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【1/16発売 試し読み】『ロックダウン』ピーター・メイ[著]


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『ロックダウン』
ピーター・メイ [著]
堀川志野舞、内藤典子 [訳]


1-Ⅰ

 大主教公園(アーチビショップス・パーク)のいまでも健在な支援者たちは憤慨していた。健在ではない人々は、きっと草葉の陰で嘆いているはずだ。ランベス区民の憩(いこ)いの場である緑の小さな一画を保護するため、長年にわたって入念な計画が立てられてきたというのに、緊急の国会制定法で無に帰したのだ。ランベス宮殿の銃眼付き小塔の上に広がる暗には、旗が力なく掲げられていた。宮殿には大主教が居住している。だが、わずか六時間という短い静寂のあと、朝五時からブルドーザーが稼動しはじめているとあっては、大主教がまだ眠っているということはなさそうだった。ランベス区にこの公園を与えた前任の大主教たちにしても、安らかに眠るどころではないだろう。
 アーク灯が公園を照らしていた。かつて子どもたちが遊んだ地面をキャタピラートラックがかき回し、土をほぐし、子どもたちの小さな声のこだまは、いまでは機械のうなりにかき消されてしまった。サッカー場とバスケットボールコートを取り囲んでいた柵は引き抜かれ、打ち棄(す)てられている。公園の西側にある廃墟の横には、ブランコとジャングルジムの残骸が積み上げられ、撤去されるのを待つばかりだ。カフェになる予定だった古い公衆トイレの建物は取り壊されていた。時間との戦いだった。何百人という人間がこの作業に当たっている。十八時間の交替制勤務。文句を言う者はひとりもいなかった。報酬はたっぷり支払われている。使い途(みち)はどこにもないにしても。
 作業員は照明の下を無言で動きまわった。オレンジ色のつなぎにヘルメット、白いマスク姿。おのおのが自分の考えを胸に秘め、他者から距離を取っている。煙草はマスクの細かい繊維を通して吸われ、ニコチンで汚れた丸い跡を残し、吸い殻を入れるバーベキューコンロは常に燃やされていた。感染はあまりにも簡単に広がっていった。
 昨日のうちに土台のための穴は掘られていた。今日はその穴をコンクリートで埋めるべくミキサー車が続々と到着している。現場にはすでに巨大なクレーンが準備され、スチールの棒材を持ち上げて所定の位置に運べるようスタンバイできている。前日の午後には、歩いてすぐの国会議事堂から緊急委員会の代表団が派遣され、切羽詰まって認可することになったこの破壊行為を期待と不安を交えながら見守っていた。その顔は白いコットンの布で覆われていたが、目に浮かぶ不安は隠せず、彼らは無言で見つめるだけだった。
 セメントを攪拌(かくはん)する音と掘削機のうなりの中から、声が聞こえてきた。暗の中でひとりの人物が手を挙げて、作業を止めようとしている。痩せて引き締まった身体つきの背の高い男で、北西方向の角にあいた十フィートの穴の縁に立っていた。コンクリートシュートが大きく揺れて、振動しながら止まる。濃厚な灰色の泥を地面に吐き出す寸前だった。男は穴の縁に身をかがめ、闇を覗き込んだ。「あそこに何かあるぞ」と男が叫ぶと、現場監督がぬかるみを踏みしめながら腹立たしげにずんずん近づいてきた。
「ぐずぐずしてる暇はない。さあ!」ミキサー車のレバーを操作する作業員に向かって、現場監督は分厚い手袋に包まれた手を振ってみせた。「そいつを動かせ!」
「いや、待ってくれ」長身の男は縁から身を躍(おど)らせて穴に飛び降り、姿を消した。
 現場監督は天を仰いだ。「やれやれ。こっちに明かりを持ってこい」
