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こねくり回した思考の果て

私という”わたし”の厄介な思考をミキサーでごちゃごちゃにした成れの果てをシェアしようと思う。
今回は「自我」について。


自我とは

自我には様々な考え方がある。
私の唱える自我とは精神分析を提唱したフロイトの定義(いわゆるエゴ)ではなく、どちらかと言えば発達心理学での概念である「わたし自身」を指す。
さてこの「自我:わたし自身」という概念だがこれに明確な根拠はない。自分自身の「記憶」と他者からの「承認」で成り立つ不確かな存在で、しかしそれこそが人間の核である。自我があるからこそ私たちには好きなものや苦手なものが存在し、感情を持ち、自我に基づいた選択を自身が生きていくために繰り返しているのだ。この選択は自分のためでありそこに他者は存在しない。これは己の素直な感情に従い他人任せにせず、自身の意志で行うことを意味するものであり、決して自己中心的に生きるという意味ではない。ありのままの自分を受け入れ、生きる意味や目的を見つけ主体的に生きることこそ自我そのものであると私は解釈している。



無償の愛は自我そのもの

無償の愛という言葉がある。これは神が人間を愛することで何らかの利益を得ることはないため「無償」が前置詞として用いられている、らしい。
ただ、神ならまだしも人間である以上行動には必ず目的(=見返り:相手を思う感情もこれに該当する)が存在する。夢も希望もエモも無いようなことを言い出してしまうが、厳密に言えば人間界に無償の愛なんてものは存在し得ないのだ。もちろん無償の愛なんて存在しない!だからみんな隣人を愛さなくていい!愛なんていらない!なんて暴論を振りかざすつもりは毛頭ない。相手を思い行動することへ喜びを見出すことを無償と捉えることができるかもしれないが、前述の通り「相手が幸せでいてほしい」「相手の苦しみが取り除かれてほしい」といった感情すら目的に含まれるのだ。どこかの鬼狩りも「人のためにすることは自分のためにもなっている」と言っていた。
つまり無償の愛とは冒頭で述べた「自我」そのものなのだ。見返りを求めてしまう人間の性質をありのまま受け入れて、相手を思った行動に喜びを見出すことこそ真の愛なのだ、きっと。


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