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ポメラ日記#008 趣味の本分


趣味ってなんでしょうね

これは自他共に認めるところだが、私は、俗に言うところの“多趣味”な人間であると思う。詩作、執筆、写真、文具収集、漫画、読書、etcと、節操も無くあれやこれやと手をつけて、どれもこれといった成果や収穫もない中途半端な状態ではあるのだが、自信の興味関心にはなるべく正直であろうとしているつもりだ。
一方で無趣味な人、或いは無趣味を自称する人というのもいる。私の対極だ。それ自体の善し悪しを言うつもりはない。だが、人間全体を俯瞰的に見たときに、私のような(或いは私を遙かに超える)多趣味人間から、無趣味人間まで、様々な人がグラデーションとして存在する、というのは、よく考えてみれば面白い。仕事でも学業でも、育児でも家事でも無い時間、すなわち可処分時間の使い方は、いったい成長過程のいつ、どのように決定づけられるのだろう。そして、そもそも、趣味って一体なんなのだろう。

趣味は人生を豊かにする、は本当か?

私自身、幼い頃から読書を趣味にはしていたものの、これといって多趣味な子供では無かったように思う(そもそも、多趣味な子供なんて存在するのだろうか?)。自分が多趣味化した、節操のなさを世間に露呈し始めたのは、おそらく大学の学部学生時代だろう。(今からみれば)膨大に与えられた可処分時間を、学生の本分であるところの勉学に費やさなかったのが運の尽き、そのまま節操なくあれやこれやに手をつけ始め、肝心の勉学の遅れを取り戻すのには随分と苦労した(そして愚かにも,苦労し続けている)。
人生において可処分時間を膨大に、かつ長期的に与えられる時期、というのは決して長いとはいえない。大半の人にとっては、高校卒業から新社会人、あるいは所帯を持つようになるまでの数年程度なのではなかろうか。私の考えではこの期間に可処分時間との向き合い方、すなわち趣味のあり方が決定されるのでは無いかと思う。
そして(私の例は極端にしても),往々にして趣味という物は自分のなすべきこと、何かをやるべきであるはずの時間を容易に浸食する。気付けば朝までアニメを見ていた、とか、ゲームをやっていたら寝るのを忘れた、とか読書をしていたら電車を乗り過ごしたとか、そういう身近な例は枚挙にいとまが無い。そう考えれば社会的な責任や本分をおろそかにするほどの熱中は、人生を豊かにするどころか、かえって破滅させうる危険因子なのかもしれず、無趣味で自分のやるべきことに集中している人こそ、よっぽど豊かなのかもしれない、とすら思える。
しかしながら、どんな人にも可処分時間というのは存在する。(もし今、これを読んでいるあなたが、1分たりとも可処分時間を感じていないのだとしたら、それはその時点で生活リズムや労働環境に問題があるはずなので、とりあえずこんな記事を今すぐ閉じてゆっくり寝てほしい。)時間が誰に対しても平等に与えられる資産である一方で、貯蓄や備蓄といった概念が存在しない以上、この可処分時間は(仮にあなたが無趣味であろうが)何かしらの活動によって消費されているはずなのだ。
一体何に?
何となくテレビを見ている?
何となくYoutubeを見ている?
何となく漫画を読んでいる?
何となくゲームをしている?
どれでも構わないが、この”何となく○○”は、どうして一般に趣味と呼ばないのだろう?私たちが趣味と呼ぶものは、いわゆる“遊び”と何が本質的に異なるのだろうか?

趣味は遊びの延長なのか?

子供の遊びじゃないんだよ、という(やや老害的な)言い回しがあるように、遊びというのは成果や責任の伴ういわゆる仕事とは相容れない関係性にあるようだ。
では趣味はどうか?仮にそれが可処分時間を消費する、仕事でも勉学でも無い活動であったとしても、そしてそこに何一つ責任が生じないとしても、趣味の活動を「所詮遊びでしょ?」といわれたら、ムッとする人も多いのでは無いだろうか?上記にあげたように、何となく○○を趣味としてカウントしない、という傾向から見ても、どうやら趣味というものは遊び以上の何かではあるようだ
さて、ここで私たちの行動を①仕事や勉学、②生活全般(家事等)、③趣味、④遊びの4種類に大別してみる。縦軸は行動の重要度合いとし、横軸は活動に対する要求度、すなわち自分或いは他人がその活動を通じた結果や目的の達成をどれだけ求めるのか、という尺度で分類すると、おおよそ下の図のようになるだろう。


