見出し画像

『夏目漱石時間旅行②』

第二噺 未来での出逢い

チチチチチ。
「はー。M大生が寝てるよ。ほら、君たち起きなさい。病院の外来が始まるんだから。こんなところで寝てられたら迷惑だ」 
警察の制服のような衣装を身にまとった初老の男性に、肩をしたたか叩かれた。気がつくと私は、巨大な建造物の前にある木立に囲われた、冷たい大理石の上に寝そべっていた。

「ここは、どこだね」
「まだ寝ぼけてるのか。ここは『K堂病院』の前だよ。飲みすぎなんだよ飲み始めたばかりの学生のくせに。誰のおかげで勉強させてもらってると思ってるんだまったく。偉そうに。親の脛かじってる分際で」
ふと近代的な建物の玄関付近を見ると、確かに薬や病の文字が書いてあった。男の言うことに間違いはないらしい。
「病院の前……。ということは、また私は入院するということなのか。あ、あいたたた頭が痛む」
緊張の糸がほぐれたとたんに耳に飛び込んできた異常なまでの騒音で、鼓膜が破れそうだ。やかましい。近くに工場でもあるのか。ここは一体どこだ。周りを見回すと、背の高い無機質な建物ばかりで、人情味が感じられない。それに、この制服の男はどうしてこんなに私を怒っているのだ。 
「私は病人だろう。もっと労わったらどうだ!あ、あいたたた」
「馬鹿かお前は。こんな所で眠っている酒臭い病人がいるか!何ひとりで怒ってるんだよ。どうせ居酒屋『ぴら坐』か何かで飲みすぎてここで意識飛ばして寝てたんだろうよ。寝ぼけるのもいい加減にして、こいつ連れて早く学校に行け!」
居酒屋?ぴら坐?何語だ?睨み付ける男を横目に頭髪を触ってみる。おかしい。多い。毛量が多い!その上いつものウェーヴィーな私の髪の毛ではない。頬を触ってみる。なんだかつるんとしていて若返ったような触り心地だ。
口元に手をやる。髭がない。ない!トレードマークの髭がない!

「ない!」
「びっくりした。なんだ突然大きな声を出しやがって。いいから早くこいつを起こせ!」
動転した状態で、男の指差した方向を振り向いてみると、幼い顔の男の子が仰向けで眠っていた。
「こいつはなかなか起きないなあ。一体どうなってるんだ日本の若者は。おい、起きろ早く!」
男の子は、男がいくらつついても蹴飛ばしても動かない。体は小さめだが、いびきの大きさは天下一品だ。

「うっぷ」
しばらくして思い出したように起き上がったと同時に、男の子は全身の筋肉を総動員して酒臭い液体を大地に吐いた。と、次の瞬間なぜだか私に向き直って、大量の内容物を吐きかけた。
「うげっ」
仰け反る男と、呆然と立ち尽くす私。
「お前ら、そこ掃除な。大量に吐きやがって。こいつ……。こっちまでもらいそうだ」
呆れたように吐き捨てて、男は建物の中に入っていった。
「ごめんよう。秋葉の服汚しちゃったね。弁償しなくちゃ」
男の子は口元を袖で拭き拭き、真っ青な顔で私を見た。その瞳はまだあどけなく、私は服を汚されたことも忘れてその小柄な男の子を哀れんだ。
お金が足りなかったのか、彼は膝小僧の辺りまでしかないズボンを履いている。可哀そうに。
「そんなに酒を飲んでしまったのかい?体に良くないなあ。それに、学生はこんなところで眠っていないで、下宿に帰って勉強しなくちゃな」
男の子は、突然外国語で話されたようなぽかんとした顔で、私を見つめた。
「何言ってんの。秋葉も昨日の合コン一緒にいたでしょ?それで俺がちょっと気に入った女の子に振られたから、その後飲み直したんだよね?そのあとお前が坂道で派手に転んだから心配してさ。終電もなくなっちゃったしタクシー乗るほどの金も無いし。だから、ここで眠ってたんじゃない。それに、下宿って言い方、なんだか古臭い」
男の子は、ちんぷんかんぷんな夢物語を私に聞かせてくれているようだ。「下戸(げこ)」で有名な私が、酒を飲んで酔っておまけに公衆の面前で転ぶわけがない。

「私は飲めないが」
「なーに言っちゃってんの。がはははは。秋葉は酒癖悪いじゃない」
私にはまったくさっぱり理解ができなかったが、男の子が納得して満足そうな様子だったので、否定せずにそのままにしておくことにした。
「ほら、バケツとモップ持ってきたから、これでそこ拭け。
あとお前のT シャツは、こっちの水道で洗えばいい」
制服の男は、手に二本の箒のような物を持って再び私たち二人の元へと戻ってきた。仕方なく私は、男の子と二人で吐瀉物を掃除した。
「これ終わったら、何か食べに行かない?Tシャツのお詫びにおごるよ。なんか、お腹空いちゃった」
男の子の信じられない胃腸の回復力に驚愕しながらも、私は黙々とモップを動かした。こんな屈辱的なことは、生まれて初めてだ。

「そうだ。今日の授業、二限からだったな。やべえ。俺目付けられてっから、『チョイ不良(ワル)伊集院』に当てられるよ。秋葉、予習した?」
「……」
「そっか聞いた俺が馬鹿だった。お前が予習するわけないよな。なんかさ、俺が三四郎って名前だからってさ、『漱石論』で当てるなよーって感じ」
私は男の子の顔をまじまじと見つめた。三四郎……。
思わず彼の着物姿を思い浮かべた。とても似合う。
「うっぷ、伊集院のこと思い出したら気持ち悪くなってきた。うげっ、やばいバケツの中見ちゃった」
三四郎くんは再びもどした。今度は、バケツの中に。
汚物を一通り掃除し終え、制服の男に了解をもらうと、たっぷりと三四郎くんの昨日の置き土産が入ったバケツとモップを返し、私は促されるまま三四郎くんと共に急な坂道を下った。

