見出し画像

バックドロップカーネーション

昨日、母から「この前の母の日にくれたカーネーションの鉢植え、一回り大きい鉢に植え替えて肥料もたっぷりあげたよ~大きく育てて越冬させるからね。ありがとうね。」との知らせが届いた。平和で何よりだ。

母にも花を愛でる心が戻ってきてくれたことを本当に嬉しく思う。
実家には暗黒時代がある。どこの家庭にでもあるのと思う。
そんな暗黒時代にカーネーションにまつわる事件が起きた。
病気療養の為に30代半ばで公務員を退職した父。再就職するまでかなりの年数を要した。

事件は療養中の母の日におこった、父から花の配達をする有名店に依頼を受け、自宅に鉢植えのカーネーションが届いたのだ。母は無表情で配達員からそれを受け取り、配達トラックが去った後で、鬼の形相で包装紙を乱暴に剝き鉢植えを真っ逆さまに落とした、玄関の真横の小梅の横にバックドロップしぐちゃぐちゃに踏みつけにした。小学生の私には震えるほどのかなりのトラウマの出来事だ。
「…お母さん、やめてよ?可哀想だよ」と言うと「私のほうが可哀想やわ!!今日も夜勤から日勤続くから寝る、絶対起こすなよ!寝れないと死ぬから仕事中眠くなるとしんどいんや。子どもには分からんやろうな」と言ってドスドスと家の中に入って行った。

母が去ったあと根っこが生きていればまた咲くかもしれない…拾い上げひっくり返してみると花はひしゃげていて茎も全部折れてしまっていた。
あぁもうこれはダメだなと思ったが、散らばった土を箒で掃除し栄養がありそうなアジサイの横に植えなおした。密かに世話をして夏前には小さなつぼみがついたことを祖母に報告した、母には決して言えなかった。

母が鬼になってしまった数年間には全うな理由がある。
母はバブルの独身時代に遊ぶことなく、せっせと貯金し定期預金もたくさん貯めて当時は珍しい資産運用をしていた。それを父は独身時代に貯めた資産をすべて勝手に解約し、ギャンブルで使い果たし、宝石類は質に入れられてしまった。母方で代々受け継がれてきた宝石類は二束三文で売られた。一度だけ見せてもらった600万のエメラルドのペンダントは塵となったのだろうか。そして父は競馬競輪競艇パチスロ酒と女に溺れる、もうどうしようもない状態な父がそこにはいた。しかも借金が700万円あることが発覚した。どんな風に遣ったのかを今も聞けていない、ホンマにアカン話は聞けないし言えないのだ。

母はあの時は白目を剝いて倒れそうになったと話す。銀行の貸金庫に泥棒が入ったのかと思ったと母は思ったそうだ。獅子身中の虫の仕業だった。
最近になって聞いた話だが、あの時はもう死のう…そう思ったという。すかさず「そんなの責任あるほうを殺さなアカン、殺してもアカンけど死ぬのはもっとアカン、最悪川に流せばええねん」と私は言う。娘が私より気が強くて安心だと言う。

夫婦といえど元は他人だ。いくら夫婦仲が良くてもあなたは必ず隠し口座を一つは持ちそこには一本貯めておきなさい。そして通帳は隠し見つからないようにしなさい、あと暗証番号は絶対に教えてはいけないと手痛い経験から家訓が生まれた。

大学生くらいにすべてを聞かされた時、心底父を軽蔑した。あとなぜ離婚しなかったのだろうかとも同時に思った。立派な離婚理由にもなっているし、かなりの額の慰謝料と養育費をむしりとれたと思うのだ。

カーネーション時代の話に戻る。病気療養のために父は父の実家に帰されていた。自宅で面倒をみながら爆裂に働くことは出来ないと母は判断した。そして小学生2人の面倒もみなければいけない。とてもじゃないけれど無理だ。

祖父がまだ元気だった時、借金返済の為にある程度まとまった額を用意してくれた。愚息のしたことだ、苦労をかけて申し訳ないと頭を下げてくれた母は泣いた。いくらアルバイトをしても利子の返済だけで元金がほとんど減らないカウカウファイナンス状態だったので本当に助かったという。その行為を父方の祖母はそれをよく思わなかった。手始めに父の療養費と食費を母に請求してきた、具体的には7万円くらい渡していた。「その分私が頑張ればいいんねん」母は夜のバイトを増やした。

