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〈自己〉を育てる〜真の主体性の確立〜を読んだので

きっかけ:教育系の事業に関わっているので、教育心理について本を読んで
     みたいと思った。
読んだ日:2021年4月
オススメ:「教育の究極の目的は真に自立した人間の育成である。その人の顔の後ろに広がる内面世界に、その人自身にとっての必然性をもった問題意識や固有の見方・感じ方、物事を判断する際の確固とした根拠・基準、といった原理的なものがあるかどうかこそが問題なのである。」教育についての文学的なフレームワークや浮ついていない(パンチラインを残そうと必死でない)キーワードがしっかりと書かれています。

※ほんの一部を抜粋してメモとして書いています。原書を読むことをおススメします。

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学校での勉強は「道具」を身につけること

学校での勉強は大事なことであるが、それはその人が利用することのできる「道具」を身につけていくことに他ならない。知識も技能も、その意味での「道具」でしかないのである。高度で複雑な知識や技能を身につけていくことは、現代社会で自分の役割を果たしていく上でも、自分の人生を豊かなものにしていく上でも不可欠のことである。しかし「道具」を適時適切に使いこなしていくためには、その人自身が賢くなくてはならない。「道具」が身につくこと以上に、その「道具」を使う「主体」が育つということが重要な意味をもつのは、このためである。どんな人の場合であっても、「主体」がしっかり育っていかない限り、その人なりの着実な日常生活、ひいてはその人なりの充実した人生、を実現することは不可能なのである。

振り返りを

一生懸命やる、夢中になるというのは美しいことだが、そこには何らかの振り返りがなくてはならない。自分自身の活動の跡をみつめ直し、さらには自分自身のあり方を考え直してみることである。これはまた、自分自身のことについての自己内対話、内的リハーサルの基礎となる活動といってもいい。あらかじめ結論じみたことを述べておくならば、こうした振り返りを通じてはじめて、自分の体験したことが自分自身の経験となっていき、自分の内面的な世界にそれが組み込まれていくのである。この意味で振り返りは、その人の精神そのものを、特にその芯となるなるものを形成していくものである。人間としての成長・発達を重視する教育をしていこうとするならば、こうした活動をどうしても重視していかねばならなくなる。何か外的な目的のために役立つ力(道具としての力)を身につけているという意味での有能さではなく、自分自身の生きていく世界を広げ深め、それを自分自身が生きていく拠り所として用いることができるという意味での有能さ(主体としての力)を身につけるために。

振り返りの深浅は次のような分け方ができる

(A)全体的印象のレベル
最も単純な形での振り返りのレベル。活動や生活について「楽しかった」「充実していた」といった形で全体的な印象を思い描いてみるような振り返り。
(B)思い起こしのレベル
「何をやった」「どうであった」という形で事実や情景を思い起こしてみるというような振り返り。
(C)ポイント確認のレベル
「まとめてみると、こういうことやこういうことがあった」「大事なことは結局、何と何だった」といった形で、ポイントになるような事実や事項を再確認してみるというような振り返り。
(D)分析的評価のレベル
「この点はよかったけれど、この点はまだまだ」「この点では安心していいが、この点については反省が必要」といった形で、よい点と悪い点をふるい分けてみるというような振り返り
(E)総合的評価のレベル
「いろいろ考えてみると、結局は自分の思ったとおりにやれた」「いろいろとあったが、総合的に見ると満足すべき結果だった」といったような形で、まとめとしての評価を総合的に下してみるという振り返り。

自己認識への気づきと認識

自分自信をはっきりとした形でとらえ直し、きちんとした形で自己理解、自己規定をするようになるのは、多くの場合、青年期に入ってからのことである。これは、自我の目覚めとか自我の発見とよばれることがあり、またここから進んで自我の確率とかアイデンティティの明確化が語られることもある。生物として誕生するのが出産のときであるとするなら、「自覚」をもった人間として誕生するのが青年期なのであり、その意味でこの青年期は「第二の誕生」の時期あるともいわれるのである。しかし、このことは青年期以前の段階において、自覚や自己認識にかかわる教育が不必要であるということを意味するものではない。現にアメリカにおいては、キャリア教育の一環として、幼稚園から高校卒業までの体型的な「自己認識育成カリキュラム」が各地で作成されているのである。また、日本でも小学校低学年に生活科が設けられ、こうした時期から、自己認識の基礎づくりをする、ということが重視されるべきだとされるようになった。教育活動を通じて、まず、自分自身のさまざまな面について気づきをもたせたいものである。また、自分自身にかかわる体験を豊富にし、自己理解を深め広げていくための素材を蓄積させていきたいものである。

自分自身に返ってくる学習

さて、学校での教育活動を通じて自己認識を形成していくとすれば、具体的にどのようなことが考えられるであろうか。その第一のポイントは、さまざまな事柄についての学習を自分自身との関わりを重視しながら進めていく、ということになるであろう。つまり、どのようなテーマや素材について学習する場合であっても、その活動展開の中に、「私」との関わりが大切な視点として入ってくる、ということである。例えば、「家の人々の働き」といったテーマで調べる場合、父母が何をしているかだけにとどまらず、そうした働きによってはじめて自分の毎日の生活が成り立っていることを認識してほしい。そしてそこから、自然な形で感謝の気持ちが生じてくるところまでいきたい、と願うわけである。

