見出し画像

人の顕在的なニーズを満たすのではなく、潜在的な望みを汲み取る

精神面に色々アプローチしても上手くいかない時、自分の潜在的に望んでいることってなんだろう、ということをずっと考えていた。


顕在的な欲求は手段、潜在的な欲求は目的

「人ともう関わりたくない」と思っているとき、潜在的な望みは「人と関わらない」ということではない。それは顕在的に思っていること(顕在的な望み)である。本当の望みは「自分の意図を伝えた上で、その人と仲良くしたかった」ということである。

「本当は仲良くしたかった」ということが叶えられなかったため、人と関わること自体を拒絶することにより、一時的に自分の精神を守る。それはそれで心の防衛として仕方のなかったことだ。

他者に尽くしすぎる人間は、過剰に世話を焼いたり尽くすことで「自分が必要とされたい」と感じている。その人の潜在的な欲求は、きっと「誰かに必要とされている」という実感である。そうであれば、過干渉は次第に落ち着いてくるだろう。

「もう恋愛したくない」という人の潜在的な望みは「もう恋愛しない」ということではなく、「傷つきを解消し、また恋愛をしたい」ということだろう。仕事で精神を病んで長期的に引きこもっている人の潜在的なニーズは、仕事をしないことや引きこもることではなく、「本当は人の役に立ちたい、ちゃんと仕事ができるようになりたい」ということだろう。

精神科医や心理士がよく言う「疲れているんですね、頑張りすぎなんですよ。休みましょう」と言うのは間違いではないけれど、やはり対処療法にすぎない。(もちろん対処療法の過程を経て、根本的な解決に向かっていくのであるが。)

事実私も、「心の電池が切れているんですよ、休みましょう」と言われた。それはそれでいいのだけれど、私が休んでいる間にも生きるためにお金がいる。そしてそうしている間に年月がすぎ、私は年齢を重ね、どんどん社会復帰がしづらくなるという悪循環を生んだ。

精神的に本当に休めている、と実感できる時は、「他の何かに集中し、忘れられているとき」である。体ではなく、脳を休ませなければならない。したがっていくら外に出て散歩しようと頭の中で思考がぐるぐるしていては休んだことにはならない。

鬱状態の時、人は思考中毒になっている。(そして情緒不安定は感情中毒である、と私は勝手に解釈している。)

潜在的な望みは自信がつく選択

私の潜在的な望みは、「過去と同じような場面に直面しても、それらに動じなかった、過去と同じように不安に駆られ衝動的にならなかった」という成功体験を積むことである。そしてこの潜在的な望みは、本当は自分ではわかっている。わかっているからこそ、満たすのがあまりにも怖い。それを実行することが死ぬのと同じくらい怖いからだ。

自分の潜在的な望みを認識するというのは、恐怖である。自分をありのままに見つめなければならない。しかし皮肉にも自分の潜在的な望みを満たし始めると、少しずつ停滞していたものがいい方向に向かっていく。

自分の潜在的な望みを満たし始めると、他者の潜在的な望みも汲み取ることができようになる。

潜在的な望みを相手が受け入れない時

例えば傍若無人な人間がいたとして、その人間が潜在的に求めているものは、本当は心の底から誰かが自分のことを想って叱責してくれることである。

これは、実行できる人間はあまりいないと思う。特に職場などの人間でそういう人がいて業務に支障が出るとなると、その人間関係の重要度が上がれば上がるほど、「上手くやらねば」という意識が強くなる。

現にその人の潜在的な望みを汲み取ったからといって、相手が利己的な人間であればあるほど、その瞬間は怒りを爆発させ荒れ狂うかもしれない。そしてあくまで潜在的なのだから、本人も自覚していない場合が多く、「嫌なところを突かれた」としか反応できない人間も一定数いる。

「それではそういう人間には、潜在的な望みを汲み取ったところで無駄ではないか」と思われがちだが、だからといってその人間の顕在的な望み(例えば相手がなんでも言うことを聞いてくれることを望むなど)を満たしたところで、相手が本当の意味で満たされることはないからだ。穴の空いたバケツに水を永遠に入れ続けるようなものだ。

私なりの落とし所ではあるが上記のような人間に対しては、顕在的な欲求も潜在的な欲求も、どちらも満たさないことにしている。いきなり辛辣にはなるが、そういった人間にどんな肩書きがあろうとも、人としてはそんなに賢くないと判断するからだ。

まず自分に意見する人間を自分の敵、排除する対象と認識している時点であまり能力がないと思ってしまう(学力の話ではない)。視野が狭く、将来性も感じない。人生において知覚を広げる気がなく、全てが縮小していくような印象を持つ。

巷でよく言われるギブ精神というのは、単なる自己犠牲精神というわけではなく、他者の潜在的なニーズを把握することだろう。自分も他者も大切にするという考え方である。

ただ目の前に与えられるものを、思考停止で「これをこなしていれば、いつか報われる」と盲信的にこなすのは自己犠牲である。ただ顕在的なニーズに応え続けているからである。それはまわりまわって、相手のためにも自分のためにもならない。

ちょっとトンデモ理論になるが、仮に相手が怒り狂ったとしても「自分と相手の関係がよくなるように」というような動機があれば、現在的には相手が憤慨していようが愛情(潜在的な欲求)は満たせていると考える。※キレすぎて暴力を振るうとかは論外であるが。

ただし相手によってはそれが伝わるのが年単位だったりもするし、一生その欲求が顕在化してこない人もいる。