私は学校の図書館で『食べられる野草』を貸りて学校近くの河川敷でヨモギやつくしをポケットいっぱいにして持って帰った。おかずゲット。本に載っている食べ方の調味料がなくてよく洗って醤油をかけて炒めて食べた。そんな中その7万で刺身やら牛肉やら食べていたのかと思うと本当に腹立たしかった。でも給食と野菜中心の生活のおかげで本当に痩せていった。兄はなぜか太っていった、給食ですべてのカロリーを摂取するため吸収率がおかしくなったのだろうと推察される。相撲取り理論だ。

母は昼は会社員、夜はベルトコンベア式な工場と飲食店2店のアルバイト。盆暮れ正月は手当が出るため、もちろん出勤していた。誕生日やクリスマスケーキなんて幻想だった。実家では極力光熱費を使わないように節約の日々だった。当たり前だがクーラーはつけない、冬場はストーブの前でせせこましくくっついて過ごした。

お風呂はシャワー厳禁、追い炊きももちろんなし。服は最低限しか持っておらず、体操服ばかり着ていた。夏場は極限まで薄着、冬場は1枚しかないコートをずっと着ていた。これは本当に困った。

数年後、祖父が死んだ時の遺産を分け分けする時に祖母は実家には1円もくれなかった。「あの時に渡した額で十分やろ」と言われ、カッチーンとなった私は葬儀の後の寿司を祖母に向かって投げた。「こっちの家がお前の息子(父)せいでどれだけ苦労したか知らんからそんなこと言えるんや、あと法律違反や!訴える!」そう言って葬儀会場を飛び出して5駅歩いて帰った。

行列のできる法律相談所が唯一の娯楽だった私は法律の知識をそれなりに身に着け、遺言とかない限り私にだって遺留分とかあるやんけと毒づいていた。私が出て行ったあと父方の意地悪な親戚に「あんなん子どもが言うことやろか…」と母は私の教育について責められたとあとから兄に聞かされ反省した。それ以来父方の祖母の家には極力寄り付かなくなった。正月も従妹とお年玉に差をつけられているのを知ってから辞退するようになった。嫌な子どもだ。従妹たちがつついた後のお節料理を食べさせられるのは屈辱だった、あんなもの食べるくらいなら飢えていたほうがいい。

そして住宅地には自治会というものがある。役員が数年に一度回ってくる。実家も例外ではない、母は旧知の仲のいわゆるボスママに涙ながらに事情を話し、役員を決める会議の場でボスママの鶴の一声。「〇〇さん家は役員ダメよ」そう言って他のご婦人を黙らせてくれた。しかもそのボスママの家には女の子がたくさんいて、お古の服をたくさんもらった。中学の制服や物品ももらった。学生時代はそれでしのいだ。夫の稼ぎで専業主婦をしている人がほとんどの地域だった、お料理教室やエステに通っている婦人には貧乏の暮らしのリアルなんて分かるわけない。

だけどその役員免除の特別扱いを面白くないと思った陰険な人間もいる。自治会主催の夏祭りで子どもの名前がかかれた提灯が飾られるはずなのに、私たちの分はなかった。本部の中に自治会館の段ボール箱に折りたたまれたままの私の名前の書かれた提灯を見つけ、この日だけはと祖母からもらったお小遣いを握りしめて泣きながら帰った。腹が立ち、せっかく祖母に着付けてもらった浴衣を玄関で脱ぎ捨てその日は何も食べずに眠った。

私たちの子ども時代はこうして奪われていった。
兄も同様に心がすさみ、分度器を買ってほしいと言えずに算数の教科書を切り抜き、厚紙に貼って使っていた。担任の先生にそれを咎められ、「なんでもかんでも買ってもらえる子どもがおると思わんとって欲しいです」と言ったらしい。

春先の廃品回収で参考書を拾いに行くぞと私を二人で自転車の籠いっぱいに入れて家に持って帰った。有名塾に通っている先輩のものは必ず拾って家とゴミ捨て場を何往復もした。そんなこともあって勉強はよくできるタイプの兄だった、私と違って努力の人だ。先生は三者面談で本当に心配してくれたらしい。このまま才能を潰されるのだけは可哀想だと懇々と言われ母は追い詰められていった。食費や被服費を切り詰め兄は有名進学塾に入った。