基盤となる基本的人間観・人間理解を

土台となるのは、次のような諸点であろう

(1)自分自身について多面的に知り、理解していくこと。そして、自己の現実を、その光の面も影の面も含め、基本的にはそのままの形で受容するようになること。(まさに出発点)
(2)自己防衛的で自己中心的な自尊感情、思い上がった鼻もちならぬ「誇り」を捨てて、現実的で開かれた穏やかなプライドと自信をもつようになること。適切で現実的な自尊感情の維持・高揚のあり方について、さまざまな場での訓練が必要であろう。
(3)自分はどういうあり方・生き方をしていけばよいか、といった自己のあるべき姿について、柔軟ではっきりした方向性のあるイメージをもつようになること。単なる憧れや夢ではなく、志や使命感といったところにまで結晶していくことを望みたいものである。
(4)自分自身と同様、他の人も自分のことに一喜一憂し、自分が世界の中心にいるかのように考え、こだわらざるをえない存在である、ということを深く洞察し、理解するようになること。人間嫌いといった状態にならないように注意。
(5)自分自身は、過去から未来へと、一貫して存在し続けるものであるにせよ、現実に存在し機能しているのは、「今」「ここ」の自分でしかない、ということを認識し、理解するようになること。(この段階は特に、高校生、大学生以上の段階における重要な課題として考えられる。)

自己実現とは何か

自己実現とは、その人が本当のその人に成り切っていくことである。その人が本当にやりたいことをやれるようになることであり、その人が本当にやり遂げたいことをやり遂げられるようになることである。つまり、医者になりたい、TVタレントになりたい、と思っていた人が、やっとのことで医者になれた、TVタレントになれたとしても、それは決して自己実現ではない。それは、むしろ、自己の憧れの実現というべきであり、似て非なるものである。本当の自分に成り切っていくためには、まず本当の自分に気づかなくてはならない。われわれは、普段から周囲の人に迎合したり、同調したりしている。そして、周囲の人の考えが自分の考えであるかのように錯覚し、周囲の人から批判されないように、後ろ指さされないようにと、気を使いながら生活している。そんな生活をおくっていると、自分に本当にピンとくるものは何か、という自分の本当の感覚に気づかないままになっていることが多い。そして、自分の本当にやりたいことは何か、ということもわからなくなってしまいがちである。
子どもに自己実現へと向かう力と姿勢を実現していきたいと考えるならば、たとえば、次のような諸点を念頭に置く必要があるのではないだろうか。

[願い1]自己洞察を深め、自分にとっての「現実」と「真実」は何かを理解する子どもに育ってほしい
(1)自分の普段の発言や考えのなかに、カリモノやタテマエでしかないものに気づき、本当の言葉で話す。
(2)自分は本当は何に関心があるのかを発見し、なぜ自分はこのことに関心を持ったのか?そういった考えを通して、自分なりの理解・洞察をもつよう指導する。
(3)自分の本当に実感しているところ、納得しているところ、本音となっているところに、折にふれて気づき、自分自身の見方・考え方を暗黙のうちに枠づけている内面の土台について、自分なりの理解・洞察をもつよう指導する。
[願い2]自分自身の内面の実感・納得・本音を大事にし、それを拠りどころにして考え、発言し、行動しようとする子どもに育っていってほしい。
(1)教師のような権威ある人からの期待に、無意識のうちにいつも応えようとしてしまう、といった迎合性を自省自戒し、自分自身に対してつねに責任がもてるよう指導する。
(2)その場その場での支配的雰囲気に同調したり迎合したりせず、つねに誠実であるよう指導する。
(3)結論よりも過程を自分で納得し、つねに「なぜ」「どのようにして」「どのような場合に」等といった問いを持って考えるよう指導する。



基盤となる学級づくり、教師=子どもの関係づくり

子ども一人ひとりの内面の育ちにこだわる教育活動を展開していこうとする際、その土台として、学級づくり、教師と子どもの関わりづくりが不可欠の重要性をもつ。一人ひとりが自分の内面にあるものを素直に表出できるような温かく相互の信頼性に満ちた雰囲気づくり、関係づくりである。それは、子どもが自分のその時その場の思いつきや気づきをそのまま口にしてよいと安心して折れるような状況、何の不安も構えも必要でないと無条件で思いこめるような雰囲気、ができていかなければならない。
このために一番大事な要素となるのは、教師自身のあり方であろう。教師のものの考え方やに余裕やふくらみがないなら、子どもも自分の考え方を安心して表出するわけにいかない。等に教師が自分の感覚を無意識のうちに絶対視してしまうような偏狂なタイプの場合、子どもは心を閉ざしてしまう。教師たるもの、自分の感覚を磨き、深め、柔軟にし、発想や考え方にふくらみをもたせ、寛容で受容的な精神をもてるよう、つねに努力しなくてはならないであろう、これに加えて、教師はつねに明るく、活気にあふれているよう努力すべきであろう。

みえない育ちとみえる学力と

親や教師は、「勉強などたいしたことでない」とか「勉強などしなくていい」などというべきではない。やはり勉強の大事さと必要性を、機会あるごとに子どもに説いていかなければならないであろう。しかしそれと同時に、「苦労」とか「修業」の大事さを説いていかねばならない。具体的には、地域の子ども会やボーイスカウト、家庭でのお手伝いやきちんとした礼儀作法の習慣を身につけることである。そしてそうしたなかでの「苦労」や「修業」の方が、その子が成人してから大きな意味をもつことをいっていかねばならないであろう。
目にみえる具体的な学力(知識・理解・技能など)と、将来にわたっての個性的な成長の土台となるみえない面での育ち(感性・関心・意欲・思考力など)の双方を共に重視し、共にその十分な実現を図っていく責任が、学校には本来あるのである。こうした考えは結局、一人ひとりの内面にある固有の世界を大事にし、その形成・深化をはかり、そうした基盤の上に「知識・理解・技能」といったみえる形での学力をも形成していこうという教育観・学力観であるといえるだろう。


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