江戸自慢三十六興_1864_edit

YOU 海苔巻いちゃいなよ

海苔をうまく焼くのは意外と難しい。

朝食に乾海苔をあぶって焼き海苔にして食べている。焼くことで海苔の細胞膜が壊れ、うまみ成分と香りがぐんと出てくるらしい。

紫がかった表面が緑色に変わるのを眺めるのが楽しいが、調子に乗ってあぶり過ぎるとすぐに縮れたり、ときには燃えたりして量が減ってしまう。思うに我々関西人は味付け海苔文化の中で育ってきたので、そもそも年齢のわりに海苔を焼く経験値が足りないのではないか。

ていうかもう今のご時世は皆さん焼き海苔のパックを買っていますよね。我が家も本来はそうでした。たまたま仕事の関係で乾海苔をもらったのです。で、毎朝あぶっているという事情。

海苔はいつ頃から、そしてなぜ現在のような薄い紙状に加工して食べられるようになったのか。

考えてみれば変な話である。世の中になかなかあんな食べ物ありませんぜ。薄い紙状(シート状)で他の食べ物を巻くだなんて、発想からして奇怪。

理由は「お寿司屋さんが奇をてらったら、バズったから」である。

海苔の養殖が盛んになったのは寛永年間(1624〜1645頃)、江戸は浅草〜大森あたりの浜でのこと。それまでは天然のものを採集するしかなく、朝廷に貢ぐような高級食品だった。養殖といっても現在のように海苔がどうすれば生えるかをわかっていたわけではなく、たまたま江戸幕府に献上する魚を生かしておくための生け簀の柵に海苔が生えたことから、じゃあこういう粗朶をじゃんじゃん植えればいいじゃんってなって、闇雲に海中に木の枝を刺した、という原始的なもの。天候等の条件が悪いと採れないことも多く「博打草」などと呼ばれた。

享保年間(1716〜36頃)になると、江戸は武士約50万、町人約50万という当時世界最大の巨大都市に成長。海苔も供給が追いつかないほどの人気食材になってくる。

そこで、浅草で当時盛んだった紙漉きの技術を転用して現在のように海苔を梳くことを何某かが思いつく。それまでは生えたままのカタチで干して包んで運んでいたので、こぼれまくってもったいなかったのだ。当時栽培されていたのは現在流通しているスサビノリよりも繊細な(現在希少な)アサクサノリという品種で、乾燥後は非常に脆かった。紙状にすることでキレイにまとまり、重ねて一度にたくさんの量を運べるようになる。世紀の大発明であった。

しかし、シート状に加工したのはあくまで流通・保管のためであって、当初はやっぱりもう一度ほぐして食べていた。現在も残る花巻そばのような要領である。

じゃあなんでYOUこのまま食べちゃいなよ、ってなったのかというと、それには寿司が大きく関わってくる。

当時、寿司といっても皆さんおなじみの握り寿司はまだ登場しておらず、笹巻き寿司と呼ばれる、笹の葉で巻いた押し寿司が主流であった(東京・千代田区神田にあり、1702年創業の「けぬきすし」が有名)。

巨大都市江戸では外食文化が発達し、寿司屋もしのぎを削るようになってくると、めいめい工夫を凝らしたメニューで客を呼ぶように。笹巻き寿司の笹の代わりに薄焼き玉子や湯葉で巻く、という変わり種寿司を看板に掲げる店が出始めた。

天明7(1787)年「七十五日」という江戸のグルメ雑誌が発刊され、寿司店は23件載っているが、そのうち「志き嶋屋勝三郎」なるお店では笹巻き寿司の他に玉子巻き、海苔巻き、湯葉巻きもあるよ! と書かれている。

もうおわかりですね。

そう、そのような変わりダネの巻き寿司のひとつとして「海苔巻き寿司」が生まれたのである。これがバズった。「何これおいしい」ってなって、寿司の一大カテゴリー「海苔巻き」が誕生する。あくまでアレンジメニューだったつもりのものが、本家を凌駕するメインに昇格したわけだ。

こうして日本では、海苔はシート状のまま流通・保管して、食べるときもそのままシート状、という珍しい形態の食品として定着するに至った。

ノリ弁、好き。お弁当屋さんの白身フライ乗ってるやつじゃなくて、ノリと醤油をごはんに乗っけただけのやつ。ミルフィーユ状にごはん、ノリ、ごはん、ノリってしたりするなあ。




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