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石に刻まれた句 心に刻まれた風景

東京は今年、統計上2番目に早い記録で桜が開花したという。
例年より、12日も早い。
暗い話題の多い中、少しでも早く春を届けてくれたように思える。

さて、ドイツでは既にサマータイムが始まった。
春らしい過ごしやすい日になると、気の早いドイツ人たちは、半袖やノースリーブになり肌を焼いている。
湿気がないため、どんなに気温が高くなっても、まだ木陰に入ると涼しく感じる。

私はドイツの春から初夏の季節が、とても好きだ。
こんな風に暖かい日が続き、太陽の柔らかい日差しを受けると、思い出す春の句がある。
小学生の頃、こんな句を習った。

春の海 終日のたり のたりかな

与謝蕪村の作品だ。
恐らく、私が最初に習った俳句のうちの一句だろう。

俳句は、短い言葉の中に、季節がある。
その情景を思い起こさせる、短い言葉。
いや、短い言葉に、いかにたくさんの情景を込められるかが大切なのかもしれない。

一つの言葉で、二つの意味を持つ言葉もある。
日本語って面白いなと、素直にそう思った。

この句から、『ひねもす』が終日であることを教わった。

海が 『のたり のたり』 としている。

私には想像がつかなかった。
のたり のたり という擬態語。
私が知っている海は、波が高い海ばかりだった。幼い頃に一度、波にさらわれ、溺れかけた事もあったくらいだ。

この碑がどこで詠まれたか知らないまま、また考える事もしないまま、春が来る度に私はこの句を思い出していた。

春の暖かい日差しを浴びると、この『のたり のたり』という言葉が、頭に浮かぶ。

この句を知ってから何十年も後のある春の日、私は唐突にこの碑を見つけた。
それは、ハイキングの途中だった。

眼下に広がる海は、

『のたり のたり』 

としていた。

波はなく、ひたすら静かに、そこに佇んでいる。

あぁ、この海が、『のたり のたり』 だったのか。

私はようやく、その言葉の正体を知った。

こんなに美しい海を、私は見た事があっただろうか。
与謝蕪村は、この海を見ていたのか。

穏やかな海。
穏やかな生活。

私は、これを探していたのかもしれない。

あの碑を見つけてから、更に何年も経過した。
今もなお、春が来るたびに、私はこの句を思い出す。

そして、目を閉じて、あの海を思い出す。

写真などなくとも、私ははっきりと、その海を思い出す事ができる。

私を包んでくれた、あの海と、あの思い出。

桜のように、一瞬だけ美しく咲き、散っていった。


今までにはなかった、ほんの少しの胸の痛みを、私は感じている。

でも、あの日々を忘れなくてもいいよと、私は私に言ってあげる。

春の季節は、ほんの少しだけ、自分に優しくありたい。
思い出さえも、私の一部だから。

来年の春が来れば、私はまた思い出すだろう。
キラキラと光る海面と、キラキラと光る遠い日の思い出を。
春の日と、春の碑のことを。

もう手が届かなくとも、一年に一度くらいは思い出してもいいだろう。
日本に置き残してきた、美しい思い出のことを。

ドイツ生活が長くなっても、私は美しい日本と、美しい日本語の響きが好きだと、はっきりと感じている。

暖かい太陽の日差しを浴び、太陽を見上げ、目を閉じる。

自分が遥か彼方の海の上で

『のたり のたり』 

と浮かんでいる気分になる。

私は、今日も、生かされている。
思い出と共に、生かされている。

 


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