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私が子どもたちに伝えられる(かも)しれない、大切なことがら

約8年ぶりとなる二女の出産に際してのあれこれをレポートしています。
part1はこちらで

part2​はこちら

手術を無事に終えたことを聞き、少しずつ眠れるようになってきた私。うっすら見る夢には、二女が出てくる。泣いている彼女を、長女と一緒にあやしてる、そんな内容。

早く抱っこしてあげたいなぁ。
オムツ替えたい。
声が聞きたい。
手を握りたい。
ほっぺた触りたい。

そんなことばっかり思っていた。新生児育児は特にたいへんなのだけれど、この時にしかできないことをいろいろしたかったなぁ。毎夜毎夜、直接は何もできないかわりに、そばに行ってナデナデする妄想をする。

すると、何となく、あくまで何となくでしかないのだけれど、とっちゃんが私に話しかけてくる気がするのだった。不思議。


とっちゃんを信じてねー

まるで、そんなことを言われているような。

母がたびたび、「あんたら夫婦なら、充分育てられると思って神様が授けてくださったんやで!」と言ってくれた。そうやといいなぁと今も思っているのだけれどね。

スケッチ作文

命は、それだけで希望

二女との出会いは、とても大きな気づきを私に与えてくれたと思っている。正直に言うと、私は娘が産まれてからずっと、“不安”だった。それは、ありのままの娘のことを、受け入れられないのではないか、という不安だ。

病気や何らかの障害が、また新しく見つかったらどうしよう
他の子と比べてしまうかもしれない

とかとか。
私はずっと、自分が主宰する作文の教室の中で、「どの子もありのままで尊いし、何かになろうとか、足りないところを埋めようとか、そんなことしなくていい」と伝えてきた。むろん、そこにウソはありませんよ。どの子も、“すでに”持っている尊い感性を、引き出すのが私の役目だとも思っている。

でも、いざ二女を目の前にして、私が感じていた大きな感情は“不安”だった。それが自分でも情けないというか。誰かや何かと比べ、足りないもの(おけつの穴)に焦点を当てる。多様性が大事、とか、弱さを活かすとか、大きな口で言ってた私が聞いてあきれるじゃないか!

ただ、ひと呼吸つけた今、落ち着いて、改めて、思うこと。それは、やっぱり、「生きているって、もう、それだけで希望」なんだということ。条件とかは、いらない。何をするから、とかじゃなくて、何かができるから、でもなく。

お尻の穴ひとつにしたって、そこにある事って当然のように思ってるけれど…


否!

実は、すごく奥深いこのお尻の穴。様々な神経が複雑に影響しあって、ようやく肛門からウンチが出る!それを、みんな、しれっとしてる。しかも毎日。(人によっては一日何回も)すごいよ、肛門。すごいよ、人間の命って。

繰り返しになるけれど、生きていることは、希望。事実、私は二女が、日々生きていて、少しずつ大きくなっていく過程に、勇気をもらう。生きているということは、それ自体が、誰かの希望になり得るのだ。

これは、私がずっと言ってきたこと。ここにきてようやく、ふわふわとしていて、抽象的だった言葉が、がっちりと、体感を持って使えるもの、になりった。いや、なったと思いたい。「命は希望」これを、これからの人生で、しっかり体現しながら生きていきたいな。

二女は、改めて大切なことを、本質の部分を、私に教えてくれたのかもしれない。あんな小さな身体で。オケツの穴詰まるっていうユニークな方法で。

これから、私ができること


ご飯食べれるって嬉しい。
ウンコが出ること、オシッコが出ることってすごい。

そんなことを、当たり前のことを、これからいちいち喜びながら生きていける。子どもたちそれぞれが見せてくれるひとつひとつの表現を、今まで以上に楽しめる。尊いと思える。そしてそのことを、今の私なら、全力で彼らにも伝えられる!!

今後しばらくは、育児に比重を置くことになるだろうけれど、仕事を本格的にリスタートする時は、今まで行っていたマンツーマンでの授業に加え、グループでの開催も積極的にトライしたいなと思っている。仲間同士で表現を披露し合うって刺激だし、お互いがお互いの存在の尊さを認めあえる、私の作文教室は、そんな場所にしていきたい。

***

出産レポは、ここにて幕!ですが、引き続き、娘たちの成長、時々書いていきたいと思っている。鎖肛っ子あるある、とか?誰か読んでくれるかな。


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