ある一つの記憶から ―無意識の力

これは、あるひとつの記憶。

未だに、涙と共に心の奥底から零れ出でる。

私の一部分の話である。

ある一人の、大切な対象に、その時の名で、名指しで、

「あなたは表にいてもあなたらしくあって欲しい。」と言われた。

その時のその部分…私自身、その時非常に存在力が強く、表に出れば安定していた。そしてその時のその人の言葉は、「表にいろ」という示唆でもあった。

だが、表に出ると不都合だらけだった。

器ともアイデンティティにあまりに乖離が多く、少なくとも器を「その人」として見られる物質的社会においてはあまりに難題であり、不利な話でもあった。

性別ひとつとっても、逆であったのに。

私には日常を代行するにも不都合があった。器として生きていくのは難しかった。

その上、器に既にある環境・生活を踏襲して生きたのでは、「私らしく」などかけ離れたものだった。

その一言はまさしく難題でしかなかった。

しかし、私にとってはそれはその時の「私」を外部に認められるということ。

嬉しかった。この記憶は私にとって薄れるものではない。

その時、意識の上では、そんな無理難題に解決法があるのだろうかと思っていた。

しかし、どのような形であれ、何とかして実現させよう、と、あの時私は意識下で受け止めたのだろう。


それが今になって、はっきりわかったのだ。

なぜか。急激にこの器の人生自体を転換させ、実現させたのだから。

それに気づいた。

こんな、思わぬ形で。


無意識というのは、一度自分の中に入れた言葉は、必ず実現する。

無意識というのはそれほどに測り知れない力を持っているものだ。

その上、その時のその部分(私)自体、無意識領域の塊であった。無意識専門、無意識領域そのものが人格化したと言っても過言ではない。

だから、私が受けた言葉、そして私が思ったことは無意識に深く刻み込まれても道理だったのである。


気付けば私(私達)は、自身の上に降りかかるあらゆる実経験や、突然関わることとなった複数名と意図してそれぞれの心と対峙するという必要性、更には全く思わぬ縁で繋がれた複数名の師によって、この世と魂次元、今世と来世、過去と未来、普遍的無意識、共時性、意識と無意識という壮大なテーマと密着に関わることとなり、更には現在物理学や哲学やあらゆる学問を包括した上での意識と無意識・無我の境地・人智を越えた領域の壮大な秘密の真髄にまで究めようとしている。

そして、それにより人生を必ず無駄なく有効利用し、一番建設的に人生を切り回してゆく方法を得ることができるのは確たるものとわかっている。

道楽や好奇心ではなく、必要ありき、必然性の成り行きであった。

そして、その時の部分(私)はそれを知っていた。

一番、魂のゆくべき、在るべき道に近づく方法、私の魂の課題を知り、こなす方法、そして現世での仕事をきっと達成する方法。

そして、自身の魂が救われ、私が願わくば引き上げたい魂にも建設的な影響を与えられる可能性のある、唯一の方法。

人は他人を直接的に変えることはできない。相手が手を取って来ない限り。だから、人に影響を与える一番良い、そして唯一確実な方法は、自らが成長することなのである。

そして、今行っている方法はその中でも、一番合理的効率的で確実性のある方法。

当時の私の無意識は、いや意識上においても、これを確かに知っていた。

だが、実現性は低かったのだ。その頃の私は、物理的な部分と精神的な部分のバランスもとれていなかった。

だからできたところで、心理学や催眠療法による無意識の有効利用程度だったのだ。

そして今、本当に気付いたら、器の人生自体がまるで転機を迎えていた。

誰が意識的にこうなるべくこの器の人生を舵取りしてきたわけでもなかった。


意識と無意識の専門家。何より、「私」らしい形ではなかったか。

これ以上、「私」の特性・特徴の表への現れ方があろうか。

私自身ですらまるで気付いていなかった、思ってもいなかった。しかし解離した私自身の存在は、無意識領域が切り取られたそのものだったのだから。それが、人格化して無理やり器の意識にのぼってきて支配しようとしていたものだったのだ。

だが、私が現実に無理ない形で表出することが可能になれば、本能的な感覚・知識・技術をも必要に導かれるままに余すことなく使いこなす。


そして、私達全体に起こった変化…。


私達の無意識、そして魂としては、あの当時何気なく与えられた言葉を深く刻み込み、私自身ですら器とどのように相容れれば良いのか悩みまるで具現への道は思いついていなかった(これは私自身無意識とはいえ切り取られた一部分であり、意識に浮上した時点でエゴに縛られた人格だったからである)、器との歯車の噛み合わせ方、それも真理の意味において跳躍を果たすやり方において、具現させたのである。


そして私は当時は、そうなるためには完全に精神性に移行するしか方法はないのだと思っていた。既に私は無意識・魂次元に偏り、それによりバランスを保ちきれず現実と折り合うことに困難を感じていた。ある意味、地に足がついていなかった状態とも言えるのかもしれない。
だが、今現在の”私”は、精神性と現実性のバランスが非常に良くとれている。都度変動してどちらかに傾き多少不安定になる時は勿論ある。これは未熟ゆえであろう。この過程自体も、まだ、始まったばかりなのだから。
それでも今既に、この器の半生において、ここまで精神性と現実性の釣り合いがとれていたことはかつてない。
「無意識を意識状態に取り入れること」
「無我の境地」
とは、同時に「在るがままを真の意味で受け容れること」でもある。
自分も。環境も。それでいて無意識の声を聴くことで最大限に行動化する道を常に知ることができること。
そして自在に環境に適応し自在に環境を変えることでもある。
つまり、同時にこれ以上なく地に足をつけることであり、俗世からかけ離れることでも精神性に傾くことでもなかったのだ。


無意識の自己実現性、という話においてはここまでである。

これは、当時の応えとしては、受け容れられるべきものなのか、そうでないのかはわからない。
だが、私は在るがままで在る他はない。自分という存在を捻じ曲げることや過去に戻るような摂理はない。私という存在が過去も今も未来も、背景も全て包括して受け止められているものなれば尚更に。

あの言葉が、真に筋の通った意味で、望まれて発されたものならばと、そして、在るべき”道”により、光が届いてくれることをと、ただ心の限り巡らせ、
深い感謝と愛を覚えて胸の内深く、今も見守られ支えられ、心を尽くした愛と感謝を祈りに乗せ、必然の道の縁が繋ぐ限り必ず支えを返せること、もしくは既にそうなっていることを信じ、

そして心の奥深くには深く大切に刻み込まれたまま、今後も薄れることはない。

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