【書評】「19世紀」でわかる世界史講義 的場昭弘

 


「19世紀」でわかる世界史講義 | 的場 昭弘 |本 | 通販 | Amazon



 

内容

西欧視点の世界史を疑問視し、歴史を時間軸に沿って概説する。


※著者はマルクス研究者


 


  • 内容

    • 序章 世界史を語る意味

    • 第一部 18世紀

    • 1章 世界史とは何か

    • 2章 先進アジアと後進ヨーロッパ

    • 3章 ヨーロッパの真実

    • 4章 近代という視点ー三十年戦争と国民国家

    • 5章 絶対王政と啓蒙主義ーアジアの閉塞とヨーロッパの世界進出

    • 6章 17世紀から18世紀に至る民主革命

    • 7章 絶対王政の崩壊と国民国家の勝利

    • 8章 国民国家による歴史の読み替え

    • 第二部 19世紀

    • 9章 労働運動の増大と社会主義、共産主義

    • 10章 アメリカへの移民

    • 11章 貴族支配とブルジョワ

    • 12章 ロシア南下と黄禍論の再燃

    • 13章 世界市場の分割帝国主義の時代

    • 14章 産業資本主義から金融資本主義への移行

    • 終章 第一次世界大戦と19世紀の終焉

  • 感想


 

序章 世界史を語る意味

海外と情報をやり取りする上で、重要なのは語学より視点。


 

第一部 18世紀 1章 世界史とは何か

世界史とは西洋世界視点


近代国家は共通の言語、民族、文化を空想してでっちあげる。


歴史を現在の西洋を理想とし、それに向かっているように仮想してしまう。


歴史観 羅列ではなく歴史解釈する。しかし、宮廷史学に次ぐ素朴実践史学は解釈の問題に行きつき否定される。そして、主観を交える者があらわれる。(ジュール・ミシュレ) さらに、西欧の優越を前提に置く世界史観も出現。


マルクスは西欧の歴史を実質的に世界の歴史とし、宗主国として資本主義を世界に広めたことは否定した。だが、社会主義の二段階革命を根拠にこうした世界史が生み出す文明化作用は肯定した。


モダンを近代と訳すが、中世、クラシックといった区分けは時間を輪切りにしているに過ぎない。


第一次世界大戦を経て、西欧の歴史観はゆらいだ。地主から産業ブルジョアに経済の手綱が渡った(ピケティ)。


失われた時を求めては一種の過去との断絶の物語。もう二度と戻ってこない。


トインビー、シュペングラー、カーも学者には馬鹿にされたが、WWⅠ後に登場し、学者の著書にも影響を与えた。西欧の野蛮さを抉り出した(シュペングラーが)。


西欧の自信喪失に際し、最も屈折してそれを感受したのは西欧の「周辺」であるロシアと日本。


山本新は「周辺文明論」で1.文明の誕生 2.文明流入の拒否 3.文明の受容と文明のあり方を分類している。


中国は文明流入の拒否を選んだ国。


世界史の勝利とは、西洋による一方的な勝利ではなく、抵抗の中の一時的勝利。


フランス革命はある種の象徴であり、革命(精神)が輸出されることで、ヨーロッパ全体の変革に結び付いた。


 

2章 先進アジアと後進ヨーロッパ

日本人は日本を世界史の中でも特別な位置につけたがる。


13世紀モンゴル帝国によって世界史はすでに始まっていたという意見も。ただし、資本主義ではないので否定する声も。


大航海時代の冒険は利益に対する願望が危険を上回ったから。世界史を説明するにはその論理である資本主義が説明されねばならない。


16世紀には宗教改革も起きる。


プロテスタントが内面的宗教だったことも重要。教会の権威があるという信仰の独立。


仕事に励むことが教会の礼拝に取って代わられていった(カルヴァン主義では)。


↑ブルシットジョブにも似た話があったAmazon.co.jp: ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論 (Audible Audio Edition): デヴィッド・グレーバー, 酒井 隆史, 芳賀 達彦, 森田 和樹, 菅沢 公平, Audible Studios: Audibleブック・オリジナル


