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【書評】訂正可能性の哲学 (ゲンロン叢書) 東浩紀

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内容

ビッグデータを用いた人工知能民主主義を、訂正ができないとして否定する。



加算、(子供の)ゲーム、会話と、種々のルールが絶えず変化していく共同的な営みが挙げられる。


また開放性・リベラルと閉鎖性・保守の対立や関係は単純なものではない。プラトンからアーレントから現代に至るまで、私的な利害と社会の利害や、家族と公共のへ帰属の二律背反などと議論されてきたが、結局「わたしたち」の範囲を伸縮させているだけであるとも言う。


以上のようなことから著者は政治(特に民主主義という観念)とは「訂正」され続けるような仕組みであらねばならないと主張する。


その上で、特殊意志(個人の利害)、全体意思(特殊意志の集合)、一般意思(社会全体が向いている方向)といったルソーの提示した概念と、そこから連なる現代人の民主主義の理想を結び付ける。

その最たるものが人工知能民主主義で、ビッグデータを用いて個人個人を分析したり、人々に多数の属性を着せて統計的な傾向を見れば、人々の総意を抽出でき、今後それが政治的な決定になるというものである。

著者はこれを素朴すぎであり、内部から訂正できない(例外扱いされるだけ)と否定する。


そのあとは、ルソー解釈を中心に議論を展開して、訂正とはどう行われるべきか、訂正がいかに重要かを説いている。


感想

中盤はルソーを解釈する形で、著者の見解や意見を表明だったが、ルソーの自然状態は平和だったという考えは完全に間違った認識であるため、読む価値あるのかこの本?と思い続けながら読んでいったが、一部欠落している議論はあるものの、概ね意義のある読書だったように思う。


最後の方に原初社会の安全神話にルソー自身が疑問を呈していたとあったし、随所に「ねじれ」についての指摘がったので、著者も一応はルソー信者でもないことは分かった。


また、訂正可能性の重要性は理解できたし、科学への過信の禁物も同意できた。


しかし、程度と時間スケールの視点の欠落を感じた。

ビッグデータの活用度合いも、統計処理によって個人を判断する度合いも、監視社会や危険人物判定がされるといった、極端な例を挙げて否定している。

しかし、ネット広告ですら既にレコメンドを不気味がられない程度に抑えているわけで、政治的な領域ではもっと控えめに使用されるように思う。時間スケールの視点が抜けているせいで、漸進的な組み込まれを想定できていないようにも思う。


あとがきのp345に「なにとなにを委ねるのか、どのようにして決めるのだろう」とあるが、まさにこれについての議論こそが、社会と科学技術の融合ではないのかと思ってしまい、単に監視カメラと統計処理全般を嫌っているだけにも見えた。


また観光客の哲学でもそうだったのだが、著者にとって不快な他人のふるまいを、人間の動物化と呼ぶ姿勢には、全く共感できない。

わたしは人間のことを、人間の理想の生物の要素を一番多くもつ動物としか思っておらず、著者のように人間と動物の間に断絶を感じていない。

人工知能民主主義を否定する理由として、訂正不可能なことだけでなく、外部の一様な意思決定は家畜みたいなものだの、政治は主体がいなければならないなどという言い方が出てくるのだが、人間の非動物性を何故そこまで信仰できるのか理解できなかった。

また、ドフトエフスキーの「地下室の手記」などを例に、おそらくルソー自身も含めているのだろうが、全体幸福を否定する個人が出てくるとか、統計分析では個人の個人性を掬いとれないとか、人間の一部がもつ特殊性を強調するが、著者が自身のことを特殊な人間と言っているような印象を受けた。

また、ポピュリズムと言う言葉も使っていた。知識人と呼ばれる人は、同じような人間

としか会わない云々と書いていた割に、著者も同じ穴のむじなと言うか、自分と大衆を分けて考えたがっているだけにも見えた。


落合陽一や成田悠輔を人類の科学を素朴に信じすぎだと、否定的に語っていたが、著者もまた、人類の非動物性と特殊性と例外性を素朴に信じすぎている。


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