が人口に占める割合も低下しています。経済的にも世界第二位の地位を中国に奪われ、縮小傾向に歯止めがかからない状況です。
 国力に先細り感があり、自国を守るという意識から遠ざかっている国がいつまでも安泰でいられるのか、冷静に考えると不安です。>

齋藤孝『なぜ日本語はなくなってはいけないのか』草思社 p.56-57

 このような懸念から、齋藤氏は日本人に日本語を内側から守る意識を持ってほしいという。文化を守るという意識が薄れると、必ず先細りになるからです。だからこそ、各々の人が母語を守る努力をするべきだという。

 これはアメリカやイギリスなどの英語圏の人間も同じ考えだ。言語を守ることは生まれた土地や文化を守ることになる。英語が世界中で人気を帯びるようになったのも、アメリカやイギリスからすれば好都合だからだ。最大の理由は「軍事的優位性」を担保するためである。つまり、強大な軍事力を持っていれば、国力の乏しい国はアメリカやイギリスなどの大国の圧倒的な軍事力を前にして勝てるはずがない。こうして、世界の言語地図を塗り替えてきたのだ。

 もし日本が大国に飲み込まれ、言いなりになってしまえば、母語である日本語は大国の言語政策によって廃れていく。そうならないために、大国間の競争の下で私たちはどうやって日本語の衰退を食い止めるのか。どうやって生きる権利を守っていくのか。この問題には正解がない。けれども、そろそろ事の重大さに気づかないといけないのかもしれない。

 以上の三つの事を念頭において、私たちは日本語の豊富さや奥ゆかしさを次世代に継承させるためのたゆまぬ努力が試されている。

<参考文献>

 日経おとなOFF『おとなの語彙トレ』日経BP社 2018年5月6日号
 樋口裕一『頭が悪くみえる日本語』青春文庫 2023
 吉田裕子『明日の自信になる教養④ 池上彰 責任編集 思いが伝わる語彙学』KADOKAWA 2024
 齋藤孝『なぜ日本語はなくなってはいけないのか』草思社 2022


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