見出し画像

繊細な人こそ「自分の意図」を意識して発信していくように努めていく

私はいわゆる「繊細な人(エンパス)」に部類される方の人間だと思う。(
神経症傾向があると表記すると、その表現が病的なイメージがつくのでやめておく)。

自己理解を深めるために、ネットで同じようなタイプの人たちの意見を見たりすることもあるのだが、疑問を抱くものも多くある。



「人の気持ちがわかってしまう」は本当か

それは、「人の気持ちがわかってしまうので、つらい」というものだ。私と同じタイプの多くの人がこれを言うのだが、正直それは思い上がりなのではないのかと思う。

そんな能力があれば就職せずとも、占い師だとかでその能力で無双できるだろう。そもそも「私、人の気持ちがわかるんです」なんて豪語している人間が私の目の前に現れたとして、私はその人間のことを正直警戒する。わかっている気になっているだけで、それは妄想や主観、思い込み、決めつけに過ぎない。

思い込みや妄想が加速すると精神疾患になりやすい

こういうことを素人の私が言うのもなんだが、このようなタイプが不健全になると精神疾患になることもあるので、現実をきちんと、ありのままに認識する能力を伸ばす努力はそれなりにした方がいいと思っている。

特に未熟なエンパスに、このような「人の気持ちがわかる」と思い上がる傾向があるように思う。

そもそも人の気持ちは流動的である

そもそも人の気持ちなんて、仮に分かったとしても天気予報みたいなものである。不確かで、流動的で、永遠も保証もない。それを超えてもかつそれを維持していきたいという「意志」とか「覚悟」とか、そういうものが親友とか配偶者とかっていう「長期的なパートナーシップ」だろう。好きとか嫌いとか、そんな感情の揺れを超えたものだ。

人との長期的なパートナーシップに必要になってくるのは好き嫌いの「感情」ではなく、覚悟とか意志といった、「信念」に近い。

巷でよく言われる、長期的なパートナーを選ぶときは好き嫌いで選ぶなとはこういうことであろう。ちなみに、人間だから好みというものは必ずあって、好みで選ぶことが悪いわけではない。

パートナーシップとは、理屈とか正論とかを超えたものだ。

相手とコミュニケーションを行った上で判断する

話を戻すとして、繊細な人間ほど自分の意図を伝える際に相手の出方を伺ってしまうため、「察して」というムーブを出すことしか自分の意図を匂わせることができない。

言ったとしても非常に遠回しな言い方であったり、態度や表情で察してもらおうとするので、トラブルになりやすい。それを、「私は繊細だから、言えないんです」と言うのは思いやりがないし、繊細の皮を被った自己中である。

このような人間は繊細であっても、決して優しく思いやりのある人間ではない。自分への執着ばかりが強い。他者への健全な興味は失っている。

思いやりとは他者への配慮であり、健全な興味である。「私はこういうことを言うのは苦手だけれど、言うことによってこの人との関係がよくなるなら言おう」というのが思いやりである。

「私はこの言い方でわかるけど、この人にはこういう言い方の方が伝わりやすいかな」「嫌われるかもしれないけど、この場が良くなっていくのなら、やってみよう」と、自分への執着より他者への関心を優先することが思いやりであり、愛情である。

巷でいう繊細な人間の優しさは所詮自己執着であることが多いように思う。それは単に自分のイメージを守るために他者を利用するやり方であり、思いやりや愛情ではない。