 作業員たちが集まって穴の縁を取り囲み、三脚をガタガタ言わせてライトを下に向けた。長身の男は何やら小さくて黒いものの前にうずくまっている。男はこっちを覗き込んでいる作業員たちの顔を見上げ、まぶしい光に手をかざして目を隠した。「ボストンバッグだ」男は言った。「革のボストンバッグがある。ガラクタを捨てるのにもってこいの穴を俺たちが掘ってやったと思ってる馬鹿がいるらしい」
「ほら、そこから出てこい」現場監督がわめいた。「これ以上の遅れは許されないぞ」
「中身はなんだ?」別の誰かが呼びかけた。
 長身の男は袖で額をこすり、片方の手袋をはずしてバッグのファスナーを開けた。作業員たちはみな、自分の目で確かめようと身を乗り出した。そのとき、男は感電でもしたように、後ろに飛びのいた。「クソッ!」
「どうした?」
 何やら白いものが光を反射しているのが見えた。長身の男は顔を上げた。喘ぐような浅く短い呼吸になり、睡眠不足でもともと青白かった顔がすっかり色を失っている。「嘘だろ!」
「いったいなんなんだ?」現場監督はしびれを切らしかけていた。
 穴の中にいる男は恐る恐るもう一度バッグを覗き込んだ。
「骨だ」男はひそめた声で言ったが、誰もが聞き取れた。「人間の骨だ」
「なんで人間の骨だってわかるんだ?」誰かが問いかけた。その声はやけに大きく聞こえた。
「頭蓋骨がこっちを見上げてるんだよ」長身の男が自分の頭を上に向けると、皮膚が引き伸ばされ顔にぴったり張りついて見えた。「だけど、ずいぶんと小さい。大人にしては小さすぎる。きっと子どもの頭蓋骨だ」


1-Ⅱ

 マクニールはどこか遠くにいた。いるはずではないどこかに。暖かく、居心地がよく、安全などこかに。だが、頭の隅にどうも引っかかっていることがある、何かを忘れているような、何かを見落としているような、落ち着かない感覚だ。そうだ、何か月も出勤していなかったんだ。どうして忘れてしまっていたのだろう? でも、わかっている、こういうことが前にもあった。ぼんやりと覚えていた。ちくしょう、どう説明するつもりだ? どこにいたのか、どんな理由があったのか、どう話せばいいのだろう? ああ、まいったな。気分が悪くなってきた。
 電話が鳴ったとたん、彼らがかけてきたのだとすぐにわかった。電話に出たくなかった。だいたい、なんて言えばいいのか? ずっと給料は支払われていたのに、顔を出そうとさえしなかったのだ。マクニールの勤務時間を補うためにほかの連中が穴埋めするはめになったはずだ。彼らは怒り、非難するだろう。電話はまだ鳴り続けていたが、マクニールはやはり出たくなかった。「うるさい!」と電話に向かって叫んだ。だが、電話は彼の怒りをものともしない。マクニールが電話に出るまで、その着信音は彼の胸を突き刺し続けるだろう。額いっぱいに汗が噴き出してきた。何かがへばりついている気がする。振りほどこうとすればするほど、余計にへばりついてくる。マクニールは身をよじらせ、暴れまわり、息を喘がせ悪夢から目覚めた。短く刈った髪を枕の上で湿らせながら、恐怖に目を大きく見開いて天井を見つめると、デジタルで表された06:57という数字の光が浮かび上がった。家から持ってきた唯一のもの、ショーンからの贈り物、天井に赤外線の数字を投射するアラーム時計だ。これなら、眠れない時間を過ごすあいだ、時計を見るために頭を動かす必要がない。時間がどれほどゆっくり過ぎていくものなのか、空中に映し出される大きな時計が常に思い出させてくれた。
 もちろん、実際にこの時計を買ったのがショーンではないことはわかっている。マーサはマクニールがガジェット好きだと知っていた。でも、これをプレゼントすることで喜んでいたのはショーンだった。もらうことへの喜びと同じぐらい、与えるという行為に対して子どもだけが心から感じられるのであろう純粋な喜びだ。