母は学問は最後の平等レースとよく言っていた。お金がないのは本当にごめんとよく謝ってくれた。母は悪くないのに。そして兄はよく私に勉強を教えてくれた、頭の出来が違って何度聞いても分からないと言っても怒らずにどこから分からへんのや?とかなり根強い先生だった。おかげで勉強で落ちこぼれることはなかった。今でも感謝している、優しい姉のような兄だった。何をしても怒らなかった。

私は小学校高学年の頃には市民図書館で借金返済についての知識と自己破産のメリットとリスク、離婚と親権の知識を仕入れて母に話をした。
自己破産をすると社会的に父が死んでしまう、離婚は子ども2人が成人するまでは考えらえないということが母の強い信念だった。しつこいくらいに母に提案したが決して首を縦には振らなかった。

そうして中学生の頃、父が療養を終えて、家に戻ってきた。
反抗期も手伝って汚いものとしか思えなかった。給料だって母のほうがとんでもない額を稼いでいたし、土日は必ず休みの父が嫌いだった。
父は家に居場所がなく、土日には健康ランドに入り浸っていた。
「家にも風呂があるのになんでわざわざ贅沢なことしてんねん、毎週毎週、一人だけズルいわ」そう思っていた。

平日に脱衣所で服を脱ぎ、お風呂に入ろうとしている時に、父が帰宅した。
自宅の構造上脱衣所と洗面所が一体化している。
父は手を洗うために脱衣所に入ろうとしてきた。
「今、服脱いでるからお風呂場入るまでなんで待ってくれんの?この変態!」と言うと父がブチ切れた。

「だれが変態野郎や、お前なんか力じゃ男には敵わんのや!と裸のまま外に放り出されて鍵をかけられた。母が帰宅するまで当時飼っていたワンコの犬小屋の中で身を隠すしかなかった。
父とはいい思い出もあるが思春期に入るまでの離れていた期間のせいか歯車が組み合うまでどうしようもない喧嘩を繰り返した。

薬とお酒の相性が悪いことは周知の事実であるにも関わらず、無視して毎晩泥酔する父親がそこにはいた。夜遅くまで勉強している時にトイレから聞こえてくる放尿音に何度も腹を立てた。うるさいから座ってしてほしいと頼んでも無駄だった。掃除するのは私か母なのに理不尽だと思った。
こんなことになるなら父親なんか要らないと母に訴えた。

母は父と結婚して、あとから子ども側が言うことじゃない。扶養されている間は文句を言わないで家のことを手伝えと言われたことは忘れられない。
理不尽に耐えられずこのまま父親と暮らすくらいなら寝込みを襲って殺してやると母親に言った、私は未成年やからすぐに出てくるしこのまま心を殺されるくらいならヤると本気で伝えた。父はまた冷却期間という目的で父方の実家に戻された。今度は仕事をしていたのでお金を渡すこともなかった。


中学の時からお弁当を作ってもらえず、自分で作っていた。寝坊した日は白米に鮭フレークを全面に敷き詰めた弁当を隠して食べた。同級生が「この冷凍食品、嫌いなんだよね~まず~い」とカップグラタンを私にくれた。めちゃくちゃ美味しくて惨めだった。

母に冷凍食品を買い置きしてもらえるように頼んでみた、ちゃっかり冷凍グラタンもリストに入れたがコスパが悪いと言って却下された。そのせいか大人になってから狂ったようにグラタンを食べた時期があった。業務スーパーで3つ入りの冷凍グラタンを主食にしていた。

そういえば中学の時の体育会に両親が見に来た。私は3年連続で長距離走にエントリーされていて、正直ほかのクラスの子はガチで走るのが早いラインナップでビリを覚悟していた。200mあるグラウンドを4周するだけなのにすごく憂鬱だった。
結果ビリではなかった。ちょうど真ん中くらいだった。
帰宅後、父に「なんで1位獲れへんねん。クソ暑かったのに見に行った甲斐ないわ」と言われたのは今も忘れられない。走ることに意義があるだろうに。
馬じゃないんだから過剰に順位にこだわらんでもいいんじゃないでしょうか。タイムスリップ出来るならアイスの1本でも持って自分を慰めてやりたい。

