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【試し読み】北欧ミステリーの新風!『デンマークに死す』アムリヤ・マラディ〈著〉

コペンハーゲンの私立探偵ゲーブリエル・ブレスト。中折れ帽にスーツを着こなし、夜はブルースバーでギターを演奏。キルケゴールを引用し、女性にめっぽうモテる元警官、と、ともすると嫌みなタイプなのに魅了されずにいられない主人公が登場しました。古き良きハードボイルドのにおいをまとう北欧ミステリーです。

『デンマークに死す 』
アムリヤ・マラディ[著]
棚橋志行[訳]

美しい女は、決まって災いを連れてくる。
コペンハーゲンの私立探偵ゲーブリエル・プレスト。
新たな依頼は、移民による右派政治家殺しの冤罪疑惑を探ること――。

1

現在

 すべての始まりは五月の夜。〈モジョ〉に入るなり黒髪の女に気がついた。

 飾り気のない暗色系のパンツスーツに真っ赤なソールの黒いハイヒール。くつろいだ雰囲気のブルース・バーにはおよそ不似合いな服装で、顔にはクールな微笑を浮かべている。そういえば、彼女はあの手の靴に目がなかった。自分を含めて何人かがバーカウンターへ目を向けたところで、女はブロンドヘアのリッキーに飲み物を注文した。

 目の覚めるような美しい顔立ち。金髪碧眼のデーン人の中に入ると、肌は浅黒い部類だろう。ウイスキーとおぼしきグラスを手に、部屋の端の喫煙ブースへ近づいていく。もう片方の手はポケットに入れている。女は自信をにじませながら壁に寄りかかった。一か八か運試しをしようかと考えている男たちに「本気で話しかけたいの?」と問いかけるかのように。

 コペンハーゲンのブルース好きが集う〈モジョ〉は、けっして派手でもシックでもない。目立たない小さな店だ。雰囲気がよくて値段も安く、一九八〇年代の半ばから毎日、ブルース(もしくはジャズやフォーク)の生演奏を届けている。もったいぶったところがなく、客が気にかけるべきは、ステージの視界が制限される柱の後ろの席に座らずにすむよう、なるべく早めに入店することくらいだ。

 バーの外にはたいてい、ビールと煙草を手にステージの出番を待っているミュージシャンたちがいる。ここはブルース・ミュージシャンの小さな共同体で、ほとんどがなじみの間柄だ。私は普段、自分のバンドで演奏しているが、木曜日のブルース・ジャム・ナイトには名もない奏者がやってきて、顔見知りや新顔たちとセッションしていったりする。毎回、演奏できないくらい泥酔して店主のトマスに追い出されるのが、一人や二人はいる。トマスは鉄拳と浅黒い顔に浮かべた人なつこい笑みで店を仕切っている。

 この夜最後のセットを演奏していた。私のギターで、ボビー・Kが「ブーン・ブーン」のラストを歌い上げた。

 今夜はジョン・リー・フッカー・ナイトだ。

 私のお気に入りの一曲、「ワン・バーボン、ワン・スコッチ、ワン・ビア」が始まると、私が目を離せずにいた黒髪の女は金色のウイスキーをゆっくり口にした。

 自分のソロ演奏が終わりに近づいて手拍手が始まったところで、彼女を見ると、向こうも私を見ていた。

「メンバーに拍手を。ギターのゲーブリエル・プレスト」とボビー・Kが紹介し、観客が拍手をくれた。お辞儀で応える。「そして、ベースのジョン・ラインハルト、ドラムのヌル・キマシ、私の飲み仲間のサックス、ヴァルデマー・ヴォングに、拍手を」

 デンマーク人と出会って結婚したあと、この街に移り住んできたケニア人のヌルが笑顔で観客に手を振って、マイクに口を近づけ、ヘビースモーカー特有のしゃがれ声で「おれたちの恐れ知らずのリーダー、天使を泣かせる歌声、ボビー・Kをお忘れなく」と言った。

 拍手がやんだところでボビー・Kが、のどを潤したらすぐ戻ってきて「シェイク・イット・ベイビー」とあと何曲か、珠玉のナンバーで今夜を締めくくる、と観客に伝えた。

 私はカウンターから自分のビールを取り、黒髪の女の元へ歩み寄った。

「いまもブルースをやっているのね」と彼女は言った。

 笑みを浮かべて、体を折り、形ばかりのハグをして、「やあ(ハイ)」と言った。

 彼女はひるまず、私のハグに積極的に身を乗り出すこともしなかった。握手でもよかったのだが、彼女の反応を見たかった。返ってきた反応から、自分が何を期待していたのかわからなくなった。