一種の経済的論理が宗教的論理と一体になっていった。プロテスタント精神が資本主義をつくった。


カトリックも対抗し、布教のために渡航した。


モンゴル帝国崩壊後のアジアとヨーロッパの境界あたりの構図(オスマン・トルコ、オーストリア帝国プロイセン王国)はWWⅠまで続く。


帝国は出自に関わらず官僚に登用するが、国民国家は差別的なため支配地に悲惨をもたらした


ウェストファリア条約-近代国民国家 三十年戦争の帰結 これらの国家は例外的と考える方がすっきりする。


ヨーロッパ人のアジアへの対抗意識からのユーラシア。アジアへの優位性を持たないといけないという考えはギリシャトゥキディデスの時代に生まれた。


屈辱の歴史 7世紀のサラセン帝国の侵入。その後、カール・マルテルレコンキスタ(再び獲得)。800年かけたイスラム追い出しがコロンブスを生み出す力となった。


十字軍後のルネサンスは西欧が内的に成熟する過程ではなく、中東に行った十字軍が文献や技術を輸入し、学者を連れ去って起こった。


神学中心だったヨーロッパの学問はプラトンアリストテレスなどは研究されていなかったが、中東では研究されていた。トマス・アクィナスもこのころ。


ギリシャはヨーロッパか?


西欧は国家が貿易を推し進めたが、アジアはそうではなかった。


15~16世紀に西欧がインド洋を支配したというのは嘘。支配したのは海岸沿いの都市だけ。


自由貿易を推奨したアダムスミスはアジア的な思想といえる。北京のアダム・スミス――21世紀の諸系譜 | ジョヴァンニ・アリギ, 中山 智香子, 山下 範久 |本 | 通販 | Amazon


アジアの貿易規模からいえば、インド洋の西欧の介入割合は小さく「世界システム論」の世界の支配者としてアジアを搾取していたというのは成り立たない。アジアの分け前を得ていただけ。アンドレ・フランクの「従属論」はこの点が異なる。


資本主義は二つある。賎民資本主義と本来の資本主義。前者はもうけたらもうけた分だけ豊かな暮らしをする資本主義(ユダヤ商人的資本主義が典型例)。後者はウェーバーが言う、もうけた分はさらに投資する禁欲的資本主義。


アジアは本来の資本主義ではなかったため、産業革命が起こらなかった。


初期マルクスと晩年マルクスの矛盾を解決を図るのが本書。


 

3章 ヨーロッパの真実

19世紀、日本は進んでいない国として友人であった「オランダ」を軽視し、イギリス、フランス、ドイツの歴史を重視する。


十字軍をイスラムから見る


何故カトリックは16世紀、巨大なゴシック建築を行わなければならなかったか?


植民地化は西欧からすれば、文明化であり、侵略ではない。


アベロエス、マイモニデス→古代ギリシャを研究


ゴシック建築は権力の誇示と資本蓄積の証。十字軍の遠征後のイスラム教の文化圏の影響。ゴシック建築(高く、高く)からフランボワイアン様式(微細な装飾にこだわる様式~マニエリスム~)へ。


帝国は小さい民族の仲たがいに寛容。近代国民国家は同じ民族、同じ言語、同じ宗教という枠組みがあり、それが異質性を拒む。


イギリスやアメリカの教科書でプロテスタントへの弾圧が強調されるのは、その教科書がつくられた19世紀において、国家の意志統一図るのに格好のテーマだったから。


近代国家のによる植民地化の帝国主義と、16世紀以前の帝国は異なるモノ。


国民国家と異端審問 イギリス、フランス、スペインからユダヤ人が追い出されるようになり、主にイスラム圏に逃げた。イタリアのヴェニス、ベルギーのアントワープ、オランダのアムステルダムなどもユダヤ人を受け入れ豊かになっていった。それを見てユダヤ人を排除した国もやがてユダヤ人を受け入れるように。


ジェズイット(イエスズ会) 押しつけの代名詞に


アジアの海洋都市は自治都市だったが、大航海時代の西欧の侵略にあった。


民族と言う概念は、18世紀、ヘルダーあたりから出てきた。近代民族国家からでしか民族主義という概念は生まれ得ない。


民族主義が機能するには、中産階級を維持することが必須。経済成長し続け豊かな人々(政治に参加できる人々)が存在し続けなければならない。カネの切れ目が縁の切れ目。民主社会は専制へ容易に変化する。


 

