ホテルウイングステート東京 第12話

如月 ゆかり(きさらぎ ゆかり) 40歳 その1


「こんばんわマスター。ワンラストキスお願い」

 後輩の村井君におすすめのバーをきいたら「ウイングステート東京のトワイライト」と教えてもらって通い始めたけど、ホントにいいお店を教えてもらっちゃった。
 彼にここを教えてもらってから、私の中にいたあの人をはっきりと思いだすことができたもの。

「かしこまりました」

 初老のマスターは顔色を変えずにカクテルを作り始めた。ワンラストキスは「大切な人との最後のキスをイメージしたカクテル」と、初めてこの店に来たときに教えてもらったけど、本当にあの人とのキスと同じ味がして驚いたし、なによりあの人の温もりみたいなものを身体が思い出したのが信じられなかったわ。
 ……言葉にできない感情がこみ上げて、思わず東京湾の夜景が涙で滲んだもの。

「どうぞ」

 そういってマスターは淡いピンク色のカクテルを私に差し出した。私よりも年上だし、きっとこの人も私のように大切な人を亡くしているんだろうな。じゃないと、こんなカクテルなんて作れない。
 そして、他のお客と話したりしてる声は聞こえたりするけど、私に滅多に話しかけないのは、大切な人を亡くしていると知っているから。
 大切な人を亡くした者同士にしかわからない、空気みたいなものがあると私は思っている。

「ありがとう」

 淡いピンク色のカクテルを受け取って、私は店内をいつもの指定席にむかって歩き始めた。一番奥の窓際、席がある場所がわかりづらくて、隠し部屋ならぬ隠し席と言えるような場所。
 ピアノの演奏を見ることはできないけど、誰も私の邪魔をしないからいいの。それに、一番近くで音色を聴くことができるのも案外いいものよ。


 席に座ると、私はワンラストキスを一口飲んだ。いつものように甘い味のあとに燃えるように刺激的なアルコール。あの人とベッドの上で交したキスと同じ味も始めは甘く、一気に刺激的になっていくものだった。
 背中から日高君の演奏が聴こえてきた。さっき、女性客に話しかけていたから彼お得意のオリジナルの即興曲かしら。
 私のところまでは歩いてこないけど、彼は若い女の子から私より年上の老夫婦でも声をかけて、ピアノの目の前の席に座らせて軽く会話をしたあと、即興で曲を作って演奏する。

 それだけでもすごいことなのに、聴いていると指で自然にリズムをとってしまうぐらい、人をリズムに乗せるのがすごく上手なピアニスト。天才とは彼みたいな人のことだと思うし、こんなところで演奏しているのがもったいないぐらいだわ。
 小さなコンサートホールぐらいは簡単に埋めてしまうぐらいの腕前が彼にはあると思うから、一度はそういうところで日高くんのピアノを聴いてみたい。


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