『美術の物語』2.永遠を求めて(エジプト、メソポタミア、クレタ) まとめ

・人類の連続する営みとして美術を語るには、南フランスの洞窟や北アメリカのインディアンの美術を出発点とするわけにはいかない。前章で見た不思議な始まりと現代を直接つなぐ伝統がないのだ。

・しかし、約5000年前のナイル川流域の美術は、現代の美術までつながっている。

・ギリシャの名匠たちは、いわばエジプト美術の学校へ通った。そしてわたしたちはみんな、そのギリシャ人の生徒だといってもいい。だからエジプト美術は私たちにとって特別に重要な存在である。

・エジプト人は、霊魂があの世でも生き続けるためには、肉体が保存されなければならないと信じていた。

・ピラミッドを築いたのは王のミイラのためであり、王の遺体は石棺に納められ、巨大な石の山の真ん中に安置された。あの世へ旅する王を助けるために、石棺を置く玄室の壁全体に、まじないや呪文が書かれた。

・太古の信仰が美術の物語なかでどんな役を演じたのか、それを語ってくれるのはピラミッドだけではない。

・王の肖像も一緒に残せば、さらに確実に王は生き続けることができると考えられた。

・彫刻家は「いかしつづける者」と呼ばれた。

・初期の彫像のなかには、エジプト美術の最も美しい作品がいくつか含まれる。
※ギザの墳墓から出土した肖像彫刻の例示

・肝心なところだけにこだわり、あまり重要でない細部は省いている。こういう彫像がいまだに人の心を打つのは、たぶん、人間の頭部の基本的な形が厳しいまでの集中力で追及されているからだ。

・自然観察と、秩序感覚、この二つのバランスが見事なのだ。

・幾何学的な調和と鋭い自然観察の目、この二つを兼ね備えているのがエジプト美術の特徴である。

・エジプトの墓で見つかった像(イメージ)は、あの世でも死んだ霊魂の世話をする仲間が必要だ、という考えと結びついている。

・なにより大切なのは、きれいさではなく完全さだった。あらゆるものをできるだけ明確に、不変の形で残すのが、画家の仕事だったのだ。

・エジプト人のやり方は、子どもよりずっと徹底していた。どんなものでも、その特徴がもっともよくわかるような角度から描いたのだ。

・頭部は横向きがいちばんわかりやすい。だから横から描かれている。しかし人間の目といわれて私たちが思いうかべるのは、正面からみた形ではないだろうか。だから横向きの顔のなかに、正面を向いた目が描きこまれたのだ。
※ヘジラ墳墓の木製扉に描かれた肖像の例示

・エジプト美術の基本は、ある瞬間にどう見えたかでなく、ある人物や場面についての知識だ。

・たとえば、私たちも偉い人のことを「大物」と言ったりすることがあるのだが、エジプト人は、その大物を召使や妻より大きく描いたのだ。

・こうしてエジプト美術の規則や慣習が分かってしまえば、エジプト人の生活を語り伝える絵という言語も、読み解くことができる。

・ある民族のつくりだすものが、すべてひとつの法則に従っているように見えるとき、そのような法則を私たちは「様式」とよぶ。ある様式の本質が何なのかを言葉で説明するのは難しい。しかし様式を見て取るのはずっと簡単だ。エジプト美術は、そのすべてを支配する法則のおかげで、ひとつひとつの作品に安定感と厳しい超和が備わっている。
※エジプトの神々の外見の規定についての例示

・しかし、こうした規則を全て習得してしまえば、徒弟修業はそれで終わりだった。これ以上の目新しいものは誰からも求められなかったし、「独創的」なものなどまったく要求されることがなかった。

・たった一人、このエジプト様式の鉄の障壁を打ち破った男がいた。第18王朝の王、アメンヘテプ4世だ。

・この王は異端の王だった。

・アメンヘテプはみずからを(太陽神アテンになぞらえ)アクエンアテンと呼んだ。

・アクエンアテンが作らせた絵や像を見て、当時のエジプト人たちは、そのあまりの斬新さにさぞ驚いたことだろう。この王の肖像には、それまでのファラオ像に見られた荘厳さと端正な威厳が全くなかった。

・たぶん彼は、人間としての弱点も含めて自分をあらわしてもらいたかったのだろう。

・アクエンアテンの後継者がツタンカーメンだ。1922年に彼の墓が宝物とともに発掘されたが、その中にはアテン信仰の新様式で作られたものも含まれていた。

・しかし、このエジプト美術の開放は長続きしなかった。ツタンカーメンの治世には、すでに古い信仰が復活していたのだ。

・このツタンカーメン以降の1000年間、エジプト美術に得たらしい主題が持ち込まれたり、新たな課題が果たされたりしたこともあったけれど、本質的な意味で新しいことが達成されたことはなかった。

・聖書でおなじみだが、ナイル川流域のエジプト王国と、ティグリス・ユーフラテス川流域のバビロニア帝国やアッシリア帝国の間に小さなパレスチナがあった。が、そこで栄えたメソポタミア美術(メソポタミアとはギリシャ語で二つの川に挟まれた地を意味する)については、エジプト美術程わかっていない。

・彼らも、エジプト的なやり方とは違うけれども、像(イメージ)によって
権力者たちを死後も生かし続ける役割を負わされてはいた。

・メソポタミアでは初期のころから、戦勝記念碑を作らせるのが王たちの習わしだった。王たちはいろんな部族を打ち破った話や、戦利品を奪い取ってきた話を描かせたのだ。

・少なくとも初期の段階では、レリーフを作らせた人びとのこころには、まだ像(イメージ)の魔力に対する古い信仰が生きていたのではないだろうか。王が屈服した敵の首根っこを踏みつけて、そこにたっているかぎり、敗れた部族は二度と立ち向かってくることはない、と信じられていたのではないだろうか。




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