4章 近代という視点ー三十年戦争国民国家

西欧の文化的ソフトは永遠か?西洋的資本主義、人権、ヒューマニズム


15世紀までは帝国しかなかった。


国民国家が一般化するのは、帝国を解体する民族独立運動によってであり、それは19世紀になると当たり前になる。


ビザンツを捨てたロシア。ピョートル大帝(1672~1725)はカトリック的ヨーロッパ文化に転換させた。西欧にとっても英雄。貴族はフランスで暮らす大領主であった。


ポーランド 18世紀ポーランド王国が消え周りの帝国(ロシア、オーストリアプロイセン)に吸収された。これはヨーロッパにとって近代国民国家喪失の象徴となった。


地政学 


近代国民国家の特徴の一つは、海に面した地域にうまれたこと。帝国は主に陸。


ハートランド理論中央アジア・ロシア ロシアが初めから憎まれ役の乱暴な議論。


イギリスやフランス、そして日本は海を用いて覇権を握ろうとした。


今、中国とロシアによってふたたびハートランドが舞い戻ってきた。東欧が物流において重要に。


海を通じた貿易はスペインもオランダも行ったが、イギリスは資本を蓄積し産業を起こした。


国土が広く農業が盛んなフランスは自然主義(重農主義)だった。


国家指導の重商主義が資本を蓄積させる。やがて国家の役割を小さくし、効率のいい自由貿易にさせる。


近代の合理主義は、真理は一つしかないという神話の上に成立している。真理が一つであるには神は一つでなくてはならない。


9世紀くらいからのイスラム思想の黄金期。神の存在、唯一性、世界の唯一性、世界の始まりに関する議論はイスラム教の中では終わっていた。西欧はこうした議論も収奪した。


トマスアクィナスやオッカムも考えていたが、決定的になったのはイスラムの影響。


 

5章 絶対王政啓蒙主義ーアジアの閉塞とヨーロッパの世界進出

国民国家が現れるまで、他宗教や他民族に対する弾圧はあまりなかった。しかし、スペインのトマス・トルケマダ(1420~1498)が大審問(異端審問)を行うことによってユダヤ教徒キリスト教徒に改宗させた。スペインは単一宗教の国家として出現したのだ。


マルセス・モース(1872~1950)の「国民論」によると国民国家と言う概念は非常に取り扱いにくく不愉快。


民族学者も民族に偏見を持つことから逃れられなかった。文明化ミッションの一環として優劣をつけることに。そして、この偏見は「国民」であるがゆえ生まれたという。


国王が主権者なら、国家の決定は国民ではない。その場合は存在するのは臣民(subject)。


17世紀のジョンロックから、国民が国家の成員として議論にあがる。


民衆こそが国家を体現するという理論(歴史的説明ではない)、もとい神話。この神話のよりどころとしてのアテネ


マキアヴェリの「君主論」は近代国家成立の理論的説明であり、今も読まれる。


国家である国土は偶然あるものではなく、君主たるものの強い指導力、つまり意志によって決まる。君主は公のために動くものだ。


盗賊(豪族)と貴族ー国王候補ーの違いとは?のちの君主に従うかどうかで決まる。


王権神授説と「リヴァイアサン」 


自分を守る権利(コナトゥス Conatusu)を行使する過程の、無秩序な戦争を防ぐ必要がある。これを押さえつける強い第三者として、神に王権を授かった王が出てくる。(ホッブズ)


これに異論を唱えたのがスピノザ(1632~1677)。コナトゥスの論理を逆さに考え、相手を尊重するがゆえに、原始状態を非戦争状態と考えた。輪番制による貴族性に賛成していた(当時のオランダ。加えて商人も強かったので国王を不必要だと考えていた)。


フランス革命絶対王政から国民国家への変化の唯一の手段であった。イギリスの名誉革命も緩やかだが同質の出来事。しかし、理想論であり、英仏以外に当てはめるのは簡単ではない。


民主制の形骸化した君主制がうまれる危険も。


強力な君主が国家の基盤を形成していない土地で、人民だけで国家をつくろうとしても成立しない。ルーマニアユーゴスラヴィアなどの東欧が例。


戦争自体が国民国家を創出するものであったと言える。


国民国家愛国心、領土欲、国家の膨張を生み、帝国主義をつくりだした。この「帝国」主義とは15世紀以前の帝国とは異なる。


しかし、過去の帝国の膨張と違い、国民国家帝国主義は植民地からの収奪により、労働者階級にも恩恵があった。


アジア蔑視の出現 オスマン・トルコが19世紀に失った領土を求め、ロシア、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリスが侵入し、クリミア戦争から始まる戦争が起こる(最大のものがWWⅠ)。EUはこの地を「後背地」にしたが、いまだに不安定。


