『美術の物語』3.大いなる目覚め(ギリシャ 前7世紀-前5世紀) まとめ

・紀元前1000年頃には、ヨーロッパからやってきた戦闘的な部族が、岩だらけのギリシャ半島や小アジアの海岸に次々と押しよせ、先住民と戦ってこれを打ち負かした。

・この新来の部族のなかに、ギリシャ民族として歴史に名を留めることになる部族がいたのだった。

・彼らがギリシャを支配するようになってからの数百年間は、まだその美術は粗野で未熟なものだった。彼らの作るものは、クレタ様式の軽やかな動きが見られず、むしろ、エジプト美術以上に固いものだった。

・単純明快な構成が、このころギリシャ人が使い始めた建築様式にも用いられたようだ。
※ド―リス式のギリシャ神殿の例示

・ド―リス式建築には不必要なものがなにもない。少なくとも構造上の目的のはっきりしないもの、はっきりしないように思えるものは何もない。

・ギリシャの都市国家のなかで美術史上とびぬけて有名かつ重要なのがアッティカ地方のアテネである。なんといっても、美術の歴史全体を通じて最大の、もっとも驚くべき革命が、ここアテネで実を結んだのだ。

・この革命がいつどこで始まったかはよくわかっていない。それはたぶん、ギリシャで最初の石造の神殿が建てられたのとほぼ同じころ、紀元前6世紀のことだっただろう。

・ギリシャの芸術家たちも、石の彫像を作り始めたときは。エジプトやアッシリアの芸術家たちの遺産から発進した。

・しかしそれだけではない。この彫像を作った芸術家はどんなにすぐれた
定式でもただ定式に従うだけでは満足できず、自ら実験に乗り出そうとしている。

・大切なのは、作者が古い定式に服従するのではなく、自分の目で見ようと決意したことだ。

・個々の人間の体を「自分なりに」どう表現したらいいのか、ギリシャの彫刻家たちはそれを知りたいとおもった。

・ギリシャ人は自分の目を使い始めたのだ。いったんこの革命が起こったとなると、もうとどめようがなかった。

・画家たちが後に続いた。具体的な絵画作品は残っていないので、当時の文献しか資料がないけれど、古代ギリシャでは彫刻家より画家の方がずっと名が売れていたことを忘れてはならない。

・古い規則が破られたとき、いいかえれば、芸術家が目に見えるものを基本にしはじめたとき、まさに地滑り的な変化が始まった。ギリシャの画家たちの画期的な大発見、それが短縮法の発見である。美術史上に途方もない出来事が起こった瞬間だ。

・紀元前500年の少し前、画家たちは歴史上初めて、正面からみた人間の足を描こうとしたのだ。
※紀元前510-500年頃の「赤絵」式の壺 『戦士の出発』の例示

・古来の定式ー何世紀もかかってできた人体表現の定式ーが依然として彼らの出発点だった。ただその定式を神聖不可侵のものと考えなくなったのだ。

・それはまさに、ギリシャの都市に住む人々が神々についての古来の言い伝えに疑問を抱き、先入観を排除し、物事の本質を探究し始めた時代だった。

・ギリシャの美術の歴史が頂点を極めたのは、アテネの民主制が最高レベルに達したときだった。アテネがペルシャの侵略軍を打ち破った後、ギリシャ人たちは、ぺリクレスの指導のもと、ペルシャ人の破壊した建造物の再建にとりかかる。

・ペリクレスに神殿の設計を依頼されたのが建築家イクティヌスであり、彫刻家として神々の像を作り、神殿の装飾を監督することとなったのが、フェイディアスだった。

・フェイディアスの名声はゆるぎないが、名声を博した作品自体はもう存在しない。しかしフェイディアスの彫刻がどうゆうものだったかを考えてみるのは大切なことだ。

・キリスト今日が勝利したのち、異教徒の偶像を破壊することはキリスト教徒の敬虔な義務とされた。古代世界の名高い彫像がほとんど消滅したのは、そのためなのだ。

・ギリシャ美術は生気がなく、冷たく、無味乾燥だとか、ギリシャ彫刻は石膏みたいで表情が虚ろだとか、時代遅れのデッサン教室を思いおこさせるとかーそんな見方が広がっているのは主としてローマ時代のコピーのせいなのだ。

