政治と秋刀魚〜日本で暮らしたアメリカ人教授の話〜
きっかけ:多分、宮台真司先生がラジオで言及していて、買った。
読んだ日:2021年1月
あなたに:政治に少し関心を持ち始めた、もしくは政治から見える社会背景
を学びたい人。
推薦文 :政治のシステマチックじゃない人間臭い話が書かれてあります。
アメリカ人が経験した日本の暮らしとして読めるので、政治に関
心がない人にもおすすめです。
※一部分しか載せていません。充実した中身ですので、ぜひ、興味が湧いた方は、原本を読んでみてください。
■中選挙区制度
日本の総選挙は1925年(大正14年)年の普通選挙法施工後1994年(平成6年)まで、戦後第一回の選挙を除き、ずっと中選挙区制度で行われた。中選挙区制は日本独特の制度であって、その制度の一番の特徴は激しい党内抗争が起こりやすいことである。一つの選挙区から三人ないし五人の候補者が当選するが、有権者の票は一票だけ。自民党に投票しようと思っても選挙区には自民党公認で出馬する候補者が二人、三人いるから、その中の一人を選ばないといけない。よって、同じ政党同士の争いは激しいものになり、選挙運動は個人ベースで行われるようになる。同時に、自民党が票を取り合うことによって、候補者を一人しか立ててない小さな政党が議席を獲得することもあった。社会党、共産党、公明党が中選挙区で議席を獲得できたのは、中選挙区制度が小選挙区と違い、小政党を生き残らせ、緩やかな多党制が生まれる制度だったからである。一選挙区から複数候補者を出す政党であれば、各候補者にとっては個人後援会が選挙運動の中核になる。その後援会組織が、本来、政党の支部が果たすべき役割も担う。就職の斡旋、地元利益に繋がる国の公共事業の選挙区への誘導、支持者を官僚に紹介して陳情を手伝うことなどが主な仕事となった。1994年に行われた選挙制度改革は、このような同一政党内での争いに終止符を打った。しかし、日本の選挙の特徴である個人後援会と人間関係に基づく支持基盤という仕組みがなくなったわけではない。もしも、個人後援会の重要性が薄れているなら、その理由は日本社会の伝統的な人間関係の絆が弱くなったからである。
日本の政治社会を理解する出発点は、選挙が党より「個人」の政治家を中心に行われることだ。イギリス(イギリスには「安全選挙区」がある、それは強い階級意識と関連した党意識による発生する)と違い、安全選挙区は党でなくて、個人にとってのそれである。地縁と血縁が重視され、政界に出ようと思えば、そういう縁のあるところから出るのが定石である。
バブル崩壊後の日本では、社会がより不平等になっているという格差問題が注目されている。ほとんどの人が中流階級だと思っていた「総中流」意識が崩れつつあるのは確かで、政府の経済改革と称するものは地方の人たちを犠牲にして、地域間格差を広げる政策であるという批判が、自民党の地盤と言われてきた農村部で強く現れた。文化というのは、生き物のように環境の変化に敏感で絶えず変化していく。このことを意識しないで、有権者の悩みに耳を傾けず、伝統的な後援会活動を支える個人と個人のつながりばかりに執着すると、有権者の反乱が起こるのは時間の問題だ。その反乱が2007年の参議院選挙の結果に現れた。自民党が敗北を喫した理由は、まず国民が関心を抱いているのが医療保険制度、年金制度、公立学校教育、所得と地域間の格差であるにもかかわらず、安倍首相が、戦後レジームの脱却、愛国教育、憲法改正、そして、美しい国づくりを優先させようとしたことだ。政策として中身が分かりづらい抽象的な話が多く、国民にとって身近な問題をどうするのか答えになっていなかったのだ。
■「失われた10年」は分水嶺