主権を国民に移すというのは、英仏の理想論でしかない。傀儡政権、共産主義政権、民主主義政権いずれにせよ。


ルソーやロックが編み出した理論のにわか勉強だけでなく、西欧的な市民社会も必要な要素。


 

6章 17世紀から18世紀に至る民主革命

18世紀、コーヒーカフェが啓蒙思想を生み出す。オスマントルコからの文化。


コーヒーを飲みながらの談義は、イスラム教のスーフィズム(神秘主義思想)から生まれた。


19世紀はビストロといった飲食店が議論場の一つに。


ソシアビリテ


フランスはオスマントルコを呼び寄せ、神聖ローマ帝国の中心地ウィーンを崩壊させようと画策した(1529年、1683年)。


13世紀のモンゴルの侵入もブルボン朝が手助け。


18世紀、イギリスとフランスが七年戦争(1756~1763)とフレンチ・インディアン戦争(1754~1763)で争い、イギリスが辛勝。その後ボストン茶会事件を経て、アメリカ本土民は植民地でないという自覚を誇示。


オーストラリア、ニュージーランド、カナダはイギリス国王を戴くが、イギリス国民国家に属していないという不思議。


アメリカは国民国家となった。


アメリカ独立戦争(1775~1783年)


フランスはアメリカ独立支援の煽りをうけ、フランス革命が起こる。国民主権の思想が逆流。すぐに君主制打倒とはならなかったが、国民国家の代表である議会が成立。


啓蒙君主の登場 フリードリヒ二世(1712~1786、在位1740~1786)、ヴォルテールを呼び寄せ、新しい君主像を模索。1740年にマキアヴェリを批判する書物を出す。


外壁のない、貴族の反乱の心配のない絶対王政となっていた。非情な手段をとらなくていい。君主は知的な紳士でなくてはならない時代が来た。


私有財産の保護こそが、資本主義と国民主権が相携えて進む道を切り開くもの。所有を最も問題にするのが、フランス革命の「人権宣言」。


私的所有とは、「排除する」という発想から。囲って他人を排する。


モンテスキュー 貴族政も民主政に考えないと、フランス革命名誉革命の意味がなくなる。


代議制、実質的な貴族政が今の主流に。貴族に政治を任せればいい。


プロレタリアをブルジョワ(商業者、工業者)に置き換えれば、シエイエスマルクスはよく似た書き方をしている。


シエイエスは国家の中の国家(貴族、僧侶)を批判した。国家とは、一般の民衆(ブルジョワ)を代表するものだという主張が出てくる。


マルクスはさらにプロレタリアート(労働者階級)の主権も主張したということ。


フランス革命の次の段階としてロシア革命がある、とすると資本主義の恩恵を受けているブルジョアとしては不都合。フランス革命ロシア革命を切断する必要が出てくる。フランス革命に歴史を二つの時期に分け、後者を無視する「フランス革命修正主義」。サルコジ大統領が体現し、実現しようとした。


前半はバスティーユ監獄事件の襲撃から92年の国民公会出現以前、後半とはロベスピエール(1758~1794)以降の歴史。シエイエスの認識に留めようという意図。


 