・となると、私たちは古代の文献を参考にして、もとの像がどんなものだったかを想像してみなければならない。

・どの文献に照らしても、彼の作った彫像は、それまでに考えられていた神々の性格や意味を、一変させるだけの威厳をそなえていた。ひとりの偉大な人間の姿をしていたのだ。
※失われたオリジナルのフェイディアス作アテナ・パルテノスの偶像についての記述

・女神の力は、魔力にあるのではなく、その美しさにあった。そのとき人々は、フェイディアスの美術作品が神についての新しい概念をギリシャ世界にもたらしたことを、感じ取っていたのである。

・エジプト美術を支配していた規則がここにも影響力を及ぼしているのが見て取れる。しかし、ギリシャ彫刻に特有の偉大さ、壮麗な静けさと力強さもまた、その古い規則に従うところから生まれていることがわかる。
※レリーフ『天空を支えるヘラクレス』の例示

・古い規則が芸術家の自由をしばる障害物でなくなっているのだ。人体の構造を示すことが大切だ、という古くからの考えが、今は芸術家たちを前へとかりたてる力になっている。

・規則に忠実であることと規則のなかで自由を見出すことーこの両者の絶妙なバランスこそ、後世、ギリシャ美術がこんなにまで賞賛されてきた理由だった。

・ギリシャの芸術家たちが、運動する人体について十分な知識を持つようになったのは、彼らに求められていた特殊な仕事のせいなのかもしれない。オリンピュア神殿のまわりには、運動競技の勝利の像が置かれていた。ギリシャの彫刻家は、神にささげるそうした像の制作をよく依頼されたのだ。

・オリンピック大会をはじめとする大運動競技会は、ギリシャ人にとって、現代の競技会とはまったく意味のことなるものだった。それは民族の宗教的な信仰や祭祀と密接に結びついていた。

・こういう大会を始めたのは、神の祝福を受けた人間を見つけ出すためだった。そして、勝利者が当代のもっとも有名な芸術家に注文して自分の像を作らせたのも、神の恩寵が自分に下ったことを記念し、後世に長く伝えるためだった。

・ミュロンは実際に円盤投げの姿勢をモデルにとってもらい、それを調整していって運動する人体を説得力のある表現に仕上げていった。
※ミュロン作『ディスコロポス(円盤をなげるひと)』のローマ時代の大理石製コピーの例示

・この像が円盤を投げるのにもっとも適した動きを示しているかどうか、それは大した問題ではない。当時の画家が空間を征服したとすれば、ミュロンは運動を征服したのだということ、そこが重要なのだ。

・ギリシャ美術はエジプト人から配置の知恵とでもいえるものを学び取ってきた。「大いなる目ざめ」に先立つ時期に幾何学パターンの訓練を通じて配置の知恵を磨いてきた。ここにもその知恵がいかされている。こういう腕の確かさがあったからこそ、パルテノン神殿のフリーズ彫刻は、細部に至るまで明快な、「これで決まり」と言えるものになったのだ。

・彫刻制作の訓練を受けたことのある大哲学者ソクラテスは、弟子のひとりの言によれば芸術家たちに内面を表現するように奨めていたという。

・表現すべきは「魂の働き」であり、それには「感情が体の動きに及ぼす影響」を正確に観察しなければならない。それがソクラテスの考えだった。

・ギリシャの芸術家たちは、人と人とのあいだに行き交う、言葉にならない感情や気分を伝えるすべを十分に心得ていたのだった。
・そういう技術があれば、身のこなしのなかに「魂の働き」を表現することができる。
※『昔の乳母に正体を知られるオデュッセウス』 赤絵の壺
 『ヘソゲの墓碑』の例示 ともに人々の心の交流をモチーフとしたもの

・すべてがひとつに結びついて、単純な調和が生まれている。この調和を初めてこの世にもたらしたのが、紀元前5世紀のギリシャ美術だった。
   

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