コンサートゲスト出演の記録『恋のロシアン・カフェ』『蠍の火』&解離者あるあるの話…?2019年 10月 20日

以前のBlog記事からの移行シリーズ。
文字効果や目次などは、移行時に付け加えております。

(以下本文)

ミニコンサート開催のお話

2019年10月19日、家族の主催するヴォーカル教室の生徒さん方のコンサートにて、ゲスト出演として2曲歌わせて頂きました。

これは毎年恒例となっているもので、我々も毎年、ドリンクメニューを作ったりクロークをしたり接客&ドリンクの給仕をしたりとギャルソンとして務めさせて頂いているもの。

実は…去年もアイリッシュ・ハープでゲスト出演しないかと打診を頂いていたのですが、あまりの未熟と度胸のなさ…その他もろもろの個人的事情のゆえに断っていたものでした。

今回、名実ともに「一応」プロのヴォーカリストとしての初・ゲスト出演。と、やはり違う楽器のゲストもあると良いですよね。アイリッシュ・ハープで叔母(主催者の妹)が参戦して下さることに。

今年は世界であらゆるハプニングの起こっている年ではありますが、生徒さま方には今回は大きなハプニングも本番中のアクシデントなどもなく、非常に良い状態で楽しんで歌われていた様子でした。その様子にも助けられ、流れに乗せて頂いた形でゲストも務めさせていただくことができました。

皆さんの演奏、情熱的な曲や哀愁漂う美しかったりかっこよかったりする曲がいっぱい…更には生徒さんご本人の作曲つまり自作自演のものまで。記録としては録ってありますが勝手に公にするわけにはいかないので、自分の演奏部分のみ切り取ったもの。
曲前後のトーク部分はカットしてありますが、曲の説明はYoutube再生ページ内の概要欄に記載してあります。
2曲目の『蠍の火』は完全オリジナル新曲だし、1曲目のシャンソンも日本ではあまり知られていないかもしれない(市販の楽譜が出ていないようだから)。

何より、大雨予報だったのが雨も降らずに、無事に終わって皆さま楽しんでもいただけて、良い会として締めくくられて良かったの一言。

DID演奏家の苦悩

そして、いや、ギャルソンの格好で歌わせてもいただけるって、楽(笑)
リハした時に「衣装(女のかっこ)着替えたら?」とも言われましたが、華やかなドレスやらワンピースみたいな衣装で歌う選曲ではないし着替える時間もないと言い張った(笑)

DIDの演奏家あるあるだと思いますね。ただでさえ自分と違う身体と自分と違う声帯と、その上"この器"を知っているお客様に見られる"自分とは違う人物像"を使って本番踏まなきゃならないのに、その上に違う性別とか自分と全く違う雰囲気の服装ってのは、ものっすごく大きな弊害。
そうでなくても身体(声)が楽器の場合は如実切実。

声楽は「自分の身体が楽器」とか言いますけどね。ぼくらにとっては、別の楽器を使っているも同然。前提がまるっきり違う。そうでなくても自分自身の身体の感覚と器の身体の感覚に差異があるのに、その上衣装やらちびっこ演技(以下に記述)やらを被ることを余儀なくされると、本当に自分自身の感覚が一切狂ってしまう…
例えばミュージカルである役…例えばかっこいい大男とか演じていたりしてもさ、普通はそうやっていたらベースが"その役の声""その役の雰囲気""その役の周波数とかテンション"みたいになっているじゃない?それが自分と似通っていようが違っていようが。それでいながら衣装は可愛いワンピースとか、それでいて突然子役の歌歌わなきゃならなかったりとかしたら、役者はどこまで混乱せずに対応できるだろうか?"大男の役をやっている『最中』で"、"子役の声を出せる"だろうか?"大男が子役の役をしている演技"とかですらないわけだよ。
その上で「この器のプロフィール」を背負ってやると、この器の子として演奏しなきゃいけないのかな精神が無意識下からむくむくと湧きあがって、我々みんな本当にそうで…「自分の演奏」「自分自身としての表現」ができたことなど一度もないのが実状。