7章 絶対王政の崩壊と国民国家の勝利

産業の世界史化


産業革命の条件とは16世紀から始まる本源的蓄積


人民が漠然と生きるのではなく国のために働く意識も必要。この意識は宗教と国家とが結びついたから生まれた。


本源的蓄積した銀をインド(綿織物)や中国(茶葉)に流出させないための、重商主義産業革命を生んだ要因の一つ。


オランダは中継貿易で儲ける。アジアの品を多く扱った。ブドウが育たないのにブランデーがある(フランス・ワインの中継地だったから)。


商業貿易から加工貿易への転換はアダム・スミスから。東インド会社、西インド会社も商業取引だけだったが、イギリスはそこから抜け出す。


中継貿易は戦争や船の事故などで物の動きが止まると、中断される問題があった。


国王の富ではなく国民一般の富の発展をどうさせればいいかという議論が、イギリスで最初に始まった。ウィリアム・ペティ(1623~1687)「政治算術」


価値を生み出す源泉として、オランダはただの売り買い、フランスは肥沃な土地を用いた農業、そしてイギリスは加工業、工業を見出した


自動機械こそ原動力。また、自動制御装置の「制御」こそが産業革命だという人も。蒸気などのエネルギーをどう制御するか。


ナポレオンは自由・平等・友愛と同時にそれぞれの地域に帝国に支配されるのではなく、主権国家として独立すべきであるという潮流をもたらした


1848年革命に対する二つの考え方。


ブルジョワ革命 市民革命は資本主義化であり、西欧の資本主義化革命が進んでいったというもの。


②民族独立運動 典型はオーストリア=ハンガリー帝国の東欧。


18世紀から白人中心主義が出てきたという。


英仏の資本主義的市民革命の後、ブルジョワとプロレタリアの対立という新たな問題。「階級闘争」。19世紀を貫く新たな矛盾。


 

8章 国民国家による歴史の読み替え

フランスの歴史解釈を見ていく


国旗と国歌 フランス国歌は革命の過激な歌 日本やオランダは王家をたたえる


まなざし 多木浩二


1840年から、過去の顕彰が始まる。国民国家運動が始まった時。


1860年~1870年代にのみ、少女が「聖母マリアを見た」という伝承がみられる。1830年からの無宗教運動へのカウンター。


著者の意図をそのまま再編するのではなく、解釈することが学者の責務。


バスティーユ監獄を1789年襲った日、フランスの7月14日は革命記念日は権力に抵抗する日なのに、国威発揚の日に成り下がっている。


1792年夏から、革命は過激に。国民公会で最も力を持っていたロベスピエール。彼が権力を握った要因は「国家危機宣言」。強権的な規制。


19世紀~21世紀のフランス史を規定するのは共和主義の流れで、今も共和主義者はフランスの中核。


日本の教科書も共和主義の影響が強く、ロベスピエールの時代のうち独裁と処刑だけ取り上げられる。


しかし実際問題としては、フランス革命は1792年からが本格的な革命開始という面がある。


主眼が、国王権力の規制から人民主権に移りはじめる。キリスト教歴から共和暦になりクリスマスもなくなる。教会や王朝からすれば悪夢。


ロベスピエールを認めると、急進的な社会主義者や共産主義者の考え方を認めることになる。


遅塚 忠躬などはロベスピエールを擁護している。「ロベスピエールとドリヴィエ フランス革命の世界史的位置」


ロべスピエールは穀物の価格上限を設定し、買い占めしていたブルジョワの怒りを買った。ブルジョワ反革命的な動きも。


どんな憲法にも穴があり、緊急時には独裁的な執政官がうまれる。それがナポレオン。


ナポレオン失脚後は王政復古し、革命が否定される(解釈しなおされる)。


1830年まではナポレオンは独裁者として否定される。しかしそれ以降は自由をヨーロッパに流布したとして評価され。


フランスの政治的伝統である「ボナパルティズム」。シャルル・ド・ゴール(1890~1970)にみられる父性的大統領を望む動きは共和主義者の伝統の中にある。


労働者階級を中心とした革命をいっそう求める急進的な人々と、フランス革命を穏健なものと理解し、現存の資本主義を擁護するブルジョワ市民階級とで分断し、現在もフランスの左右を決定づける動きとして残っている。


 

第二部 19世紀 9章 労働運動の増大と社会主義共産主義

1815年にウィーン条約が結ばれる。19世紀の外交はウィーン条約の延長線上にあると言われた。プルードン


ナポレオンは帝国の民族ごとの分裂状態の隙を突き、ヨーロッパを席巻した。


これがドイツなどでナショナリズムをおこした。


王政復古からの帝国が実際に崩壊するのはWWⅠ後のヴェルサイユ条約


ナショナリズムの中から社会主義と労働運動がうまれる。


ナショナリズム社会主義は異なる運動だが、英仏より遅れた地域で始まった産業革命は、これらが相携えて展開される。


マルクスの青年時代の闘争相手はプロイセンという国家権力とキリスト教権力だった。これをヘーゲル哲学を介して行うのがマルクスが属していたヘーゲル左派のグループの考え方。


