『夏目漱石時間旅行③』
第三噺 行ったり来たりすれ違い
私たちは、三四郎くんの案内により『サボルウ』という山小屋風の一軒の喫茶店に入った。
店全体が橙色の温かい照明で照らされており、心が落ち着く。思っていたよりも店内は広く、二段構造になっている。
窓際には「フクロウ」の小さな置物があり、ひっそりと歓迎してくれているようだ。また、夜はどうやらお酒を出すようで、入り口を入ってすぐ右側にあるバーカウンターの雰囲気は、朝というよりも深夜を感じる。ここは大通りから少し入っただけの場所なのに、雑踏があまり聞こえてこないから、別世界にやってきたようだった。
「いらっしゃいませ」
穏やかそうで品のあるマスターが、心地よく朝日が当たる窓際の席へと案内してくれた。
「何に致しましょう」
にこやかで人当たりの良さそうな中にも、少し緊張感を持たせるような気品が感じられた。
「さあ、食べよう食べよう」
三四郎くんは、私にはお構いなしの様子で早速マスターに注文したモーニングを前に、目を輝かせていた。
案外と混んでいる。彼から目を離して周りを見てみると、仕事に行く前の人々が、ひと時の安らぎを感じながら珈琲を楽しんでいた。
「しかし、昨日の女の子たちは可愛かった。けど、お高かったな。俺らのことなんか鼻にも引っ掛けないって感じで。女子大って、みんなあんな風なのかなあ。なあ?」
私はそんなことよりも、この目で直接自分の顔を見たくて仕様が無かった。
「なあ。でも、あの京子とかいう子、美人だけど気が強かったー。しゃべりかけても『は?』を連発だもんなあ」
そのころ、修善寺では。
「はっくしょん、はっくしょん」
「奥様、連日の看病疲れで風邪を引かれたのでは。どうぞお休みください」
森成医師は、鏡子に布団に横になるように促した。
「いえ、どうせどなたかが私の悪口でも言ってらっしゃるんでしょ。二回のクシャミは、悪口」
鏡子は、漱石の顔を見た。もしかしたらこの人が言っているのかもしれないと、そんな風に思った。
「それより三四郎くん、鏡を貸してくれないか?どうも頬の辺りが痒くてね」
「あ?虫刺され?」
「とにかく頼む」
「持ってないよ、鏡なんて」
「そうか。じゃあ仕方ない」
「それより、本当、合コンってうまく行かないっていうか」
よほどの女好きらしい。さっきから女の話しかしていない。そして、私の話はすべて流されている。
「三四郎くんはどんな女性が好きなんだ?」
「んー、そうだなあ。贅沢言えば、女優の乃南スズミかな。お前は?」
「特定の名前はないが、色白であごの辺りがふっくらした日本風な女性がいい」
「渋いな。……しかし、さっきからその『三四郎くん』という言い方はひっかかるな。いつものように『今田』って呼べよ。なんか気味悪い」
けげんそうに見つめる彼の目は、周囲を気にしながら団栗を食す「栗鼠」のそれを思い出させる。
「それは悪かった。では今田、ひとつ聞いてもいいかね?」
「うん、何?」
「なんで三四郎っていう名前なのかね?」
「なんでそんなことを今更聞くんだ?」と、大きく目を見開いた顔に書いてある。ような気がした。
しかし関係ない。聞きたくて仕方がないのだから。また、聞くべきであると思った。
「また?飲み会で聞くお約束の質問だぞ。シラフで聞くか?」
「それはすまない。でも是非、冥土の土産にもう一度聞かせて欲しい」
「明治の文豪、夏目漱石。その代表作のひとつ『三四郎』の主人公のように立身出世を目指してほしいと、俺の親父がつけたんだよ。大の漱石フリークだから、うちの親父は」
「ほう。君の父上が。そりゃあいい。まことにいい」
「なんじゃそりゃ。やっぱ秋葉、まだ変」
と、私が三四郎くんの父上に感心していると、ピロピロポロピロピロポロ。なんとも間抜けな音がすぐ近くから聞こえてきた。
「ハキハ(秋葉)、すはほなっはぞ(スマホ鳴ったぞ)」
サンドウィッチを頬張りながら顎でしゃくり、三四郎くんは私の方を見た。
「すはほ?」
「ああ。今の音、秋葉のスマホの音じゃん」
「私が持っているのか?」
「私が持っているのか?じゃないよ。面白いな、お前。どこかのポケットにでも入ってんじゃないの?」
未来の人間というのは、まったくポケットにいろいろな物を入れるのが好きらしい。財布が入っていたのとは反対のポケットから、確かに小型の機械らしきものが出てきた。三四郎くんは秋葉(つまり私のことだが)のことを熟知しているらしい。まるで私の門下生のようだ。
「なんだか光が点滅してる」
「そりゃ光ってるだろう。ラインだろ」
らひん……。
なんだろう、それは。
「はてさて、どうすればいいのだろう」
「よし、貸してみろ。俺が見てやる。誰からだ~?」
