『美術の物語』7.東方を見てみると(イスラム、中国 2-13世紀) まとめ

数世紀にわたる混乱期に東方の世界で起こったことを、少しは見ておかなければならない。

キリスト教以外の2大宗教、イスラム教と仏教は図像にどう対応したのだろうか。これは実に興味をそそる問題だ。

イスラム教は、図像についてキリスト教よりはるかに厳格だった。そもそも図像の制作が禁じられていたのだ。しかし、美術というものはそう簡単に抑えられるものではない。事実、人物像を作ることが許されなかった当方の職人たちは、模様や図形に想像力の捌け口を見出した。

そもそもの由来を尋ねてゆくと、最終的には預言者ムハンマドに行き着く。

しかし、のちにあらわれたイスラム教の諸宗派は、図像禁止令をそれほど厳格には解釈しなかった。宗教と結びつかない限り、人物像や物語の挿話も許された。

この絵には現実の世界を感じさせるものはほとんどなく、まるでビザンティン美術のようだ。いやもっと現実離れしているかもしれない。短縮法は使われていないし、光と影は描かれず、人体の構造を描くつもりもまったく感じられない。
※ペルシャ物語写本の挿絵『中国の公女に会うペルシャの貴公子』の例示

だからこそ、現実の場面をそのまま再現しようとした絵よりも、ずっと恋物語にふさわしいものになっている。

宗教が美術に与えた衝撃は、中国ではさらに強かった。中国美術の始まりについては不明な点が多い。

古代の祭祀に用いられた青銅器のなかには、紀元前1000年にさかのぼるーもっと古いともいわれるーものもあるということぐらいしかわかっていない。

紀元前後の数世紀中国の埋葬の習慣はエジプトとよく似たものだった。

すでにその頃には、中国美術の典型と言われるものがかなり出来上がっていた。中国の画家は、エジプト人ほど厳格な角ばった形を好まず、大きく弧を描く曲線を好んだ。

中国の思想家の中には、美術の価値について教皇グレゴリオス1世と同じように考える人もいたらしい。美術の役目は、過去の黄金時代に打ち立てられた道徳の範囲を思い起こさせることだと彼らは考えた。

しかし、中国美術に対する最も大きな衝撃は、儒教とは別の宗教ー仏教ーによるものだったと言えるだろう。仏教の僧侶や修行者は、しばしば驚くほど迫真的な彫像として表現された。
※『羅漢像』1000年頃の例示

造作のひとつひとつが所を得て、全体として効果を上げるように作られていることが分かる。

中国美術に対する仏教の影響は、作り手たちに新しい課題を提供したというにとどまらない。仏教は、絵というものに対するまったく新しい態度をー絵を描くことに対する深い尊敬の念をー生み出した。

「絵を作るのは卑しい仕事ではない、画家は霊感を受けて創作する詩人と対等なのだ」という考えは最初に中国にあらわれた。

中国の宗教美術は、仏陀や中国の始祖たちの伝説を伝えたり、特定の協議を教え込んだりするためというより、瞑想の手段として利用されるようになった。この点が中世のキリスト教美術の果たした役割とは違う。

中国の画家たちは、野外に出てモティーフ(題材)の前に腰を下ろし、それを写生するようなことはしなかった。

彼らは、技を十分に習得してから旅に出かけ、風景の気分をつかむために自然の美とじっくり向き合った。旅から帰ると、その風景の気分を再現するように、松や岩や雲のイメージを組み合わせるのだ。

心に浮かぶ光景を、霊感が消えないうちに素早く書き留める

彼らが得に求めるのは、本物らしさではなく、筆の跡にみて取れる画家の精神の高揚である。

中国美術にみられるこの自制心ー自然から数少ない単純なモティーフを取ってきて、それだけを描くという態度ーには、なにかしら人の心を打つものがある。しかし、そのような態度に危険が伴うのはいうまでもない。

時の経過とともに、一本の竹やごつごつした岩石を描くにもあらゆる型の筆使いが試され、その方が伝統によって分類・整理されていく。

過去の作品ばかりが賞賛されるようになり、ますます画家たちは自分の心に湧き上がるものを頼りにしなくなってしまった。

そして18世紀に西洋の美術作品と接するようになって、ようやく日本の画家たちが、東洋の手法を新しい主題に適用する方向へと踏み出したのだった。後に見るように、日本人によるこの実験は西洋人の知るところとなり、それが西洋にも大きな成果をもたらすことになる。




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