国家とは、国土や民族ではなく、その目的やあり方を決める憲法にかかっている。


憲法とはしばること


1830年の7月革命を受けてドイツ民族祭典が催されたりしたり、出版の自由を求める声が出たが、やがて政府は反動的になっていき、青年たちは絶望する。


WWⅡ後の経済発展には温暖な気候も関係する。


19世紀前半(マルクス出生は1818年)は比較的寒かった。


産業革命には、天候不順による飢饉を利用し、食えなくなった人を都市に集め、低賃金で雇用することで興隆したという面がある。


若いほど賃金が低いので、男性→女性や子供→さらに小さい子供と働き手が映っていった。


マルクスは労働者が形成されていく過程を「二つの自由」と述べた。土地からの自由と封建制からの自由。


産業革命は機械の発展だけでなく、農民の追い出し(借金を負わせるなど)も必要。


産業革命のための労働者を雇うには、資本の蓄積が必要。また、消費システムも必要。


フランス革命の人権宣言は「自由・平等・友愛」が有名だが、「所有」と「安全」という言葉が裏に隠されている。


貧困の存在という不平等。貧困は移民を生んだ。


19世紀前半、機械打ちこわし運動の次に労働者を保護する動き(チャーチスト運動)が出てくる。


労働価値説。労働以外に価値を付与するものはない。リカードが提唱し、マルクスもこの立場。


1850年代は、少しすつイギリスやフランスの労働者の生活水準が改善されていった時代。大英博覧会やデパート。


これが帝国主義の幕開けともいわれる。


マルクスのライバルであるプルードンは、資本主義の貧困よりも、それが作り出す中央集権と国家権力を問題とし、労働者参加型による権力からの解放を目指していく。


「未来のプルードン亜紀書房 


1800年ごろのイギリスの貧困とは、マルサスの言うような人口と食糧の単純な増加比によるものではなく、分配の不平等が原因と思われる。


 

10章 アメリカへの移民

イギリスの1850年以降の"労働者の貴族化"。植民地搾取で本国が労働者階級も潤う。


19世紀、工業先進国は周辺国を原料供出国とする体制。英仏米などは日本や中国をこの周辺国に位置付けたので開国をせまった。


農業が急激に収穫を増やすことはないが、工業は倍々にポテンシャルがある。インダストリー(勤勉)が生産力に結び付くのは工業だけ。


イギリス内で労働者を生み出した最大のきっけかは第二次囲い込み運動。


ナポレオンは自由だけでなく、フランスに有利な市場を拡大した。


ナポレオン体制でフランス優勢の経済の流れに合ったドイツ以東の東欧は、英仏の争いでイギリスが勝利し、イギリス支配下の南米や中米の安価な農作物が流入することで、農作物が値崩れし、この頃の天候不順が追い打ちとなり、アメリカへの大量移民に繋がった。


パリの政治を語る秘密のクラブで、ドイツ職人が修行しやがて、パリで付き合いのあった人々の思想や書物を故郷に持ち帰る。


ニューヨークのワシントンスクエアやニューヨーク大学がある地域の下町は、1850~ころはジャーマンタウンで、そのごポーランド人タウン、ユダヤ人タウンと変化していった。そして1990年はロシア人が多く、2020年は中国人が多い。


シカゴもジャーマンタウンから黒人街へ。


北部の勝利とは権力が勝ったということではなく、北部の工業生産が南部のプランテーションのような植民地システムを放逐したということ。南北戦争は近代化の一環。


黒人奴隷を開放することは、黒人労働者を生み出すことになった。


 

11章 貴族支配とブルジョワ

貴族支配からブルジョア支配はいつどのように変化したか?