アメリカにとって最大の敵、ソ連が崩壊すると、今度は、アメリカにとって最大の脅威は日本の経済力だという「日本脅威論」が1980年代の後半に噴出した。その後、日本のバブルが弾けて経済的低迷が長引き、10年に7人の総理大臣が出るほど政治も混乱した。「日本は立ち直れない、ますます駄目になる」というのがアメリカでの日本に対する新定説になった。戦後の日本は「欧米に追いつく」という目標を達成するところまではうまくいった。しかし、右肩上がりの経済発展の段階には役立った政治経済構造が、成熟した先進国の経済運営には適切ではなかったというのが、1990年代の日本が示した教訓である。官民一体となって国家目標を追いかけた時代が終わると、日本社会は多元化し、国民の価値観も変化して、「脱工業化社会」に相応しい教育や、より透明なルールに基づいた市場経済システムが必要となった。90年代が「失われた10年」となったのは、目標を達成した日本が政治経済の構造改革を行わなかったことが原因である。「日本の政治は後れている」というのは「他の先進諸国の政治に比べて後れている」という意味ではなく、「日本の政治が日本の社会の変化に後れている」という意味なのだ。
■アメリカとの距離感と中曽根四原則
世論調査によると、アメリカ人の四分の一がブッシュ大統領は建国以来の最悪の大統領だと思っているとのこと。それにイラク戦争を主導した政権内のチェイニー副大統領、ラムズフェルド前国防長官などネオコン(新保守主義者)一派に対する批判がますます強くなって、彼らの影響力が急速に弱まった。こうした変化を意識せず、「世界の憲兵」としてのアメリカの力を信じ、何としてもブッシュ政権との関係を強め、政権内のネオコンと密接に付き合って、彼らのイデオロギーに同調しようとする態度を見せた安倍政権は、まさに対応型外交の危険性を象徴するものだったと言える。
2000年代の安倍政権の麻生太郎外務大臣は「自由と繁栄の孤」を日本の新しい外交ビジョンとし、アメリカの新保守主義者とともに民主主義という「共通の価値観」を広めることを日本の外交目標に掲げた。しかし、「自由と繁栄の孤」を裏付ける具体策はなく、ただ中国を牽制しようとしていると疑われただけであった。アメリカに迎合しようとした安倍政権は、近隣諸国に日本の意図を警戒させ、アメリカのタカ派には日本がこれからアメリカと手を組んで軍事面において大きな役割を果たしてくれるという非現実的な期待を抱かせるのである。
国際情勢を客観的に分析し、外交を慎重に行うのは重要なことだ。中曽根康弘氏は総理大臣のとき、「ロン・ヤス」といわれるほどレーガン大統領と密接な関係をもっていたが、同時に自分の外交ビジョンを持っていた。筆者が中曽根氏と一緒に食事をした際、特に印象的だったのは、「外交四原則」の話だった。第二次世界大戦が終わったとき、1930年代の教訓をもとに、これからの日本外交は四限則に従うべきだと考えたという。つまり、①力以上のことはしない、②ギャンブルをしない、③世界の潮流を客観的に分析する、④外交と内政を混合しない。
日本に比べ格上のアメリカと戦争したことが最大の過ちであり、真珠湾攻撃を決めたときの東条英機首相は「清水の舞台から飛び降りる気持ちだ」とギャンブルをした、時代の潮流を正しく把握しなかった(ファシズムに接近したこともこれにあてはまる)、関東軍の中国での行動を国内政治に利用して外交と内政を混合させたことなどが悲劇の道に導く結果となった。この四限則は今も必要だと思う。
ブッシュ大統領は、イラクに新しい政治体制を作るというアメリカ以上のことをやろうとして、戦争で勝てばイラクは安定するとギャンブルに賭けた。中東の状況とイスラム社会を客観的に理解しないで、「テロとの戦い」という言葉を使ってアメリカ国民の恐怖心を煽り、大統領の権限を強めようとした。(四原則全てに違反している笑)
■日本のソフトパワー外交
日本は国際政治において潜在的な力を持っている。イギリスのBBCなどの世論調査によると、日本は世界中で好意的イメージを持たれている。日本は美しい国を作るという抽象論をぶつよりも、日本の良さを自覚して世界に知らせる努力をすれば、影響力は強まる。日本の情報への特殊な態度がある。明治時代から今日に至るまで日本は必死に情報を集めようとしてきたが、日本についての情報を発信する重要性は認識してこなかったのではないか。日本政府の資金で外国との文化交流を進める主な機関として国際交流基金があるが、同様の事業を行っている英国のブリティッシュカウンシルやドイツのゲーティンスティチュートと比べて一人当たりの予算や職員数、海外拠点数は遥かに少ない。今の日本にとって、ソフトパワーが国防であるという発想が必要ではないだろうか。