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ジャン・プルーヴェ(Jean Prouve)について

きっかけ :友人の雑貨屋を手伝うことになったため、インテリアデザイナ
      ーに興味をもった。
読んだ日 :2020月12月
こんな人へ:家具・部屋づくりが好きな人。建築家の人生に興味がある人。
推薦文  :普段、意識せずに触れている建物や家具に対して、少し興味が
      増します。今、当たり前となっている地下鉄路線の色分けやプ
      レファブ構造など色んな土台を作った人なので雑学としても面
      白いです。
※建築に対して門外漢の僕でも内容が理解できる本でした。歴史的なレジェンドとして認められても問題ない建築家がどのように生まれ・育ち、どういう視点で建築(街づくり)を考えていたかは興味深いです。ぜひ、原本を読んで頂けますと幸いです。

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 日本ではあまり知られていない建築家ジャン・プルーヴェ。ル・コルビュジェ(Le Corbusier)にも一目おかれた彼は、戦後、復興期のフランスで、人々の暮らしの再建に必要な住宅を直ちに供給すべく、住宅の工業生産化に取り組み、アルミニウム素材を大胆に用いた部材、組み立て・解体が容易なプレファブ住宅の考案しました。公共施設、学校建築にも取り組んでおり、彼がデザインした家具は数百万で取引されています。(写真:ジャン・プルーヴェの代表作スクールディスク)

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【ジャン・プルーヴェの人生】

 父ヴィクトルは画家であると同時に職人だった。アイディアとモノを作る手が直結した人であったとジャンは語る。ジャンは授業が終わると父のアトリエに直行し、ナンシー派のメンバーに囲まれて過ごした。ナンシー派を創設したガラス芸術の巨匠エミール・ガレはヴィクトルと親しい間柄で、ジャンにとってはゴッドファーザー的な存在だった。1904年、ガレが亡くなると、ヴィクトルはナンシー派を率いた。彼らの計画は革新的であり、とりわけ、できるだけ多くの庶民に良い品を安く販売できる工業生産の構想を抱いていた。彼らの原則は「人間は創造の役割を担い地上に誕生した」というのものだ。常に未来を見据えて行動していた。(写真:父のアトリエで)

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 ジャンはメカが大好きで航空技術や機械技術に夢中になり、飛行機の操縦士になりたかった。13歳の時、第二次世界大戦が開戦したので見習工として働かねば食えなかった。アンギャンにあるエミール・ロベール(1860-1924:金属工芸師であり、金属工芸職業学校を創設した)のアトリエに入所した。その後、独立してナンシーの建築家と協働して鋳鉄を始めた。アトリエが発展したため、さらに受注を増やす必要があると考えて広告や書物をみていると、ル・コルビュジェの文章に出会い、情熱に駆られた。ほんの少しの所持金を持って、ル・コルビュジェやマレー=ステヴァンスに会いにパリに向けて出発した。マレーはとの話はすいすい進んだ。(ジャンが作品の写真を見せると)「君の作品は大変興味深い。一体どんな発想が君をこうした制作に駆り立てたのでしょうか?」と質問した。最後にマレーは「それでは、いいですか。パリに住宅を一軒建設中ですが、これに門用グリルが一個必要です。デッサンも見積もりも要りません。門グリルを届けてください。」とジャンに伝えた。ジャンはパリで最初の作品を受注した。コルビュジェとの友情もここから芽生えた。この時からナンシーとパリの間を往復し、数々の注文を受けた。
(写真:楓の痩果をイメージして制作した鋳鉄グリル戸)

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1924年、一人きりでアトリエを開設した。ジャンは鋼板折り曲げ加工による建設を実現した最初の人である。革新的な制作以外のことは何もせず、猛然と仕事に打ち込んだ。アトリエでは、月並みな建設物と同様な建築部材は一切制作しなかった。トニー・ガルニエと共同でグランジュ・ブランシュの病院・手術棟(現在では歴史的建造物として登録)を設計施工した。全面的に鉄骨構造によって建設し、ファサード外壁に出窓方式を適用した。
第二次世界大戦が始まると最後までナチス・ドイツへの協力を拒んだ。対戦の間、半分は個人として生活し、残りの半分はレジスタンス運動に動員された。大戦終結後、ナンシー近郊マクセヴィルにアトリエを移転した。アトリエには若い建築家がたくさんやってきた。ジョゼフ・ベルモン(ジャン・プルーヴェの代表的門弟の一人。大統領官邸付建築家であり、在日フランス大使館などをてがけた。)もこの時期に雇い入れた。
(写真:ジョゼフ・ベルモンがデザインしたフランス大使館)

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ジャンは常に家具も制作していた。作り始めたのは、1924年。鉄製チューブの椅子が現れたのは、彼の記憶によると1930年、バウハウスの時代である。それを見ると苛立ちを感じた。鉄素材の本質から離れて鉄チューブを手当たり次第に使い、支柱にしたり、曲げたり。ジャンにとっては、椅子一つを作ることは非常に長い時間がかかることだった。常に抱いていた悩みは、どうしたら良い家具が作れるかということだった。椅子とは軽量であるべきで、椅子が壊れるのは、常に椅子の脚部と座面の間にある後ろ側のつなぎ目からであり、こうした考えからジャンの作る家具のすべては外部から掛かる力に屈しない抵抗力を秘めた形を構成していた。(写真:Swivelling chair)