 マクニールは汗びっしょりのシーツを振りほどき、ベッドの縁から脚をおろした。冷たい空気が身体を包んだ。しゃきっとしろ! 電話はまだ鳴り続けている。それに夢の中と同じように、いつまでも鳴りやまないだろう。ベッドサイドのキャビネットに手を伸ばし、受話器を取った。唇が歯に貼りついている。「もしもし?」
「マクニール、しらふだといいんだが」
 マクニールは口蓋から舌を引きはがし、気の抜けたウイスキーのにおいが息に混じっているのを嗅ぎ取った。両目をこすり、目やにを取る。「あと十二時間は勤務時間外ですよ」
「いや、もう勤務時間だ。連続してシフトに入ってくれ。今日で最後なんだから、できるだろうと思ってな。またふたりやられちまった」
「クソッ」
「ほんとにクソだ。この近くで誰かが殺されたんだが、派遣できる人間がほかにいない」
 マクニールは頭を後ろに傾け、空中の大時計をぼんやり眺めた。どっちみち、これから十二時間をほかにどうやり過ごせばいいものか、何も思いつかなかった。明るい中で眠れたためしがない。「何があったんです?」
「骨だ。アーチビショップス・パークの現場作業員たちが穴の底に人骨を見つけた」
「警察より考古学者の出番じゃないんですか?」
「骨は革のボストンバッグに入っていて、昨日まではなかったらしい」
「はあ」
「直行したほうがいい。作業を中断するはめになったせいで、当局がぎゃあぎゃあわめいてるからな。早いとこ片付けてくれ。厄介ごとはごめんだ」
 耳元で電話がひび割れるような音を立て、マクニールは顔をしかめた。レインがいきなり電話を切ったのだ。
 マクニールは踊り場の先にあるバスルームで歯を磨きながら、鏡に映る虚(うつ)ろな顔を見つめ返した。歯磨き用のマグカップにほかの連中の歯ブラシがまとめて詰め込まれている。マクニールは私物をすべて自分の部屋に置いていて、バスルームにあるものにはどれひとつ手を触れなかった。蛇口に触るときも、消毒液をスプレーして洗ってからにしているほどだ。髭を剃(そ)らなければ。それに、あと何時間か睡眠をとれば、目の下にできたくまも薄くなるかもしれない。だが、ここ数か月で受けたダメージは、どうしたって回復できないだろう。ストレスが刻み込まれた、四十歳にも届かない顔がそこにあった。こだわる気にもなれない姿だ。
 黒い無精髭に剃刀(かみ そり)をあてていると、隣の部屋から音がした。車の販売員だ。マクニールがここに部屋を借りることになったとき、いまでも一階に住んでいる大家がほかの住人たち一人ひとりについて説明してくれた。まずは、開業を禁止されているのにだいたいどんな病気でも必要な薬を用意することができるという、離婚歴のある医者。このご時世では特に、近くにいると重宝する存在だ。そして車の販売員。大家いわく、ゲイなのにそれを受け入れる覚悟がまだできていないらしい。さらに、鉄道労働組合の役員がふたり。ただしもう〝鉄道労働組合〟という呼称は使われておらず、いまではどう呼ぶのか思い出せなかった。ひとりはマンチェスター、もうひとりはリーズ出身で、ロンドンの組合執行委員会に何年も勤めている。組合はバールベック・ロードの家と長年提携しているらしい。この家に女性の住人はひとりだけだった。彼女はあやしげに見え、死神みたいで、麻薬をやっていると大家は確信していた。だが家賃は滞りなく支払っているので、非難できないようだった。