坂道は、厳しい表情の老若男女が慌しく行き交う。少しでも触れ合えば争いが起こりそうなで、「袖触れ合うも他生の縁」なんて流暢な様子ではなさそうだ。人々の不用意に寄せた眉間の皺が、無駄に幸せを逃がしているように見えてくる。
ようやく私は自分が違う時代、そう、未来にやってきたことを理解した。
歩いているだけで様々な情報が押し寄せるように耳や脳、視覚的にも身体に入り込んでくるようなこの景色。
目には見えないが、なんだか体も心も忙しくなる圧力が飛び交っているような感覚。
騒々しい人波に酔いそうになるのをこらえて、なんとか歩いた。
それにしても未来とは、あまり幸せではないのだろうかと勘ぐった。

「みな、歩くのが早い。そしてみな、胃が痛そうな顔をしている」
「そう?通勤時間はこんなもんだと思うよ。秋葉、なんか様子が変だな。さてはまだ酔ってるな?あとは具合悪い?」
「酔っている……?私が酔っているわけがない。具合はまあ、悪いに決まっている。血反吐を吐いたんだからな。それに、秋葉っていうのは誰のことだか……」
さきほどから連続して耳にする「秋葉」という名前。私は「夏目」だ。一体全体どうしたことなのか。
「あん?大丈夫か、秋葉?」
おもむろに三四郎くんは両手を突き出し、私の頭を激しく揺さぶった。景色が上を下への大騒ぎになる。三半規管が乱される。
「君!止めんか!失礼だろう?初対面の相手に向かって!おい!」
「はあ?大丈夫か?君とか言うの、マジでやばいよ。まだ酔ってるぞ。秋葉、帰ってこーい!」
面白がっている。確実に三四郎くんは面白がっている。腹が立つ!頭に来る!いらいらしてきた!無償に抜きたい!抜きたくて仕方ない!
「こうしてやる!」
私は自分のものではない人差し指と親指を突き出し、これまた覚えの無い触り心地の鼻の穴に突っ込んだ。
毟ってやる、毟ってやる、毟ってやるー!
ごっそりと抜けた私の鼻毛。万国旗のごとく風になびいてひらひらとはためく。
「汚ねー!やめろよ、秋葉―!なんだよその小学生もやらないようないたずらは!鼻毛処理くらいしろよー」
水浸しの服を着た私は、少しフィットし過ぎたズボンに躊躇いながら、逃げ回る三四郎くんを追いかけ、その小さな背中に撫で付けるように鼻毛をたんまりとつけてやった。

「はー疲れた。まあ、座りなよ秋葉」
肩で息をしながら、ちょうど鳥が羽を広げた形に見える建物の前の広場で、我々二人は椅子に腰掛けた。学生風の男女が楽しそうにその建物に入っていく。どうやらここは、学校のようだ。
「みんな楽しそうだなあ。ああー彼女欲しい」
三四郎くんのくだらない愚痴を無視して見上げた空は、真っ青で雲ひとつない。上を見すぎて倒れそうになった拍子に掴もうとふと触ったポケットに、固い名刺のようなものが入っているのを見つけた。
「走ったおかげで、秋葉Tシャツ乾いたじゃん」
そういえば、湿気っぽかった上半身にさわやかな風が吹き抜けた。そのおかげでひとつ小さなクシャミが飛び出した。それと同時に、その四角い固紙が飛び出した。
固紙は、どうやら学生証のようだ。
「M大学文学部三年、秋葉……原太郎」
口髭をしごこうとして、また空振る。何度触っても空振る。
そしてやっぱり髪型が違うことが気になる。
ふと見ると学生証にはなにやら小さな写真もついており、顔を近づけて確認してみることにした。
「なかなか。うむ。いい顔じゃないか。顔が小さいし。ただ少し風来坊風なのが玉にキズだが」
褐色の肌に奥二重の切れ長な目元が、まあ涼しげだ。平凡だが知的に見えないこともない。
笑顔に慣れていないのか、表情が固いがそれはしようがないか。
「自画自賛かよ。よっ、ナルシスト秋葉」
三四郎くんは目やにを拭きながら大きく伸びた。
「私は、『秋葉原太郎』という名前なのか。ほう。しかも一時でも教鞭をとっていたM大学の学生になるとはな。因果なもんだ」
「はいはい。酒で頭おかしくなったのはわかったよ。さ、行こう。喫茶『サボルウ』でモーニングだ」
先ほどから食べることばかり。。。

ついさっき内蔵のすべてを吐いたばかりとは思えないくらい顔色のいい三四郎くんは、小躍りしそうな勢いでさっさと坂を下りていった。
もう片方のポケットには財布のようなものが入っていた。
中には野口英世と書かれたお札が3枚と、やはり四角い固紙。
「運転免許証とな。平成十四年十二月十三日生。住所、東京都新宿区喜久井町……」

「おーい!早く早く!」
ヨレヨレの服を着た人懐っこい小動物のような三四郎くんが、その小さな体に似つかわしくない大きな声で私を呼んだ。

第3話 『夏目漱石時間旅行③』|さくまチープリ (note.com)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?