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地獄への道は善意で敷き詰められている

良かれと考えて行った行動が、思いもよらず迷惑になりうることもある。
そして、やったりやりっぱなしに、良い印象はない。


先日、ある方と話していて、こんな話を聞きました。

いつどこの報道番組かは差し控えますが、とある報道番組で、被災した地域を取材し、全国放送のテレビの前で、あるキャスターが、「この地域にはタオルが必要です!」と現地リポートしたそうです。
すると、現地にあふれんばかりのタオルが届いたそうです。
後日、災害支援で現地入りしていた方が、現地の方に、「今本当に必要な物はなんですか?」と尋ねたそうです。
すると、現地の方は、半ば笑いながら、「からっぽのトラックです」と答えたそうです…

要するに、あふれんばかりのタオルをそのトラックに積んでどこかに持っていって欲しいということなんですね。

現地の方も迷惑だと思ってるわけではないと思うんです。
タオルを送った方も善意からの支援だと思うんです。
そのキャスターも悪気があったわけではなく、その時タオルを必要としている方がおられたから全国放送で言っちゃったんだと思うんです。
すべて善意からだとは思うんです。

ヨーロッパのことわざで、
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
ということわざがあります。

諸説ありですが、「良かれと思って行った行動が、悲劇的な結果に繋がることもありうる」と、ここでは解釈します。

私たちの行動や発言が、善意の上からであったとしても、他者からすれば悪意に伝わることもあります。

物事には多面性があり、ひとつひとつに一側面しかスポットを当てないでおくと大抵後悔します。

どんな素晴らしい啓蒙書だとしても、それにはやはり反対意見があり、手放しに全人類がすばらしい!と考えるものなどこの世にありません。
だからこそおもしろいんですけどね。

一見すばらしい行いに見えても、見方を変えるとまったく違う印象になる。
一見悪いことのように見えても、見方を変えるとまったく違う印象になる。
極端に悪いことでも、時代や背景、国、当時の指導者によってはそれが善行(善きこと)とされていた時代もありましたしね。

どのようなことにも、多面を見るように気を付けることが大事なのかなと思います。

主観に客観がないと、一つの側面しか見ないようになってしまいがちです。
大抵、そういう時は視野が狭いときですね。
忙しかったり、余裕がなかったりです。

人は、主観のない客観はないし、客観のない主観もないんだろうと思います。
ああ、書いててこんがらがってきた。

完全に主観しかない人はいないし、完全に客観しかない人もいません。
どちらも持ち合わせてはいるけれど、時として主観ばかりになってしまう時がある。

だから、善行と思われることを例えしていたとしても、果たしてそれは本当に善行なのか?それは本当に必要なことなのか?その発言は本当に善行によるものなのか?
良かれと思って…では通じないことが私たちの生活には多々あるように思われます。

要するに、あらゆる物事の一側面しか見ないということは危険だよということです。
かといってあらゆることに反対意見を持ち続けることも疲れちゃいます。

手放しに善きことと思えるためには、行いを続けることなのかなあとぼんやり思います。
やったりやりっぱなしではなく、物事に多面性があることは承知の上で、自分と他者の思惑の擦り合わせを絶えず行い、善きことと思われることをやり続けることが肝要なのかなと今の段階では考える次第です。

自分でも何言ってんのかわかんなくなってきた。
とりあえず今日も妻が可愛いです(最近、困ったら妻が可愛いって言ってる気がする)

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