 そこは、生きているとも死んでいるともいえないある種の中間地帯、社会の隅に暮らしている、居場所を間違えた人間たちの奇妙な寄せ集めだった。ただ存在しているだけの者たち。引っ越してきた当初──あれは本当にたった五か月前のことなのか?──マクニールは部外者の気分だった。外から覗いている人間、つまり観察者だ。ここは自分のいるべき場所ではなく、長くとどまるつもりもなかった。だが、きっとここの住人の誰もがかつてはそんなふうに思っていたのだろう。そしていまや、マクニールも、彼らと同じく出口を見失っていた。もう外から覗いているのではなく、中にいて外を眺めていた。
 この地域を選んだのは、ショーンを連れてこられそうな場所だと思ったからだ。スラムなどではなく、ここには色褪(あ)せはしたものの気品というものがまだ少し残っていた。通りのはずれにはハイベリー・フィールズがある。ショーンとボールを蹴ったり、犬を散歩させたりできる公園だ。犬を飼っていたらの話だが。いくつかの通りの名前にも故郷の響きがあった。アバディーン、ケルヴィン、シーフォース、ファーガス。離れて久しいスコットランド風の響きには、どこか懐かしさがあり、ほっとできた。ハイベリー・コーナーのすぐ先にはスイミングプールがあった。大家の話によると、昔は風雨にさらされた屋外プールだったらしい。しかし、軟弱な世代の連中が周りを壁で囲み、上に屋根を付けた。これもまたショーンと一緒に、上質の時間とやらを過ごせる場所だ。それに、シーズンチケットを手に入れて、ふたりでエミレーツ・スタジアムにガナーズ(プレミアリーグ所属アーセナルFCの愛称)の試合を観に行くつもりだった。
 だが、ショーンの母親は息子をイズリントンまで行かせようとはしなかった。危険すぎるというのだ。この緊急事態が終わってからね、と彼女は言った。
 マクニールはコートを羽織り、襟を立てた。スーツはしわくちゃで、白いシャツは襟の上のほうがちょっとすり切れかけていた。シャツのいちばん上のボタンが取れていて、それを隠すためにネクタイはきつく結んである。手袋をはめ、階下の狭い玄関まで階段を駆け下りた。前までは、それもほんの一か月前のことだが、大家が戸口に顔を出して、おはようと挨拶してくれたものだ。だが、いまでは話す者などない。誰もがひどくおびえていた。


1-Ⅲ

 ドアを閉めるとき、上階の自室で電話が鳴っているのが聞こえた。マクニールはレインとはもう話したくなかったので、急いでポケットから携帯電話を取り出し、電源を切った。
 運転席に乗り込むと、車内はすっかり冷え切っていた。霜こそ降りていなかったが、結露でフロントガラスが曇っている。送風機を作動させ、カラブリア・ロードを下っていく。ラジオからは去年のヒット曲が次々と流れている。この二か月というもの、誰も新曲をリリースしていないからだ。間を置かずにどんどん次の曲が流れてきて、以前は早朝のラジオ放送でくだらない無駄話をしていたDJがいないのはありがたい。マクニールは七時半のニュースを聴き逃してしまった。
 いつものように、シティに入るルートは軍の検問所によって決まった。特定の地域はマクニールさえも立ち入りが完全に禁止されている。通行するのに特別許可が必要とされる境界線も引かれていた。南のペントンヴィルに向かって車を走らせ、ペントンヴィル・ロードを西に進み、ユーストン・ロードに入る。時刻は七時四十五分。遠い高層ビルの頂きをかすめるような低い雲を突き抜け、灰色の光が空気を染めていた。こんな状況でなかったらタクシーやバスや通勤の車が、街の動脈をコレステロールみたいに詰まらせていたはずだ。マクニールは空(から)っぽの通りにまだ慣れずにいる。早朝の光の下は、ぞっとする静けさだった。時おり、カーキ色をした帆布の覆いの下から見つめてくる、ガスマスクとゴーグルを装着した兵士たちの軍隊輸送車両とすれ違った。『スター・ウォーズ』の映画に出てくる顔のないトルーパーみたいで、いまやしょっちゅう使わざるをえないライフルを抱えていた。