「元気だったか、レイラ?」

 彼女はうなずき、目をきらめかせた。「何時に終わるの? あなたの助けが必要なの」

 私は眉をひそめた。世の中に星の数ほど酒場はあるのに、彼女は私がいる店へ入ってきた(映画『カサブランカ』に出てくるせりふから)。あれから……十年近くが経ったいま。

「私の助け?」と返し、手持ち無沙汰を解消するためだけにビールを少量口にした。

「そうよ」と彼女は肯定した。

 必要ないとわかっていたが、答える前に一瞬、考える時間をつくった。私たちの間に何があろうと、あるいはなかろうと、彼女が助けを求めているなら力を貸すだろう。

「わかった」私は言った。「あと一時間かかる。急ぎの用なら……」

 彼女は首を横に振った。

「ジョニー・ウォーカーのお代わりをおごって」と彼女は空になりかけたグラスを持ち上げ、「待っているから」と言った。

「助けを求められているほうがおごるのか?」と言いながらも、バーテンダーのリッキーに手を振り、レイラのグラスを指差した。リッキーがうなずく。

「そうよ。待たせているのはあなたなんだから」彼女はそう言って空気を和ませた。いっしょに遊ぼうと誘っているかのように。

 バーテンダーがジョニーを手にまっすぐ向かってくるのを見て、私は微笑んだ。「リッキーに面倒をみてもらってくれ」

 戻り際、彼女に背を向けたとき、「ありがとう、ゲーブリエル」と彼女はささやくように言った。

 

 ギターを背負ってレイラの横で自転車を押しながら、〈モジョ〉と市庁舎から近いレンガング小路の〈サザンクロス・パブ〉へ向かった。朝五時まで開いているから、なじみの店だ。私みたいな宵っ張りの人間が、まだ家に帰りたくないときにここでたむろする。この店のバーテンダーが作るオールドファッションドは、倍の値段を取るコペンハーゲンの洒落たバーのデザイナーズカクテルに勝るとも劣らない。

 午前三時で、人通りも少なくなっていた。自転車を止めて鍵をかけ、赤外線加熱ランプが温めている外のテーブルに二人で着いた。椅子に掛かっている毛布を取って体を覆うことはしなかった。私の暮らす集合住宅から〈モジョ〉までは自転車で十五分ほどかかるから、バーバリーのトレンチコートを羽織っていた。夏の気配が漂うとはいえ、春の寒さはまだ抜けきっていない。ギターケースは横の椅子に置いた。

 喫煙者が外のドア近くに立ち、酔客たちの声が夜通し響いている。

 レイラは膝に毛布を掛けた。

「寒いか?」と訊いた。「中に入ってもいいぞ」

 彼女は首を横に振った。「だいじょうぶ」

 ウェイターが来ると、私はオールドファッションド、レイラはまたジョニー・ウォーカーを注文した。いまも生(き)で飲(や)るようだ。この夜三杯目だ、私が知っているだけで。レイラについてひとつ言っておくなら、彼女はたいていの人を酔いつぶすことができる。

「何かあったのか?」二人で腰を下ろし、飲み物を待つあいだに尋ねた。

「腕を上げたわね」とレイラは言い、そのあと微笑んで「ギターの」と付け足した。

 腕を上げた別のことに引っかけて言葉を返すこともできたが、安易すぎるし野暮だから、「時間と練習のおかげだ」と言った。

 レイラはうなずいたが、口は開かなかった。私も黙っていた。どうしてほしいのか、彼女から教えてくれるのを待った。

 レイラのことだ、私のところへ来たのはほかに手だてがなかったからだろう。二人の関係はハッピーエンドとはいかなかった。声を荒らげたり怒鳴ったりし、いさかいもしょっちゅうだった。彼女が物を投げつけてきたことも何度かあった。こっちも喧嘩腰で悪口雑言を浴びせた。だから物を投げつけられたのだ。十年も前のことだ。あれから二人とも大人になった。私はもう誰かと本気で恋に落ちたりせず、おかげで関係を終わらせる必要もなかった。何年か続けて自分の世界を揺るがす恋より、何カ月かで終わる恋のほうが修羅場が少なくてすむ。

「ほかの誰かに頼めるものなら……」と彼女は言葉をとぎらせた。ほかに手だてがなかったという推測は正しかったようだ。それでもどこか腑に落ちない。なぜかはわからないが。