私はわけがわからず、その『すはほ』と呼ばれる代物を三四郎くんに手渡した。小さな墓石のように真っ黒な固いものの表面を、彼は指でなにやらたたいて素早く動かしていた。
「あー!なんだよお前!昨日の子からだぞ。しかも京子」
「何、鏡子から?なんとあいつは過去から連絡をしてきたのか。魔術師のような女だな。どれ、私にも見せてくれ」
―昨日は楽しかった。よかったら今度、見たいって話してた映画二人で見に行かない? 京子―
「なんだよなんだよ。秋葉ってば、隅に置けないなあ。しかし気の強い女からっていうのは、ご愁傷様」
電灯とは違う細やかで華やかな光が、小さな手紙のようなものを映し出している。
「これは、恋文か。鏡子……。まったく、自分の名前のくせに字が間違っとる。あとで字の反復練習をさせねば」
「照れてる照れてるー。秋葉照れてるー。まあ、がんばれ」
香ばしい珈琲を喉に流し込み、それからまもなく店の外に出た。薄暗い店内から出て目に飛び込んできた太陽光線に少し面食らったが、しばらくして慣れて来た。
「やべえ、授業始まるよ。秋葉、ダッシュな」
「では、この前の続きから。君たちは夏目漱石の『三四郎』を、きちんと最後まで読んできたか?今日は通告したとおり、感想もしくは君たちがそれぞれ感じたことを聞く。質問でもいいぞ。とりあえず手を挙げてもらおうかな」
斜めにゆったりとしたスロープのきれいな教室。すべての学生が教師の姿を簡単に見ることができるように、適当な角度で階段状になっている。もちろん、教師からもすべての学生の一挙手一投足が手に取るようにわかるのだ。
「これは、授業がしやすくていい。なるほど、未来は勉強に適した環境が整っているわけだ」
私が教壇に立っていたころの面影は微塵もなく、高級で清潔で、そして広々としていて開放感がある。私はしばらく室内を見回した。壁も白くて汚れが少なく、机も上等な板を使っているのが分かる。ここだったら小説の筆もすらすらと進みそうだ。
「手を挙げる人はいないようだから、当てるぞ。じゃあ、今田三四郎さん。『三四郎』だけに、なんでもスラスラと答えられるだろう?」
数人の学生のくすくす笑いが聞こえる。どうやら三四郎くんは、このクラスの中で有名人のようだ。
「えーっと、立身出世をめざすべく上京した田舎の青年の心情変化を描写した作品で……。えーっと、今にも通じるといいますか。その、心安らぐマンネリを表した『故郷』にいる自分と、自己顕示欲を満たすため、自分を出世されるための手段である『学問』をする自分と、華美で誘惑の多い刺激的な非日常の『恋愛』をする自分を夢想する……。えっと、えー、大学生の僕も、ちょうど今そんな感じです」
ドッと笑いが起こった。
「インターネットか何かで調べたか?そんなような内容は、いくらでも書いてある。ちっとも面白くないなあ。それともチャットGPTかな?
独創性が感じられない。来週もう一度聞くから、よく読んでおくように」
真っ赤な顔の三四郎くんは、私の横にうなだれながら腰を下ろした。「チョイ不良(ワル)伊集院」と呼ばれている「赤シャツ」のような教授は、まるで鬼の首を取ったかのような表情で授業を進め始めた。
自分だって分かってないくせに。
私、夏目漱石本人が言うんだから間違いない。私の作品の細かい感想なんて、私にしか分からないに決まっている。まったくナンセンスだ。
「なかなかよかったぞ。大体、あの教授の聞き方がまずいんだ。質問が大まかで、漠然としすぎている。大丈夫だ。自分なりの考えをよく言えていたぞ、三四郎くん、いや、今田。特に最後のユーモアは、スピーチに最も重要な要素だ」
「秋葉~!慰めてくれるか」
その後も判然としない授業が繰り広げられ、私の頭の中は混乱し、そのため癖である鼻毛抜きに拍車がかかり、私の鼻毛はノートに理路整然と並べられた。それでも周りを見渡せば、学生たちはきちんとノートに黒板の内容やら教授の言葉やらを一生懸命に書き写していたのではなく、スマホとやらを黒板に向けてカシャリカシャリと音を立てていた。
仕方なく、私もその納得がいかない「チョイ不良(ワル)」の授業をカシャリカシャリとした。
授業終了のチャイムが鳴ると、私はその「チョイ不良」とやらに一言物申してやろうと、肩をいからせ教壇に近づいた。
「さきほど先生がおっしゃられていた漱石についての見解は、あくまでも想像の域を脱していないと思われますが」
右眉をぎゅっと吊り上げ、伊集院は私をきつく睨んだ。
「ほう。わたしに刃向かうとはいい度胸じゃないか。あいにく所用のため、君の知ったかぶりの意見を聞いている時間が無い。まあ自信があるなら、今度の授業で君の意見をたくさんの聴衆の面前でたっぷりと聞こうじゃないか。秋葉原太郎くん」
そう言うと、彼は不適な笑みを私に投げかけた。
