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集団で期待される役割

今回は、ちょっと倫理的にこんな考え方はどうなんだという内容になっているかもしれない。

ただ私が言いたいのは、被害者にも非があるとかそういった旨のことではなく、人と人との間で何かしらのトラブルが起きる時、こういう仕組みになっているのではないか?という推測である。


人間関係=物理的情報場+非言語情報場

人間関係は、物理的な情報を共有する場(その人間関係が集まる会社、友人グループ・サークルなどの団体、組織)と非言語的情報を共有する場(集団内で期待される役割、目的や信念などを共有する価値観)の上で成り立つものだと考える。

それは例え会社だろうとプライベートの集まりだろうと、営利目的だろうと非営利目的だろうと、物理的(外側)な情報場はなんであれ、そこの集団での「色」みたいなものが必ずできあがる。

会社であれば経営理念とか経営方針があるだろうし、友達グループひとつにとってもその場の暗黙の了解とか空気感みたいなものが必ずあって、そこに馴染むとか馴染まないとか肌で感じて、結果的に長い付き合いになったりするのだと思う。

疎遠になる=非言語情報場の共有ができなくなった時

そしてそこに自分が馴染むとか居心地が悪くて去るとか、そんなことが起きるのはそこにいる人間と「非言語情報場」の共有をはかれない、もしくは次第にはかることが難しくなってきた時に起きると考える。

なんかズレてる、合わないな、居ても立っても居られないくらいざわざわする(ここまできたら頭で考えるより先に体が拒絶反応を起こすけれど)、と感じる。自分じゃなくなる。

人は無意識に人間関係の中で役割を決めてしまう

例えばいじめとか犯罪とか、集団のなかのヒエラルキー(学校のクラスの一軍とか二軍とか、もしくはさらにその一軍の中のメンバーのヒエラルキー)とかも、自然になぜかその中で役割が決まっていって、それぞれがその役割を演じさせられている、演じているように思う。

ちょっと反社会的な考え方になるけど、いじめられっ子がいていじめっ子の存在が成立するし、パワハラされる人間がいてパワハラする人間が成立するし(その逆も然りだけど)、人と人との在り方はいつも共鳴していて、それは脚本に出てくるキャラクターみたいだ。

ジャイアンがジャイアンっぽい性格(?)でいつづけるには、のび太という性格の人間が必要だし、スネ夫が金魚の糞っぽいキャラクターでいつづけるには、ジャイアンといういじめっ子がいなくては成立しない。

過干渉な親が過干渉をし続けるには、干渉する対象の子供がいなくては成立しないし、被害者でい続けるには加害者がいないとなれないし、加害者でいるには誰かを被害者にしないといけない。

自分が何もかも世話を焼きたければ、ダメな人間がそばに居続けなければ世話を焼き続けられない。誰とも本質的に心を通わせられない自分でい続けなければならないなら、理解し合う前に関係を終わらせなければならない。

誰かに同情されたければ、予め散々自分を痛めつけておいて、誰も自分を批判できないくらい、可哀想な自分でい続けなければならない。

自分で書いた脚本に作者である自分が翻弄されない

「自分がこういう自分でい続けるには、こういう人間が必要だ」という精神状態の時、無意識に自分の周りにそういう役割の人間を登場させているのではないか。

人生は「期待されている役割」をあえて演じなくていい場所、もしくは無理やり演じずに結果的に期待されている役割に自分がはまった、そんな場を探すものといってもいいと思っている。それを自分にとって良い人間関係というのではないか。