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車椅子とワインとチョコレートアイス

土曜日のお散歩。
森を抜け、商店街のある通りに出た時、遠くから助けを求める声がした。
車椅子に乗った年配の男性が、道を挟んだ向こう側から、私達を呼んでいる。
 
慌てて駆け寄る。
男性は、とても疲れてしまったそうで、自宅まで車椅子を押してもらえないかと尋ねてきた。
男性は老人ホームに住んでおり、その場所は近いと言う。
私達に時間はいくらでもあるので、すぐに快諾した。
 
森といっても小高い丘なので、坂が多い場所だ。
電動でない車椅子では、たしかに疲れてしまうだろうと思った。
二人で車椅子を押すのは難しく、パートナーが一人で押す事になった。
 
その男性は、奥様に先立たれた後、老人ホームに入ったのだと話してくれた。
買い物に出る度に、途中で体力がなくなってしまうのだと言い、私達に何度も詫びた。
 
車椅子は弟を思い出しますよ、と、パートナーはその男性と話し始めた。
ゆっくりと会話を続ける二人に寄り添い、私は、若くして亡くなった弟さんの事を想った。
 
近いと言われた老人ホームは、かなり遠かった。
しかし、時間がかかればかかるほど、私達の会話は弾んだ。
何度も詫びる男性に、少しでも気楽になってもらえるよう、パートナーは様々なテーマで話を続けたからだ。

老人ホームの庭に入ると、その男性は少し恥ずかしそうに、こう話し始めた。
 
『今日は私の誕生日でね、ワインが欲しくて買い物に行ったんだ。』
 
私達は、お誕生日に出会えたことを喜び、お祝いの言葉を贈った。
街角の、素晴らしい出会いだった。

しかし、ここから新たな展開が・・・
 
『君たちは、誕生日をお祝いしたい気持ちにならないかい?
その気持ちを形で・・・つまりお金で表してみないかい?
2人だから、それぞれ10ユーロで、20ユーロだ。』
 
男性は、まるで人が変わってしまったかのように、一気にその言葉を口にした。
それを聞いた私達は、お互いの顔を見て、言葉を失った。
 
パートナーの顔には、困惑と悲しみの表情が見て取れた。
体の大きい男性を乗せて坂道を登ってきたため、薄っすらと汗をかいている。
 
パートナーの顔から困惑の色が消え、悲しみだけになったのを見て、私はそっと自分の財布を出した。
 
『お誕生日おめでとうございます。
私のパートナーは、お祝いの気持ちを、充分にその体で払ったと思います。
その気持ちは、お金よりずっと大切なものだと思うんです。
私からは、これがお祝いの気持ちです。』
 
私は、10ユーロ札を丁寧に男性に渡し、そっとパートナーの背中を押した。
あれほど饒舌に話していたパートナーは、小さな声でさよならとだけ言った。
 
 
 
私達は、無言で歩き続けた。
男性に声を掛けられた場所まで戻った時、その場所をじっと見ながらパートナーが言った。
 
『彼は、365日、誕生日かもしれない』
 
私は、ハッとした。
本当に今日が誕生日で、私達にお金を乞うたのだと思っていた。
しかし、パートナーの言う意味が理解できた途端、鈍器で頭を殴られた気分になった。
 
ただの芝居だったんだね、とパートナーは悲しそうに言った。
 
駅や停留所で乗り物を待っていると、お金や煙草を無心する人は多い。
中央駅では、電車を待つ間に、2~3人から声を掛けられることもある。
でも、このような形で無心されるのは、初めての経験だ。
 
あれがお芝居だったのかどうかは、パートナーの推測でしかない。
しかし、全てが淀みなく流れ、手慣れているようにも思えてきた。
 
楽しいお散歩、心地良い人助けだったのに、モヤモヤとした気持ちが生まれてくる。
 
遠くに、アイスクリーム屋さんが見えてきた。
私はパートナーにアイスクリームをご馳走し、自分にもアイスクリームを買った。
いつもはあまり食べないのに、スカッとした気持ちになりたくて、レモンシャーベットにした。
 
 
男性の表情を思い出した。
亡くなった奥様の話をした瞬間、とても悲しそうで、あれは決してお芝居ではないと感じた。
きっと奥様の事は事実で、今は何かの事情でお金に困っているのだろう。
 
今日がお誕生日かどうかは、分からない。
けれど、そうであって欲しいと願った。
そして、奥様が生きていらっしゃったら、今夜は一緒にワインで乾杯していただろうと思うと、苦しい気持ちになる。
お金を無心する必要もなかったかもしれない。
 
これも私の推測でしかなく、真実は闇の中、神のみぞ知るだ。
 
ふと、パートナーを亡くし、私が一人で生きねばならないとしたら、どんなに辛いだろうかと思い、恐ろしくなる。
シャーベットの冷たさではなく、心までが冷えていくようだ。
 
そんな事を考えているうちに、シャーベットを食べ終える。
最後のシャーベットが口の中で溶けるのと同時に、モヤモヤも不安も消えていく。
 
もうこの事は、これ以上考えなくていい。
 
最後に残ったモヤモヤを捨て去るように、アイスのカップを勢いよくゴミ箱に落とし、パートナーを振り返って大きな声でこう聞いた。
 
『ねぇ、一日だけでもいいから、私より長生きしてくれる約束は、まだ有効だよね?』
 
私は以前、こんなお願いをした事があるからだ。
 
パートナーは、キョトンとした顔で、私を見つめ返してきた。
でも、数秒後、私がどんな思考でその質問に辿り着いたのか、ある程度分かったようだ。
こうして時々、何も言わなくても分かってくれるのが、とてもありがたい。
時々は、全部を説明しても、分かってもらえない時もあるけれど。
 
まるで子供のように、チョコレートアイスを唇の端につけたまま、パートナーはようやく笑ってくれた。
そして私に向かって、ゆっくりと手を差し出した。
 
森を抜けて自宅に戻る間、パートナーの手の温かさが、いつもより嬉しかった。

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