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人生設計なんぼのもんじゃい人生舐めてた32歳独身女の末路①

私は人生を舐めていた

結論から言って、私は今32歳。独身。居酒屋で食器を洗ってる。
日給にすると5千円程度。
週に2・3日しか入れないバイトで家賃だけどうにか稼いでる状態。
家ではお米に塩ふってたべて、賄いをいただいて食いつないでる

いま、わたしに、何が起こってるんだろう。

中学生の時に同級生が突然亡くなって
人は突然いなくなるものだと考えさせられた。
とにかく今を。
夢?わかんない。
将来?来るのかな。
そんな感じで生きてきた。

自分が自分と向き合うために、私の短い人生を振り返ってみる

小学生の将来の夢には"芸能人"と書いていた。
高校生になって"芸能人"は"お笑い芸人"に変わった。
当時流行っていてハマっていたからだった。
好きだったから。テレビの中に入りたいと思っていた。
『大学生やってみたかったよね』
『キャンパスライフって憧れるわぁ』
と言ってる芸人さん達がかっこよく見えて高校卒業後は迷わず上京。
バイトで生活していた時、渋谷駅でスカウトを受けて芸能事務所に所属した
なんでもいいからテレビに入りたかったから、とにかく何でもオーディションを受けてCMに出たり憧れのバラエティ番組に出たりできた

それでも本職と言えるほどは稼げなくて毎月安定した収入もない。
22歳になっても変わらずバイトしながら”芸能人”を目指した。
"新人"では無くなってくると特技とかスキルを求められるようになって仕事が減ってきていた

そんな時
母親からの電話で叔父が亡くなったと連絡があった。

うちは私が小学校に上がる頃から母子家庭で母親方の祖父母、母の弟である2人の叔父たちにはよく面倒を見てもらっていた。
連絡のあった叔父は私が中学生の頃から鬱病を患っていて仕事も辞めていたこともあり特に私や弟の習い事の送り迎えとかよくやってくれてる叔父だった


私はこの叔父が嫌いだった。

家族であり、お世話になっている人に対してそんな風に思うのは良くないこと。と思っていたから誰にもそんなことは言わなかったし
そんな風に思ってしまう私はなんて良くない人間なんだと苦しかった。
でも今思えば、言葉にするのは苦しいながら、家族のみんなから嫌われていたと思う

当時の田舎の小学生である私には鬱?心の病気?そんなのは全く分からなくて理解しようとも受け入れようとも出来なくて
母から心の病気なの。と聞かされても「何も知らない。何も聞いてない」そう落とし込んで叔父と関わっていた
その頃の私は学校で無視される順番が回ってきていて
家では母親の彼氏が出入りする様になっていて
居場所を感じにくくなっていた
『居なくなってみたい』
と自分の死に方を始めて考えたのは小学校6年生の時だった
結局そう出来なかった私は弱虫だ

母親は夜勤の仕事もする看護師だったこともあって
まだ当時学生は持っていなかった携帯を持たせてもらっていて
叔父とも送り迎えの連絡など取っていた
その携帯に叔父から『〇〇ちゃんの事が好きだよ 付き合いたいと思ってる』とメールがきた
吐き気がした
怖かった

正直恥ずかしいくらいおませさんだったし男女の交際にも興味津々だったけど苦手と思ってた大人の男性に、身内の人にそんな事言われて
苦しくて仕方なかった
私はすぐ母親にチクッて
それ以来、私と叔父があからさまで無い形で、でもしっかりと距離を置く様に家族みんながそうしてくれた
私自身も何もなかったかの様に誰も知らないかのようにやり過ごした。

その叔父が亡くなったと連絡が来た時、死因を電話では教えてくれなかった。その事で
電話を切ったときほんの一瞬『誰かが殺した?』とよぎった自分が今でも怖い

葬儀のために実家に帰って死因を聞かされた。
叔父は近くの山で自ら首を吊ったそうだった。

怒り
はじめに聞かされた時の印象はそれだった。
嫌な思いもしたけど送り迎えやらなんやらお世話にはなった人だ。
亡くなった人にそんな感情を抱くのはおかしい。と言い聞かせたけど

中学で毎朝一緒に通学してた友達が亡くなった時も平日の日中に動けた叔父が葬儀に送り迎えしてくれていた
昨日まで元気でも、生きる明日があったはずでも、
突然に消えてしまう命があるという事を知ってるはずだった
私の苦しみも近くで見ていたはずだった
何かを感じられたはずだったのに 
それなのにどうして自らの命を絶てるんだろうと悔しかった

喪主の挨拶は祖父が務めた。
喪主挨拶の時に祖父は
叔父が1年程前から難病指定の病を患い通院していた事、その検査が毎回辛くて痛い検査だったこと、そして長年うつ病を患っていた事を話した。
祖母は叔父のうつ病を隠したかったみたいで挨拶の後祖父を怒っていたけど
私はかっこいい挨拶だったと思った。
隠す事、恥ずべき事ではないし、ここに集まった叔父の死を悲しむさほど多くないこの人たちはきっと知っていた。

そのことをそっと祖父に話した時、祖父が警察から聞いたという叔父の最後を教えてくれた
「捜索願を出して数日後、捜索チームが山の中の駐車場で車を見つけた時、車は駐車場の白線にしっかり停められていて
これは生きてるかもしれないと思ったらしい。
うつ病患者で自殺の線もあった捜査ではあったが希望の光が見えたんだと。
自殺なら気が動転したり焦りが現れて簡単な駐車ですら出来ない状態にある事が多いかららしい。
あの人は、覚悟を持って、意思を持って、山に入ったんだよ」

あの人の事を想えば
自らをコントロールできない病に苦しみ、さらに痛みを伴う病を発症し
周りには理解してもらえない。理解できないこともわかる。
仕事もろくに続かず家族にも疎まれる。
そんな苦しい日々が何年続いていただろう。
自分が楽になるために、そして家族を楽にしてやりたい。
そんな覚悟が見えた

その数年後、祖父が大病の末他界した。
叔父の死後、祖父や母の怪我が続いていて、叔父をおさめるために祖父は逝ったのだとどこかで感じている
大好きな大好きな祖父はその後何年か私の中では生き続けていた

24歳までにレギュラーのお仕事が持てなければやめる。と覚悟していた芸能のお仕事は見事に単発の仕事だけでそんなお話もなく
モチベーションを拗らせていた私はあっさり諦める事にした。
今思えばやっぱり「何が何でも。という覚悟」が足りなかったんだと思う。
今思えば諦めた。というよりも”逃げた”感覚に似ている

25歳の時また訃報が入った。
中学の同級生だった。脳の病気で急死。
当時よく遊んでいたあの子も最近は会っていなくて知らなかった近況を聞いた。葬儀は同窓会のようだった
そしてまた訃報を受けた。
中学時代、部活でお世話になった一個上の先輩が亡くなった
知らなかったけど数年前からガンを患っていたという。
とても悲しかったし
残念だと思った
どうして私じゃ無いんだろうと思った
少しだけ、羨ましかった

そんな25歳の年に海外に行くことを思いつき
母親に借金してバリ島のホテル研修に参加することにした。
ここで私は、母親の激細りした脛をまさに髄までしゃぶりつくした。




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