 ウェイターが酒を運んできた。最初のひと口で私は喜びの吐息をついた。演奏後は気分が高揚しているし、あと一時間くらいは眠れないだろう。話を急かすつもりはない。いずれ話すだろう。裸体を目にする喜びを得た中でいちばん美しかった女と向かい合わせで座っていて、手には最高のカクテルがある─至福のときだ。

 彼女はウイスキーグラスをもてあそび、ひと口飲んでから、「ユセフ・アフメド」と告げた。

 うなずきを返す。

「彼が誰かは知っているわね?」と彼女は言った。

「ああ、世の中の動きを知らずに生きているわけじゃない」

「彼の弁護を引き受けたの。再審を請求するつもりよ」

 眉を吊り上げる。「あの事件は終わったはずだ、レイラ。その男は有罪になった」

 彼女は私の目をまっすぐ、ひたと見据えた。「彼がやったとは思えない」

「なあ、スカット、誰だって無実だ、無実でない人以外は」私はダーリンではなくスカットと呼ぶことで彼女を挑発した。デンマーク語のスカットには〝税金〟という意味もあり、〝愛しい人〟という呼びかけにも使われる。

 彼女は餌に食いついてこなかった。「彼はやっていない」

「陪審は有罪と判断した。あとは早期の釈放に尽力するほかない」と切り返した。「それが実現するとは思えないが」

「裁判のとき、わたしはロンドンにいたから、そのときは力になれなかった」彼女はかすれた声でささやくように言った。悔しさがにじみ出ている。「でも、こんどは力になるつもりよ」

「どうやって?」と、とまどい気味に返した。

 レイラはひとつ大きく息を吸った。「あなたにこの事件を再調査してほしいの」

「この事件? サネ・メルゴー殺害事件を?」

「ええ」

 調べても無駄だと繰り返したくなかったので、別のルートを試した。「なるほど。で、彼がやったとわかったら?」

 彼女は手のひらを上に向けて両手を上げた。「それならそれで仕方がない」

 彼女はウイスキーを飲み干し、空のグラスをテーブルに置いてウェイターに手を振った。

「なぜこんなことを?」私は訊いた。「どうしてこんな依頼を引き受けた?」

「彼の息子と知り合いだから……知り合いだったから」とレイラは説明した。「家族とも知り合いよ。彼らにとっては壊滅的な打撃だった」

 口を開かずにいた。どう言っていいかわからなかったから閉じたままでいた。黙っていたせいで失敗したためしはない。

 誰かがアンドレーアスとかいう男に大声で呼びかけた。そいつはろくでなしらしく、卑猥な言葉を返して、哄笑がはじけた。

 お代わりを持って戻ってきたウェイターが空のグラスを持ち上げた。もの問いたげに私を見たので、かぶりを振った。これ以上飲んだら自転車で帰れなくなる。もう三杯目だ、これを今夜最後の一杯にしよう。レイラは以前と変わらず、私より強かった。

「彼のことを知っていたら、サネ・メルゴーを殺したりできるわけがないと思うはずよ。そんな人じゃない。彼のことを誰がなんて言おうと関係ない。イスラムの男+怒り=人殺しみたいな図式にはめられただけ」彼女の言葉には怒りがこもっていて、その目には私を魅了してやまなかった炎が宿っていた。

 レイラは情熱的な女だった。何かを信じると、とことん信じる。短い時間だったが、彼女は私たち二人の未来を信じていた。

「報酬はうちの法律事務所が出させてもらう」

「ただ働きする気はないさ。やるとなればだが」

「やるつもりでいる?」と彼女は訊いた。

「その可能性は充分ある」と言うと、願ったとおり彼女は微笑んだ。十年経ったいまでもまだ彼女を喜ばせたい─その思いに少なからずとまどっている自分がいた。

「警察のお友達に話を聞いて、警察はやるべき仕事を全部したのか確かめて」と彼女は懇願した。

「警察にはあまり友達がいない、知ってるだろう」国家警察長官の悪行を密告した男は、えてして、かつての同僚にそっぽを向かれるものだ。

「彼の娘に会ってみて」とレイラは提案した。「父親が連行されたとき、彼女は十三歳だった。ソフィーと同じくらいの年頃よ」

 つまり、いまは十八歳くらいか。娘のソフィーは二十歳になったばかりだ。レイラはこの依頼のために奥の手を持ち出してきた。

「来週、あなたの事務所に連れていくから。とにかく彼女に会って……」レイラはそこで口ごもった。

 片手を上げ、あとを制した。「わかった。つまり、娘さんに会おう。だからイエスだ、この案件を調査し直そう」

「本当に? どうして?」

「きみの頼みだからさ」と、ありのままを言った。

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続きは本書でお楽しみください。


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