 夜が明けたいま、街の指定されたエリアにおける移動は、必要な許可を取った私用車と商用車に限られ、監視カメラと衛星で追跡されている。略奪行為が横行する街の中心部は特に取り締まりが厳重だ。政府はかつての混雑課金制度のインフラを利用して、このエリアを出入りするあらゆる車を監視して取り締まっていた。マクニールは北の境界沿いに車を走らせ、ひとけのないユーストン駅を通り過ぎた。南に折れてトッテナム・コート・ロードに入るところで、監視カメラがナンバープレートを記録して、中央コンピューターにその記録を直接送った。通行許可がなければ、数分と経(た)たずに車を停止させられるはずだ。
 シティのショッピングストリートは戦場のようなありさまだった。ガラスを割られていない店は窓に板を打ちつけてあった。燃えた盗難車の残骸が道端でくすぶり、文明社会の名残ともいえる破片と残骸が荒廃した通りに散乱している。新たな暴力の夜がもたらした破壊の跡。トッテナム・コート・ロード駅の向かいにあるドミニオン劇場は黒焦げに燃え尽きて骨組みだけになっている。雨が降るたびに、この劇場で上演予定だった最後の演目『セールスマンの死』に関するものすべての焦げたにおいが、あたりに充満していた。オックスフォード・ストリートの〈マクドナルド〉も全焼した。直火で焼きすぎたバーガーみたいに。〈ハーモニー・ポルノショップ〉は何度となく強盗に押し入られているせいで、オーナーはもはや入口を板で塞ごうともしておらず、露出の激しい黒いレザー姿の美女が車で通り過ぎるマクニールに向かって挑戦的に口を尖(とが)らせていた。
 さらに南下すると、セント・マーティンズ劇場では『ねずみとり』の記録的なロングランがついに終わり、ネオンサインがすっかり粉砕されて壁から剥ぎ取られた劇場は、見捨てられて悲しげに見える。
 ケンブリッジ・サーカスの検問所でマクニールは車を止められた。そろそろ慣れてもよさそうなものだが、頭に六挺(ちよう)のセミオートマチックライフルを向けられるのはいつだって気分のいいものではない。無愛想な兵士がマスク越しにこちらをにらみつけ、距離を保ちつつゴム手袋をはめた手を伸ばして書類を受け取った。書類が汚染されているかもしれないとでも言いたげに──その可能性は十分に考えられたが──兵士は書類をすぐに返してきた。
 マクニールはチャリングクロス・ロードをずっと下っていき、トラファルガー広場を通り抜け、ホワイトホールに入っていく。ここはまだ活気があるほうで、曲がりなりにも行政官庁はいまも機能していて、政府は崩壊しかけている社会になんとか対処しようとしていた。首都に住む大半の人々が囚(とら)われているのと同じ暗い絶望感を抱え、権力の回廊にはマスク姿の男女が出入りしていた。
 川に近づくと、旧バタシー発電所の四本の煙突から、どんよりした朝の空に黒い煙が立ちのぼっているのが見えた。マクニールが想像もできなかった、容赦ない自然を前にした人間の無力さをはっきり象徴するものだ。これまでにいったい何人が死んだんだろう? 五十万人? 六十万人? もっとか? いずれにしても、そんな数字を誰も信じていなかった。真実だと証明する術(すべ)はないのだ。だが、どんなに楽観的な数字であったとしても、政府が発表する死者数は受け入れがたいほどの値(あたい)だった。
 朝八時のニュースが、ひと晩じゅう報じ続けてきた事件をまた伝えた。しかし、マクニールにとっては初耳で、大きな衝撃を受けた。深夜に、セント・トーマス病院の医師たちが首相の死亡を発表したのだ。首相のふたりの子どもはすでに亡くなっていて、妻はいまもなお危篤状態にある。首相が深刻な容態だったことは秘密でもなんでもなかった。それにしても、この国の最高権力者がこれほどあっけなく死んでしまうとすれば、残りの国民が生き延びられる見込みはどれだけあるというのだろう?