1814年~1830年(ルイ18世シャルル10世在位の時代)は現在の共和制を否定する反動的時代であり、フランスでも研究が避けられがち。


マルクスヴィクトル・ユゴーよりオノレ・ド・バルザックを好んだ。ユゴーは淡白な勧善懲悪を描き庶民には人気だが、事象の原因を一人の権力者に負わせるきらいがある。


バルザックは『農民』で農業は牧歌的な昔の時代に戻ることなどできないことを示した。


貴族が戻ってきても、資本主義的に経営しなければならないという新しい経済体制の問題。


王政復古はロベスピエール以前の革命を認めたが、国民公会をヤクザもの扱いした。


1830年にふたたび革命が起こったが、数年で革命精神は失せていった。フランスは革命によって大きく分裂したのだ。


当時の知識人はサロンで人間関係をつくり、その人脈が言論界でものを言った。学歴ではなくサロンを通じた階級が重要だった。


ブルジョワは金があるのでサロンの中心に近づき力を持ち始めて、貴族の地位にのし上がる。


穀物法 海外の農産物に関税をかけて、貴族が自身の土地の収穫物を楽々高値売って利益を得ていた貴族こそが文化を作るとしてマルサスもこれを支持していた。ブルジョワはこれに反対した。1846年に廃止。


自由貿易によりポーランドから安い小麦入ってきて、労働者の賃金は下がった。労働者を最低限働かせるための最低賃金が、食物の価格によって決定されているだ。???


フランスは少し事情が異なっていた。オートブルジョワジー(金融ブルジョワジー)という階級ができあがっていった。貴族の娘がブルジョワジーと結婚したのだ。名誉と地位(サロン)と金(ブルジョワ)の利害が一致。フランス革命の皮肉な結果。


英では貴族階級(地主層)とブルジョワ階級が区別されていたが、仏では融合してしまった。


よって、フランスでは産業よりも、金融が発達してしまった。


なぜフランスでは民主共和政は短命におわり、ルイ・ナポレオンの帝政に移ったのか。それは融合した貴族層とブルジョワ層が共和国ではなく帝政を望んだから。


イギリスではなぜ過激な革命がなかったのか。それは勃興する資本家階級が次第に権力をとり、市民社会的資本主義をつくりあげたから。


いまでも、フランスには超エリート、超高級官僚が存在する。


フランスを題材にするときは経済学ではなく、政治学を問題にしたほうがいい。革命があっても社会が大きく変化しない国だから。


 

12章 ロシア南下と黄禍論の再燃

東ドイツ民の60%はベルリンの壁崩壊後、独立を望んでいた。その理由を解き明かすことが重要。


WWⅡでドイツは小国にされた。


東西ドイツは体制の異なる地域。官僚的、絶対君主的なプロイセンと、国王を戴かない西のドイツ。ベルリンに引かれた東西の境界線が、アジアとヨーロッパを分けていたといえる。


権威主義的な雰囲気が「アジア」ともいえる。よって東欧もある種アジア的な国も多い。


ロシアはギリシャ正教ビザンツ文明の影響を受けており、西欧からはアジア扱い。


ユーロの先行実験として、ドイツ・マルクの統一がなされた。西ドイツの紙幣が、東ドイツにとって好条件で流れて来た。


通貨発行権が国家の独立には重要。


西独マルクの流入東ドイツは経済が行き詰まった。また、ユーロ圏に入ると(経済小国は)通貨価値が上がり、物価が上昇し、輸出商品を失う。


ロシアはステンカ・ラージン(1630~1671)の反乱に負け、軍隊の近代化を図る。その結果強国ポーランドを分割するまでに至る。


アジアとは単に地理的なものではなく、一種のイデオロギーも含む。


モンゴルのイメージとロシアが重なっている。


ロシアの文化運動は上からの改革だった。明治維新と似ている。


デカブリストの乱は下からの改革を行うとしたものだったが、すぐ鎮圧された。


ロシアは資本主義化として農奴制を廃止しようとした(19世紀中ごろ)。しかし、ミールと言う共同体も壊れることになる。ロシア的なものは全て駄目なのか?という議論が起こった。


ロシア疎外としてのポーランド独立運動が西欧で起こる。ロシア知識人はこれを応援していたが、ロシアをのけ者にする思惑を感じ、反動としてロシア回帰が起こり、ロシア的な新しい思想が「ロシア的社会主義」として出現する。「ナロードニキ」運動。


19世紀後半のドイツは英仏と違い、ロシアとの友好関係のために黄禍論を利用していた。


 

13章 世界市場の分割帝国主義の時代

クリスマスも東欧の正教会では一月七日あたり。ヨーロッパすら西欧化しているということではない。日本は節操なく西欧を取り入れ、アジアでもヨーロッパでもないと言える。


”世界”芸術、文学などは全て西欧のものが基本のものにされた。


国内の工業製品を安価に生産するには、原材料供出国の労賃を下げる必要がある。賃金格差は必然だった。


ホブソン(1858~1940)は19世紀の資本主義を「自由主義的資本主義」という概念に当てはまらず、帝国主義に移ったのではないかと指摘した。


寡占化、独占化と国と企業の癒着、帝国主義的時代が来たのではないか?