弁当事情に戻る。
高校に入れば学食があったのでいつも一番安い素うどんを食べていた。一度沁みついた貧乏は抜けない、一番高いかつ丼を迷わず選択できるのは幸せなことだ。3年間で片手で数えるくらいにしか食べなかった。相変わらず貧乏メシ(お弁当)も食べていた。

マクドナルドで働き始めた同級生を見て、お金がないなら稼げばいいやんと早々に気が付いた。担任にアルバイト希望届けを出し、許可を速攻もらった。ただ田舎過ぎてチェーンのファーストフード店が無かった。
店の前に高校生!バイト募集と書かれた個人経営のお弁当屋さんで雇ってもらった。平日は学校帰りそのままシフトに入り、ラストまで働いた。

そして余った揚げ物をもらって帰るパラダイスだった。ラストが近くなると唐揚げ弁当の注文はいりませんように…と祈り、ホットフードのケースを見ながらそわそわしていたら、そのうちに店主の奥さんがそんなに喜んでくれるなら好きなの揚げてあげるよぉ~可愛いねと優しくしてくれた。ありがたかった。

次の日の朝レンジで温めなおしてお弁当にいれた。お弁当のレベルが格段にアップした。まかないまであり天職だった。どんなに重いものでも笑顔で運び、近くからの注文は自転車で配達にも行った。遠くは大学生のバイトさんが運んでいた。大学生は近くのコンビニで何でも好きなジュース1本買いなと言って奢ってくれた、最高の職場だった。

本来はアルバイト禁止の高校だったが、経済的な事情と成績のバランスが取れていれば例外的によいというルールだった。成績と陸上部とバイトの両立はしんどかったがお弁当屋でのアルバイトはとにかく最高だった。

出身中学校の近くの店舗だったため、中学時代に大好きだった国語の先生が時々土曜日に来てくれた。それがとにかく嬉しかった。忙しい時間帯で対してろくな会話も出来なかったけれど、また来週も来てくださいとお弁当を手渡した。卒業してからもこうやって会える日があるのは私にとって希望の光だった。

恋は人を強くする、ある時に先生まだ独身?彼女はいるの?と聞いた。「いないいない、仕事が忙しすぎるんや、先生は一生独身かもしれんわ」とその言葉だけで舞い上がれるくらいにバカだった。

こうして楽しく稼いだお金は結果ほとんど使えなかった。携帯代払うくらいだった。そしてまたバイト先に父が来た。
娘がお世話になっていますとおかきを手土産に店長に挨拶に来た。
そして家族分のお弁当を5つ、一番高いものを買って帰ってくれた。
店長もおかずを過剰にサービスしてくれた。
今思えば親心なのだが、当時それがとんでもなく恥ずかしくて「私の人間関係に入って来ないで欲しい」と自宅に帰ってから頼んだ。
思春期の娘の取り扱いはとにかく難しい。私は自分自身でもそう思う。

父との関係修復は大学に入ってからだった。
部屋の整理をするのに車でホームセンターで大き目の収納ボックスを買うことにした。
たまたま土曜日の午前中、溜まったテレビ番組を消化して暇そうにしていた父親に「ねぇホームセンター、車で一緒に行ってくれん?」「ええで」だった。
あれが雪解けだったと思う。
その日を境に何でもないことを話すようになった。

その後大学4年時に内定していた地元大手企業を蹴り、専門学校へ進路を変更したり、その後は他県での就職や転職の度に激怒されることも多々あったが、大学生の間は平和に過ごしていた。

だけど成人してから夜の蝶をしていたことはいまだに親には言っていない。知らないほうがいいほうがいいこともあるのだろう。

ちょっと長くなった、今は優しいおじいちゃんになった父は信じられないくらい穏やかな情緒だ。人生の凪の時期なのかもしれない。実家を出てもう10年を越えた、あと何回会えるか分からない。孫を連れてなるべく顔をだそう。父の日はスルーしないようにもなった。私は父に罪滅ぼししたいのかもしれない。

この記事が参加している募集

#note感想文

10,632件

無印良品のポチ菓子で書く気力を養っています。 お気に入りはブールドネージュです。