 ニュースキャスターは朗々とした口調で、今後は副首相と財務大臣による政党の支配力をかけた権力争いが予想されると報じていた。副首相はどうしても好きになれない嫌なやつだったが、一時的とはいえ首相の後任を務めることになるので優位に立っていた。こんな状況だというのに首相の座につきたいと思うなんて気が知れない。一部の人間にとっては権力の誘惑は抗(あらが)いがたいものらしい。マクニールは財務大臣がこの権力闘争に勝つことを密(ひそ)かに願っていた。ダウニング街十一番地(財務大臣公邸の住所)の現在の居住者は、ずっと分別があり知性と良心を備えているように思えたからだ。
 ウェストミンスター橋を渡り、軍の検問所をもうひとつ通過すると、テムズ川のサウスバンクにそびえ立つ十一階建ての建物、セント・トーマス病院のファサードが見えた。あのコンクリートとガラスの奥のどこかで、かつてこの国を治めていた男が死んだのだ。わが子から感染し、無力のまま冷たくなって。その向こうにある三つの病棟は、金、土、日と、さらに多くの病人でいっぱいになっているはずだった。以前は存在していたほかの四つの病棟が大空襲(ザ・ブリッツ)でドイツ軍に破壊されていなければ、道路を渡った先にある公園に臨時の収容施設を建てる必要もなかっただろうに。


2

2-Ⅰ

 ランベス・パレス・ロードの救急外来の向かいにあるバス停に、マクニールはフォード・フォーカスを駐(と)めた。以前はこのルートを四つの路線のバスが通っていたが、いまではその邪魔にもならないはずだ。
 アーチビショップス・パークの入口にあった門と柵は、建設業者が重機を運び込めるよう取り壊されていた。マクニールは法科学研究所から来た鑑識のロゴのないワゴン車に気づいた。研究所は、この公園の南端にある小道を少し行ったところにあるので、歩いたほうが早そうなものだが。
 首都のロックダウンにともない、法科学研究所は中心となる施設一箇所に集結させられ、警察が必要とする医学・科学捜査設備の大半はランベス・ロードにあったロンドン警視庁法科学研究所に集められた。いま、そこから派遣されてきた捜査員たちはマクニールの到着をじっと待っていた。
 マクニールは取り壊された公園をしげしげと眺めた。コンクリートとガラスばかりのこの街で、かつて小さな緑のオアシスだった公園には、引き抜かれた残のあいだに巨大な機械類が使用されずに置かれている。特徴的なオレンジ色のつなぎを着た何百人という作業員たちがいくつかのグループに分かれてたたずみ、おしゃべりをしたり煙草を吸ったりしていた。早朝の靄(もや)のかかった光の下、〈タイベック〉の白い防護服にマスク姿の幽霊みたいな一団が、本来であれば今頃はセメントを流し込まれていたはずの地面にあいた穴の周りに群がっている。マクニールが近づいていくと、スーツの上にふくらはぎ丈のキャメル色のコートを羽織り、白い安全帽をかぶった男が、慎重な足取りで泥をよけながらゆっくりこちらにやってきた。男はマクニールのものと同じ標準仕様の白いコットンマスクをしていたが、十分すぎるほどの距離を取って立ち止まった。「マクニール警部補?」
 マクニールも距離を保ちながら注意深く相手を見つめた。「そうですが、あなたは?」
「デレク・ジェイムズ。副首相府の者です。握手はしませんが、いいですよね?」
「ご用件は?」マクニールはいつでも単刀直入だ。
「用件は」ジェイムズは明らかにとげのある口調で言った。「この現場の作業を再開させることです」
「だったら、こんなおしゃべりはさっさとやめましょう。そうすれば、こっちもやるべきことをさっさとやって、あなたをやきもきさせずにすみますからね」マクニールはジェイムズの脇を通り過ぎ、幽霊たちが集まっているほうへ向かった。
 ジェイムズはやはり泥で靴を汚さないよう気をつけながら追いかけてきた。「わかっていないようですね、ミスター・マクニール。これは議会による緊急命令を受けて実施している作業だ。このプロジェクトには何百万ポンドも注(つ)ぎ込まれている。厳密なスケジュールというものがあるんですよ。遅れると人命にかかわりかねない」