中華思想が19世紀の中国(清)が西欧化を受け入れなかった理由の一つ。


レーニン帝国主義を厳しく批判した。


帝国主義の定義。独占が高度化していること。これにより市場がコントロールされ恐慌が起こりにくくなる。


中国の強さは民衆にあるにもかかわらず、上からの改革を推し進めた。


対して日本は中国的なものを捨てて、アジアで孤立の道を進んだ。


インドは近代的土地所有や私的所有と言う概念を持たないことによって、発展しなかったとされた。私的所有と利己心が勤勉と忍耐と向上心を生み出す。


 

14章 産業資本主義から金融資本主義への移行

WWⅠ後ウィルソンの民族自決権により東欧を始め国民国家が形成されていったが、どれも強引なものだった。


ユーゴスラヴィアなど国民国家の形成が、民族浄化という紛争を呼んだことも。


プロテスタンティズムは地域がそれぞれの地元に本店を置く国民国家型システムを志向するものだった。帝国型はローマ法王が本店で地域は支店。


イギリス(ヘンリー8世)は神聖ローマ帝国の枠組みから外れた。


海外植民地搾取による本国の労働者階級の生活の向上が、自国への礼賛と差別を生む。アイルランド人への差別は国民国家形成の時期に生まれた。


ナポレオン戦争終結から資本主義が一般化していくころ(1817~1867)ほぼ10年に一回恐慌が起こっていた。その原因は、基本的に商品の売れ残り。過剰生産が信用失墜をまねいた。


19世紀半ばころの新聞は党派的なものが多く、新聞を読む意味はニュースを得ること以上に、自分の思想を確認することであった。しかし、印刷技術の発展で次第に大衆化していった。


株式が譲渡可能になれば株式制度の発展がはじまる。将来性の信頼から、自己資本の何杯もの架空の資本が舞い込んでくる。巨大化した企業は、国内だけでは過剰生産に陥るので海外進出を狙い、帝国主義と結びつく。


ローザ・ルクセンブルク(1871~1919)は資本主義は国境のない世界市場を相手するので、それに対抗する社会主義も世界的でないといけないと主張した。マルクスの一国社会主義の論敵。また、トロッキー共々、ソ連体制から批判された。


植民地(20世紀半ば以降のアジア・アフリカを含む)が発展していき、本国が停滞し行き詰っていけば、消費するだけの製品である軍事製品に目が向けられる。今のアメリカの軍産複合体がそうだし、ローザ・ルクセンブルクも予想していた。


 

終章 第一次世界大戦と19世紀の終焉

歴史の方法、メソドロジー。解釈が大事。


20世紀初期に歴史学の方法が変わる。「心性史」の出現。事件ではなく、当時の人々を公式文献以外の記録(日記、伝承、遺物など)で調べる。


ブルジョワ階級の時代は、WWⅠ後の貴族の没落で遂に完成する。マニアの収集物が世に解き放たれる描写。


マニア、メチエは数量的に測れない。


4世紀の聖人アウグスティヌスは、歴史を見る上で、すべてを決めているのは現在だと述べた。


20世紀から過去の資料を現在の目で観察し解釈するという意味を考え始めた。価値観の変化は過去観をも変化する。これを受け入れ戦い続ける。


客観性という絶対的真実に固執すると、信仰の問題が外せない。神と言う不動の価値観。


芸術や風俗にも関心を持つ歴史学1920年以降始まる。アナール学派


歴史とは全て世界史ではなくてはならない。


歴史とは資本主義とともに始まった。


 

感想

日数を開けて二度目を読んだが、二度目の方がはるかに内容が頭に入ったし、線を引きたくなるところも多かった。


章をまたいで同じ記述が出るが、ある事象を起こす原因とその事象の結果が、どちらも一つとは限らないという歴史の非直線性を示しているのかなと納得できた。


筆者はマルクス研究者と言うことを示しているので、バイアスや立場を足掛かりにこの本を解釈しやすかった。


 

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