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今日、建築界に見られるものは不幸な営利主義だ。建築家たちは注文を取るために門から門を叩きさまよいながら、営業マンに変質していく。コンクールに次ぐコンクール。彼らは疲れ果てた末に、コンクール50回につき1件の受注にこぎつける。全面的な開放を必要としていた。建築法も建築家会も存在しない社会。建築家は才能により選択され、チームを組んで協働する。

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第二次世界大戦終戦後に建設業界が工業化に関心を寄せたのは、復興のためだった。ジャンにとって住宅の工業化は、量産により庶民に安価で良質の住宅を提供する唯一の方法だった。思い裏腹にフランスにできた新しい家屋群は建築の特性も材質も感じられないものだった。時代の印が少しも刻まれないもの。建築に対する極めて重要な配慮が見られない。それは謙虚さであり、正直な建設であり、そして良識である。感動は謙虚でわかりやすい建築から生まれる。

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一貫した建築群は安らかな気持ちを与える。パリの偉大な建造物、都市計画も一貫したものである。リヴォリ街には一貫性があり、ヴォージュ広場は一様な建築群でまとめられ、パレ・ロワイヤルは均一に構成される。建築物全体の構成に一貫性が保たれているほど、我々は安らかな気持ちになる。山岳地帯のサヴォワの村は一貫性そのものである。

開設30年目に従業員300人と工場を後にした。アルミニウムの加工技術に注目していたメーカー(ヨーロッパ最大のアルミニウムメーカー:ペシネー社)からの資金を受け入れたのだが、ペシネー社から資金が届くのに続いて、他の人たちもやってきた。結局、ジャンが作るものへの理解は露ほどもなく、彼らは別の物を生産しようとしていた。彼らにはアルミニウムの膨大な販売を目的のために、アルミニウムを買う客筋を探していたのだ。一戸建て住宅の大量注文を政府かどこからか受けた時、これまでとは別のタイプの家(アルミニウムをより多く使用したカナダのライセンスに基づくもの)を販売した。従業員の労働条件もひどいものに変わってしまった。彼らの作る家は大変悪趣味で、それに殺意すら覚えたジャンは工場の扉をバシッと音を鳴らして出ていった。そんな折に、「ナンシーの家」が、心配した元従業員たちのお陰で建てられた。52歳で自分の工場を立ち去って以降、(大学で教鞭はとっていた)ジャン・プルーヴェは余生を送ろうと思っていた。
(写真:ナンシーのジャン・プルーヴェの家)

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その後、ナンシーを訪ねてきたミシェル・バタイユと共に再出発した。一緒にルヴォワ通りに小さな会社を設立した。初めの住居建築は、ピエール神父のために設計した住宅である。一ヶ月で構想を練り、設計し、建築した。ピエール神父の家はあちこちに5軒が制作されたが、金額の支払いが滞り、メセナ事業になったと言える。(写真:ピエール神父の家)

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ボーブール(ポンピドゥー文化センター)は、フランスにおける世界の建築家を対象とした最初のコンペであった。プルーヴェのところに審査委員長という爆弾が投下され、そのコンペの審査員メンバーは、アヨー、フィリップ・ジョンソン、ニーマイヤー、ウィレム・サンドベルフなどだった。最終的に、一票を除き、ある設計案が満場一致で受け入れられた。優雅で巧妙な設計計画案により入選したのは、ピアノとリチャード・ロジャースだった。しかし彼らは外国人だった。それに対する妨害工作は凄まじかった。当時、三千人のフランス人建築家が外国人の当選に反対してパリでデモ行進を行った。ポンピドゥー大統領にこのコンペの結果の報告をしにエリゼ宮を訪ねた時、この計画案の選択が認可されるには、深刻な戦いがあることを覚悟していた。ところが、あっという間に承諾された。世間では芸術家の友と認識されているポンピドゥー大統領であるが、結局は、建築に深い興味があったように思えなかった。
ボーブールの建築物は勇気に満ちた建築物としてプルーヴェの心に刻まれた。人々もそれを理解して、この建築物ができると即座に圧倒的な指示を示した。

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ーーーーーーーーーーーーー学校建築についてーーーーーーーーーーーーー

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(本をほぼそのまま引用します)
自分が通う学校の空間のあり方を子どもたちにテストさせれば、その結果は建設関係者の情熱を湧かせ、文部科学省建築技術部や学校建築を専門とする著名な巨匠たちに貴重な教訓と新たな教育についての情報を与えるに違いない。学校建築が不足しているフランスでは、工業化が課題であるにもかかわらず、中央担当省も地方当局もそれを否定して実行しない。私は学校建築を大量生産することによる建設費の削減を確信し、同時に、徹底的に新しいアイディアに基づいた学校建築の構想のもと、マクセヴィルの工場で仕事を開始した。戦後になるまで、先端技術が生む学校建築が子どもたちの環境を改革し、そこで子どもたちは日々を過ごしながら感性を養うのだということは熟慮されてこなかった。教育専門家と建設関係者のあいだの理解が深まれば、学校建築はただ建てるという行為に留まらず、学校の構成そのものに情熱的に取り組めることだろう。学校は過去の模倣をした恥ずかしい建築ではなく、子どもたちの生ある時代に相応しい建築を啓示すべきでないだろうか?現今の悲劇は、「プレファブ」とは仮説の建物に等しいと見なす公的評価が私たちの計画を阻害することである。私の考えを実現することは困難を極めたとは言うものの、少なくとも私のアトリエは実験的学校建築のコンペを獲得した。それは理解ある市長の政権下にある共同体に建設される2校である。

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