この図で言えば、趣味は遊びの延長にありながら、要求度がより高くなる活動に向けられた定義であるように思う。例えば、子供が公園でスポーツをして遊ぶときは自分を含めた誰からも、何一つ求められることは無く純粋な楽しみとしての活動になるが、ひとたび少年○○チームや部活動になると、チームメイトから、コーチや顧問から、何よりもっとうまくなりたいと思う自分から、結果や努力を求められることになり、それは遊びという枠を徐々に超えていく。そして、結果に報酬が結びつき、自分の生活基盤としての機能が追加され、重要性が上がったとき、それはもはや趣味ですら無く、仕事になる(プロスポーツ選手)。重要性や要求度が増した分だけ、すなわち遊びから遠のいた分だけ、純粋な楽しみが薄れていくことは想像するに難くない。

そこで改めて私の趣味を再定義してみると、上記のうち詩作と、語学以外は、どれも自分への要求度が高くないことに気がついた。他人からの要求度はどれも一様に低いけれど、詩作や語学は私なりの目標があり、曲がりなりにもその目標に向けた活動内容になっている。一方でその他の活動、例えば読書は、特にこれといった目標も無く(年間何冊、とか)、純粋に知りたい、楽しみたいという欲求に従っているだけだ。
なんと、私は、多趣味なのでは無かった。
ただ、好奇心や欲求に従順な遊び人だったというわけだ
開き直るようで恐縮だが、それでいいのではないか、と現時点では思っている

多趣味であること、つまり多方面に向けて目標を立て、同時進行的に多様な活動を展開する人たちのことを否定はしない。私よりもバイタリティに優れ、知的な方々の中にはそういった活動の仕方が可能な人もいるだろうし、正直言って羨ましい。だが、冒頭に述べたとおり、趣味というのは、原則的に可処分時間を費やすものである。にも関わらず、人生に浸食的であり、その扱いには注意が必要だ。だからこそ、人生の大切な時間に影響を与えない範囲での活動となれば、私を含めた平均的な人類にとってせいぜい2~3つの趣味が関の山ではなかろうか。
では他を諦めろということか、というと、そうではない。(私自身、そんなにスパッと諦められたら苦労は無い。あれこれやりたい。)趣味で無くても、遊びとして継続したらいい。このとき大事なのは、自分に何も求めず、目標など決して掲げず、ただ楽しむことを目的とする、ということだ。実際、この記事は私の可処分時間の一部が費やされた結果であるわけだが、誰かから依頼された訳でもなく、自分が書きたい、考えをまとめてみたい、そして他の誰かの意見を聞いてみたい、という欲求から生じたもの、つまり遊びによって書かれた文章である。
遊びだからといって、不真面目なわけではない。
遊びだからと言って、適当な訳では無い。
公園で遊ぶ子供たちを見ていればよく分かる。崇高な目標が無くとも、私たちはただ楽しむという目的のために真剣になれる、希有な生き物だ。

やりたいことを忘れるな

ここまで読んでくれた方の中には、そんな風に趣味を割り切れない、とか、いやいや遊びだって十分に、ひょっとしたら趣味以上に人生に浸食的だ、とか、お思いの方もいるかと思う(本当にその通りだ。突っ込みどころ満載で申し訳ないが,遊びについての考察はまた改めて別記事にしたいと思っている)。
一方で、無趣味だと思っていたけど、私は自分に何も求めず、純粋に遊びを楽しめているんだ、と自分の活動を肯定的に解釈できた方もいるかもしれない(いてくれると嬉しい)。私の希薄な人生経験では、現代の極めて多様化した個人それぞれを網羅することなど出来るはずもなく、またする気もないため、私の論にそぐわない方、異論反論を持つ方がいればそれは当然の結果であると思う。繰り返しになるが、これは私が遊びの一環として書いた思考の再構築であり、楽しんだ軌跡であるため、仔細の不備、論の稚拙さについては目をつむっていただきたい。
誰もが手元の端末一つでエンターテインメントを享受できるようになった現代で、私たちの可処分時間は今や立派なリソースとして巧妙にかすめ取られていく。もちろん、テレビやYoutubeなどのエンタメ消費を遊びとして選択することは悪では無いが、自分から選択することと、誰かにそう仕向けられていくことは違う、と私は思う。私たちの人生は、誰かに譲り渡せるほどには長くないはずだ。
もし、何かやりたいことがあるなら、それを忘れてはいけない。可能なら、今日からでも遊びとして始めてはいかがだろうか。崇高な目標は要らない。ただ、楽しいと思える方角へ、一歩を踏み出すだけでいい。それがやがて趣味になるかもしれないし、ならないかもしれない。三日坊主になって二度と手をつけないかもしれないし、生涯続けるライフワークになるかもしれない。遊びを入り口として、人生を彩りうる種子、それこそが趣味の本分だ。

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