「だけど、ミスター・ジェイムズ、もう死んでる人間もいる」
「つまり手の施しようがないというわけだ。それでも、ほかの人たちはまだ助けられる」
 マクニールはぴたりと足を止めて振り返り、副首相府から来た男と向き合った。相手は息を吹きかけられることを恐れるように、すぐさま後ずさりした。「いいですか。この国の人間は誰でも公平な裁きを受ける権利がある。生きていようと死んでいようと。それが俺の仕事なんだ。公平な裁きが下されるようにすることがね。こっちの仕事がすんだら、そっちもそっちの仕事をすればいい。それまでは邪魔しないでください」
 マクニールはふたたび背を向けると、防護服の捜査員たちのもとへと泥の中をのろのろ歩いていった。「いま、どういう状況だ?」
 マスクでくぐもった声が答えた。「骨の入ったかばんだ、ジャック。作業員たちは昨日この穴を掘ったばかりだったらしい。何者かが夜のうちに投棄したにちがいない」彼は、遠巻きにこちらを眺めている何百という顔を見まわした。「それと、ここの連中は俺たちをとっとと追い出したがってる」
「いずれ出ていくさ」
 防護服を着た別の者がビニールの靴カバーをマクニールに手渡した。「ほら、こいつをかぶせといてください」
 マクニールは靴にビニールをかぶせ、穴を覗き込んだ。すると、穴の底にしゃがんでいる男がいた。「そこにいるのは誰だ?」
「あんたの昔からの友人だよ」男は答えた。
 マクニールはぐるりと目を回した。「ああ、トム・ベネットか!」
 法医学者がにやっと笑うと、その顔にマスクがぴたりと貼りついた。
 マクニールはパチンと音を立ててゴム手袋をはめ、片手を差し出した。「降りるから手を貸してくれ」
 そこには、サイドに〈プーマ〉のロゴが入った高価なボストンバッグがあった。トムは手袋をした手でバッグを開き、隣にマクニールがしゃがみ込むと顔を上げた。「あんまり近づきすぎないでくれ。何に感染するかわかったもんじゃないからな」
 マクニールはその言葉を無視した。「中身は?」
「子どもの骨だ」
 マクニールは身を乗り出して中を覗き込んだ。骨はやけに白く、まるで日にさらされていたみたいだ。それは、かつては人間だった物体のかけらの悲しい寄せ集めだった。冷蔵庫に入れっぱなしのまま期限が切れてから一か月過ぎた肉のような悪臭がして、マクニールはたじろいだ。「このにおいはなんなんだ?」
「骨だよ」若き法医学者の目の周りに寄ったしわから、マクニールが嫌そうにしているのを面白がっているのが窺(うかが)えた。
「骨がにおうとは知らなかった」
「ああ、におうんだ。死後二か月か三か月経っててもね」
「つまり、この子どもは割と最近まで生きてたってことか?」
「これだけの悪臭がするってことは、つい最近まで生きてたんだろうな」
「で、肉はどうなった?」
「何者かが骨から剥ぎ取った。ずいぶんと鋭利な刃物を使ってね」トムは長い脚の骨を一本取り上げ、そっと両手に載せた。「大腿(だいたい)骨。太ももの骨だ。ナイフか何かを使ったのか、骨に刻み目が残ってる。かなり深くて幅が広いから重い道具だな」
 マクニールは骨に残った切り込みとくぼみを観察した。ほとんどが平行に、しかも斜めに刻まれていて、横から叩(たた)き切る動作を繰り返したような跡だ。「プロの仕業じゃないってことか?」
「骨から肉を削(そ)ぎ落とすプロっていうのが誰を指すのかはわからないが、仕事ぶりが雑なのは確かだ」トムは華奢(きや しや)な長い指でその骨の関節をなぞった。「関節をはずしたときに細切れになった肉と、取り除ききれなかった靱帯と組織の残りが乾燥してるのが見えるだろう」
 マクニールはもう一度バッグの中を覗くと、カーブした小さな肋骨(ろっこつ)らしきものを慎重な手つきで取り出した。首を傾(かし)げ、なめらかな肋骨の白い湾曲に指を走らせながら、怪訝(けげん)な顔で見つめた。「どうやって骨をこんなにきれいにしたんだ?」
