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科目ではなく「学び方」を選ばせるカリキュラム

ケネディスクールに来て、同学年の仲間たちと話していると、カリキュラムについて2種類の声を聴く。

"カリキュラムに自由がなさすぎる"

"カリキュラムが自由すぎて逆に困る"

なぜ同じ大学院の中でこんなにも両極端の意見が上がるのかというと、どのコース(学位)に在籍しているかによって、カリキュラムの自由度が大きく異なるからだ。

ケネディスクールには4つのコース(学位)がある。

  1. Master in Public Policy (MPP)
    (公共政策)

  2. Master in Public Administration in International Development (MPA/ID)
    (国際開発における公共経営)

  3. Master in Public Administration (MPA)
    (公共経営)

  4. Mid-Career Master in Public Administration (MC/MPA)
    (ミッドキャリア公共経営)

初見の人にはおそらくチンプンカンプンだと思うが、各コースについて説明は後のエントリに譲りたい。

ただし、冒頭の話に戻れば、「自由がなさすぎる」と発言している人がいたらそれは必ず、上記の1, 2のどちらかであり、逆に「自由すぎる」と発言する人がいれば、それは3, 4のどちらかである(と言って差し支えないと思う)。


かくいう私は、1の公共政策、MPPに属している。すなわち自由を剥奪された社会集団である。

「自由がない」というのはどういうことかというと、簡単に言えば「必修科目が多い」ということである。2年次は別にして、1年次はほぼ全てのコースが既に決まっている。公共政策というジャンルは日本でいえばどちらかというと文系に属すると思うが、必修科目の多さで言えば日本の大学の理系に近いと思う。

具体的には、各学期の履修上限が20単位なのに対し、1年次の秋学期は18/20単位、春学期は16/20単位が必修としてすでに確定している。

それでも、秋には2単位、春には4単位残りがあるではないか、と思われるかもしれないが、20単位というのはあくまで上限であって、実際には必修科目はどれも相応に課題が多く、なかなかスケジュール的に追加で科目を履修できるキャパシティがないものなのである。


さて、前置きが長くなったがここからが今日の本題だ。

MPPに合格した当初の私には、もちろん嬉しさもあったが、「必修科目が多すぎて、自分が興味もない科目を学び続けなければいけないのではないか」という不安も正直あった。いくつか学びたい必修科目ももちろんあったが、「アメリカの人種差別」や「政策分析における統計学」など自分の個人的な興味関心からはやや遠い必修もあった。

しかし、この懸念は杞憂であった。(正確に言うと、「半分くらい」杞憂だった。)

というのも、必修科目ではあるものの、学び方を自分で選択できるからだ。少し矛盾した表現に聞こえるが、つまりはこういうシステムなのである:

  • 生徒が履修すべき「科目」はすでに決まっているため、基本的に変えられない

  • 一方で、ほとんどの「科目」には複数の授業時間オプションがあり、それぞれ異なる教官が教鞭を取る。それに応じて指導アプローチも異なる。

  • 生徒には、各科目について、どのコマが誰によって、どんなアプローチで教えられるのかという情報が大学側から提示されるため、各自それを読み込んだ上で希望の授業時間を提出する

  • 希望に基づいて大学側が人数等を調整し、最終的な履修教官・時間を生徒に通知する

つまり、ケネディスクールのMPPは、科目は選ばせないが、学び方を選ばせるカリキュラムだと言える

具体的な必修科目の選択肢には例えばこんなものがある(そして、この選択の幅は生徒からの声に基づいて年々広がっているとのことである):

  • 経済学:

    1. 最低限の数学だけを使って、座学中心で学ぶ(この場合さらに複数教官から選ぶ)

    2. 微分積分を含めた数学を用いて、座学とセミナーのハイブリッド形式で学ぶ

  • 統計学:

    1. 複雑な統計的分析を「理解できる」人材になることを目指す(Excelを使用)

    2. 複雑な統計的分析を「自らこなせるようになる」人材になることを目指す(R言語を使用)

  • 交渉:

    1. 国同士の交渉や多国間交渉を念頭に置いた、マクロな交渉戦略を学ぶ

    2. 人間の行動心理に焦点を当てた、ミクロな交渉戦略を学ぶ

複雑になるので教官の名前まではあえて書かなかったが、上記のような学び方の違いに加えて、さらに各教官の教え方や専門領域の違いも存在する。もちろん、実際に全員の授業を受けてから決められるわけではないが、過年度の各教官の授業評価(生徒が提出するもの)はデータベースとして生徒に公開されており、それをもとに判断することも可能だ。

こうなるともちろん選ぶのは大変になるわけだが、それでも、自分の興味関心に近い内容を扱う授業や、自分が好感を持てる教官に教わることができる。(もちろん全ての希望が通るわけではないが、比較的通りやすいようで、自分について言えば幸い今回は全ての希望が通った)

このシステムはなかなか面白い。少なくとも私が通っていた日本の大学では、同じ必修科目の中にここまでの選択の自由度はなかった。(一部選択できるものもあったが、教官は違うが同じことを教えているだけであったり、どう異なるのか事前にわからないまま選択することが多かったと記憶している)。もちろん、日本の大学とは比べ物にならない学費がかかっているので当然の体制という受け止め方もできるが、一部の必修科目に縁遠さを感じていた自分には、ありがたい仕組みだった。

授業を受ける目的が、全員にとってコンテンツそのものを学ぶこと(what)とは限らない。特定の人から学びたい(who)というのも目的になり得るし、特定のアプローチで学びたい(how)というのも目的になってよいはずだ。

人によって異なるその目的意識に応えることのできる、この”不自由の中に自由がある”カリキュラムも、案外悪くないのかもしれない。そう思い始めた今日この頃である。

ではまた。

追記:必修科目を含めた秋学期の授業を振り返りました。


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