あれも、これも、書いたらいい
「こんなん書いて、誰が読むねん」
これ、自分の気持ちや考えを、世に発信しようとしたことがある人ならいちどは自分にぶつけたツッコミなのではないでしょうか。
ちなみに私はほぼ毎回、思います。
自分が書いたもの、読んだもの、見たもの、それに付随してわきあがる自分の感情。
そういうものをSNSで発信しようとすると、どうしても自意識が働き、冒頭のツッコミをばしんと胸に入れ込むわけです。
自意識過剰な私はいつも、発信によってちょっとばかり「すごいながたさん」になろうとする。自分をよく思ってほしいという業がメラメラ燃えてるんですねぇ。
自分が持ってる情報や考えが、小さくちいさく思えてしまう。価値のないものだ、と。
で、書けなくなっちゃう。とほほ。
あなたが感じたことは、めっちゃユニークやで
でも、実は個人が考えたことは、とってもユニークなんですよね。「こんなん誰が読むねん」の「こんなん」は、誰かにとっては目からうろこの情報かもしれない。
感性のユニーク性は、子どもたちの作文を読んでいて特に思います。同じテーマでも、着眼点、感じたこと、それにともなって出てくる言葉はひとつとて同じものはない。(特に年少の頃はよけいに)
そういう子どもの素直な表現に触れるたび、「おっもしろいなぁ!!」って思っている私。なのに。
自分のことになると、自分自身の感性を過小評価しちゃってるんですね。かなしい。
私が子どもたちに常々伝えてきた
「あなたの感覚を通してみた世界は、あなたならではものだから。自信もって、何でも思ったこと書いたらいい」
これを私に教えてくれた人がいました。そう、パーソナル編集者のみずのさんです。
あなたがそのとき見てたこと、ちゃんと「書ききって」ほしいんですよ
みずのさんと行う月イチの1on1セッション。ここではまず、その月にあったこと、最近のようすなどなどを聞いてもらいます。
一見、創作や発信には関係のなさそうな話もたくさんします。ここでみずのさん、いろいろな質問を投げかけてくださいます。例えば…
「そういえば、ながたさんはなんでライターなんですか。」
ゆるゆる進む、おだやかなセッションのなかに、たまにぶち込まれる本質的な問い。「え、えっとですね……。え?あれ、そういえばなんで?」とたじろぐ自分にたじろぐこと、多々。
いや、答えようと思えば答えられます。でも、みずのさんにお話しているうちに、なんだかどれもしっくりくるようなこないような感覚になるから不思議。
じゅうぶんに考えてきた、と思ってきたことがらに対してさえ、自信が持てない自分がいることに気づいてしまうんです。
で、ここから始まる自己対話。自分がいま、選んで従事している職業を選んだいちばん大事な理由を探すことになるんです。
みずのさんとのセッションではこのように、「考えているようで、考え切れていないこと」に気づくことがほんとうにたくさんありました。
他にもみずのさんの質問にははっとさせられることが。
それ、食べたとき、どう思ったんですか。
なんでそれを選んですか。
よくよく考えると、そういえば、ナンデ?
いかに、日常を雑に、流れるように生きてきたのかを気づいたときはちょっとしたショックもありましたが、でも自分を生きるためには必要なことだったと思います。
自分を生きるって抽象的な言い方ですが、自分に対する問いをもつことで、自分の感覚に敏感になり、ひとつひとつの選択に主体性を持つことができた気がします。
みずのさんがよく、こう言われました。
「そこ、そのとき見てたこととか、書ききってほしいんですよねぇ。」
そこからというもの、ちょっとおもしろがるような感覚で、私は自分をみつめるようになりました。
心にちいさなみずのさんがいる
問いを立てる力が育った!とはまだまだ、おこがましくって言えません。ただ、問いを立てる「意識」は芽生えている、気がしています。
自分自身に対する解像度が少しずつあがっていっているとも言えそう。
こんなん書いてもなぁ…
と思いたくなるとき、自分からちょっと逃げたくなるとき。私のなかの、小さなみずのさんが言います。「それ、書いてみたらいいんじゃないですか。」と。
だから私はこれからも「自分が思ったこと」「自分が感じたこと」、小さな「自分」も見つけてしっかり書いていきたい、と思っています。
心に小さなみずのさんを住まわせて。
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