 トムは肩をすくめた。「洗ったんだろうな。頭蓋骨をきれいにしたいとき、たまにやることがある。漂白剤と洗濯洗剤をちょっと加えて煮沸(しゃふつ)するんだ」
「それでも、においは消えないもんか?」
 トムはまたもや面白そうに目にしわを寄せた。「煮ようと煮まいと、骨はどうしたって腐敗するんだ」
 マクニールは肋骨をバッグの中にそっと戻し、立ち上がった。ふたりの会話を聞こうと身を乗り出している人たちの顔をちらりと見上げたあと、トムを見下ろした。「性別はわかるか?」
「まだ不明。でも年齢は九歳から十一歳のあいだってとこかな」
 マクニールは思案顔でうなずき、解体された骨格をどうやって検視するのだろうと思った。
 まるでマクニールの心を読んだかのように、隣でトムが立ち上がって言った。「当然、実際の検視はできない。できるのは、骨を並べて、手がかりを探すことだけだ」ほつれたブロンドの髪がひと房、静電気でビニール製のシャワーキャップにくっついている。トムの紫がかった青い瞳があまりにまっすぐこちらを見つめてくるので、彼よりも年上のマクニールは目をそらさずにはいられなかった。「もちろん、骨の位置関係については、僕は専門家とは言えない。肋骨を選(え)り分けることはできても、正しい順番には並べられないんだ。指の骨を識別できても、どれがどっちの手の骨か必ずしも区別できるとは限らないしね。そのためには人類学者が必要なのに」
 マクニールはあえてトムと目を合わせた。「何か問題でも?」
「彼女は病気なんだ」
「なるほど」
「でも、重大な骨の損傷やなくなっているパーツを見つけて、骨から組織を採取して毒物検査をすれば、一般的な見解を出すことはできる」そこでトムは口をつぐんだ。「エイミーに協力してもらうのはどうかな? 頭蓋骨は得意分野だし、身元の特定についても経験豊富だ」
 彼女の名前を耳にして、マクニールの心臓は一瞬止まりそうになった。動揺が顔に出ていないだろうか。ほんの少し赤くなっているかもしれない。トムにまじまじと見られているのがわかったが、何か感づいたとしても、トムはそんなそぶりを見せなかった。「うん、いいんじゃないか」とマクニールは答え、穴から出るのを助けてもらおうと、トムに背を向けて片手を伸ばした。
「気をつけて」トムがぴしゃりと言った。「僕に背中を向けるのは危険だと思ってるやつもいるからね」
 マクニールはゆっくり頭を振り向かせ、トムを見た。言葉というものを必要としない、暗く危険な顔つきだった。
 トムは笑みを浮かべた。「あんたは本当にタフな男だよ」
 低く垂れ込めている霧のように現場に静寂がのしかかった。首都の真ん中にあるこんな場所で、まったくもって異例の事態だ。車の騒音もなく、何気ない会話や遊びで発せられる大声も聞こえず、ガトウィック空港かヒースロー空港を目指して旋回する飛行機の、上空から聞こえてくるジェットエンジンのうなりもない。聞こえるのは北海の荒天から逃れようと入り江を飛び立った悲しげなカモメの鳴き声だけで、頭上を旋回している白い塊(かたまり)はまるで死を待ち構えているハゲワシみたいだった。
 死はすでに訪れているものの、その骨にはしゃぶり取れる肉が少しも残されていなかった。
 マクニールは自分を見つめているすべての顔に気づいていた。副首相府から来たあの男が、胸の前で腕組みしながら離れたところに立っている。「どうですか?」
「全員、この現場から出ていってもらいます」マクニールは言った。「ここを封鎖して捜索する」
 副首相府の男は首を傾げた。その目に浮かんだ怒りを隠しきれずにいるようだ。「厄介なことになりますよ」
「言われたことに従わない者がいれば、それこそ厄介なことになるでしょうね」マクニールは現場の全員に聞こえるよう大声で言った。「ここは殺人現場だ」


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