更にちなみに…練習からリハから本番中もずっと、しかもこの子の家族が大いに関係するイベントにも拘わらず、さして家族対応の子らに頻繁に交代したりなどもなく、「自分」が全て受け持てた、という経験も、ほぼ初めてと言って良いほどの経験でした。
良く「練習は裏切らない」っていいますよね~。あれ、DIDにはなかなかに残酷な言葉。でも、今回はそれが多少実感できました。
とはいえ、DIDにとっては、"練習もリハも本番も全部一貫して出ていられたら"安泰とかいう話ではない。普通の演奏家でも暗譜が突然飛んだりとかいうのはあるのでしょうが、DIDは多分その頻度も格段に高くなっていて。というのも、本人の暗譜が飛ぶだけでなく、所構わず時構わず「思考奪取」(わざとにせよわざとでないにせよ他の誰かに記憶や思考をごっそりと持って行かれて、奪われた側は頭が突然空白になる)が起きたり内部変動が起きたりすることまである…DIDの人にとっては、自分の記憶なんてものは全く信じられた代物ではないのです。感覚もそうだけど…;
うまく演奏で自分の世界に没頭できたらできたで、これ自体が一種の解離現象でもあるから、そのまま気付いたら内界にいたり交代しちゃってたりする可能性もなきにしもあらずだしね。流石にこれは音大の頃からそうならない訓練はある程度されてきたとは思うのだけども。でもそういう訓練ができてないからうまく自分の世界に入れた途端に交代しちゃうDID演奏家さんもいるかもしれないと思う。
でも。
まぁ少なくとも要所要所では僕でいられたわけで。だからかね。本番も案外なかなか良い状態で持って行けましたし、自覚がそうだっただけに、後でこの子のお父様(実はこのうちの1曲について、好きじゃないと零していた)にも「(あの曲嫌だったけど)流石に本番は良かった」と評を得、プロ中のプロであり主催者であり伴奏者であったこの子のお母様にも、「やっぱりプロだね。どんどん本番に向けてうまく持って行くんだね」と言って頂けました。
……それだけ今まで本番に向けてちゃんとものを持って行けたことがなかったわけだよ、うん。だって「自分の意識」すら保てないんだから……というか寧ろ無理やり保てたところでバランス思いっきり失って転覆するんだからさ…
「演奏家」としては、こんなこと口にするのはとんでもない話ですよね。
しかし…DIDの演奏家には、案外あるあるなのではないかな。よほどコントロールできるようになっていない限り…
恐ろしいものなのですよ;

だけど今回は、毎年恒例のイベントだし家族ぐるみなもので、生徒さん方もお客さんの何割かは僕らのことも知っている;
何より家族に関わりのある場所では「自分を演じてはいけない」無意識下の規制が強く、だけれどもこの子の家族とうまくやれる家族対応の子たちに交代すると本番に差し障るし交代したくないあまり、がんばって「家族対応の子」の挙動言動を演じるんですよね。
しかし演奏する曲は2曲とも場を圧倒する系の選曲なものだから…
へへ。
お客様がどうやら、演奏以外の時と演奏中の時のギャップについてこられなかった…みたい^^;
そりゃまあね。自分自身の中での温度差も埋められないのが、客席と自分との温度差など到底コントロールできるはずがない…
お客さま方皆さま本当に演奏には感動して下さったようで、楽しめたと言って下さっていたのでありがたかったのだけど。その「ギャップ」の落差が激しすぎたゆえに、ある意味無駄に圧倒してしまった感が拭えない。
あとでこの子の家族と叔母がこうも言っていた。「(お客さんみんなギャップについていけなくて)みんな唖然としてたよ」「『人格変わった?!』状態だったよね」「ジキルとハイドみたいだよね」
………なんだよ…演奏中、ハイド扱いかよ…っ?!;

地味にね、だってさ、家族の人達やこの器やこの子の家族のことを知っている人達に対して違和感や不審感や居心地の悪さを感じさせないために、うまく滑らかに物事運ぶために、必死の思いで「家族対応の子」の人物像を演じているんですよ。自分自身の意識が保ちにくくなるのもいとわず、バランス崩しそうになるのも堪えながら、自分自身ギャップのコントロールに非常に苦しみながら。演奏にわざと大きなリスクを抱えながら。はっきり言って本気の本気で演奏するよりこうやって自分自身を消して他人(しかも演技の難易度高い)に成り済ましながら一言二言接客する方が何倍も気を遣うし何倍も体力も気力も殺がれるし何倍も疲れるんですよ。
だけど、その場をうまくしのぐためにはそれしか方法がないわけでしょ。
だけど、演奏の時は一応とはいえプロの端くれとして、恥じない程度のものを演じなきゃいけないわけでしょ。

どっちもそうせねばならない形を演じているのに、そうするとこんなことになってあんなこと言われる。

地味にこれはショックなんです。
ずっと僕でいなかったら場が全て何かおかしくなってうまくいかなくなる。
ずっと僕でいられたらいられたで、物凄く頑張って1回も交代しなかったのに「ジキルとハイド」とか言われる。

来年以降もしまたゲストの機会があったら、いっそ堂々と「ジキル&ハイド」のナンバー織り込んでくれる(涙
「前回こんなこと言われた~てへっ」とかトークして。
しかも男のナンバーと女のナンバー両方取り入れたりして。
ふん。

ふみひろ

余談!

今回演奏しました『蠍の火』は、
2019年6月に群馬県高崎市で行われた音楽詩劇『銀河鉄道の夜』のために作られたものです。
この時、この楽曲の補作・編曲(オーケストレーション)・音源制作を我々が請け負いました。


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