そして一部の女子生徒達の神々しいものを見送るような羨望のまなざしを受けながら、颯爽とドアの向こうに消えた。まったくもって嫌味な奴だ。なんだか本当に『坊ちゃん』の中の「赤シャツ」のようで、心底胸糞悪い心持ちになった。
「ふん。自信過剰の面白くない男だ。漱石本人が違うと言っているんだ。私が一体、何年自分と付き合っていると思っているんだ」
「あ、裕太からライン。今日合コンだってよ。どうする?秋葉」
大衆の面前で受けた屈辱的な過去のことなどすっかり忘れた様子で、三四郎くんは笑顔を見せた。なかなか好青年でよろしい。
「合コン?そうか、男女入り乱れて飲んだり話したりする、いわゆる『非日常的な恋愛の世界』だな。いいだろう、行こうじゃないか」
「馬鹿にしてんな?いいよいいよ。どうせ俺は馬鹿ですから」
「では、私は家に帰って着替えてから出直すことにしよう。喜久井町だから、ひとまず駿河台下から市電に乗って。いや待てよ。お茶の水から錦町線に乗ったほうがいいのか……」
「は?何線って言った?それに市電て何?走ってないよ、そんなの」
「えー!市電を知らんのか?市電が走ってない?本当なのかそれは。そう言われてみれば、今まで町を歩いてきて一度も線路を見ていないが、みなどうやって移動しているんだ」
「へ?秋葉、病院行こうか。真剣にまずいぞ。神保町なら地下鉄が三本も走っているし、お茶の水だってJRが二本、『T医科歯科大』の方に行けば東京メトロが走ってるだろうが。そんなことも分からなくなっているなんて、CTスキャンだな、こりゃ」
私は、三四郎くんと午後六時に大学前で落ち合うことを約束し、教えてもらったメモを片手に、神保町駅に向かった。
大学からの坂道を降りてくると真正面に見える『3省堂』は、しっかりとした建物だ。神保町の臍にでもなっているかのように、そびえ立っている。ふと気になり、信号を渡る。ごちゃごちゃと騒がしい人波に紛れながら、思わず前へと進む。市電こそ無くなってしまったが、古本街があったからこそ発展してきた神保町は、相変わらず好奇心を呼び起こしてくれる古書店が立ち並んでいた。
「夏目漱石全集か……。ちょっと覗いてみよう」
自分の名前が氾濫しているその店に親近感を抱き、入らずに入られなくなった。眼鏡の店主は何も言わない。
大きさでいうと八坪くらいだろうか。他に客はいない。店内では、店主と私の二人きりである。
「コホン」
しーん。
風邪などは引いていないだろう。どうやら私に対して牽制しているつもりらしい。「盗むなよ」とでも言いたいのだろう。失敬な。私はそのような程度の低いことをするような人間ではない。
少し歩くと、かび臭い、古本からする独特の香りがまとわり付くようでいて心地よい。店主の視線を横から受けつつ、それを気に留めない風を装って一冊を手にとってみる。
未来のことを知ってはいけないと思ったが、勝手に手が動く。鼓動が祭囃子のようにドンドコドンドコ体全体を激しく叩く。
見てはいけない。でも、見たい。
見たことのない私の小説の題名。
「『彼岸過迄』……。」
ちらっと店主を除き見る。すると向こうも私に興味があるのか、少しさげた眼鏡の上から三白眼を突き刺すように返してきた。
「読んだことないのかい?」
想像よりも低目のその声にびくっとしたが、覚悟を決め態勢を整えて彼の方へ体を向けた。
「はい(これから執筆するようですが、まだ執筆したこともございません)」
眼鏡を外し、ゆっくりと私の方へ近づいてきた。店主は、思ったよりも背が高く、年齢のわりにはすらりとしている。
何もしていないのに、この緊張感はなんだろう。怒られてしまうのか?それも可笑しいが、人間というのは悪いことをしているわけでもないのに、自分よりも経験値の高そうな相手だと身構えてしまうのだ。
「読んでおいたほうがいいよ。とても有名な小説だし、漱石が死の淵から帰ってきてすぐに執筆した作品だから。大学入試にも出たことだし、大学生なら読んでおきなさい。どれ、まけてやろう」
目尻に深く五本の皺が刻まれていて、微笑むたびに皺が一本に集約される。その表情がなんとも優しそうで、買うつもりなどなかったが(買うと未来がわかってしまって色々まずいことが起こりそうだ)、私は手にしていた本を店主に渡した。
「漱石はいい。かの有名な芥川龍之介も彼の門下に入り、大作家になったんだ。その後も太宰治が出てくる。なくてはならない文学の道筋を作った、明治を代表する作家だ。私は彼が大好きなんだ」
店主は茶色の紙袋に、『彼岸過迄』を丁寧に入れた。
「またおいで」
気が付くと、私は微笑んでいた。
そのころ、修善寺では。
「なんだか、今主人が微笑んだような。とても嬉しそうな顔をして。ビスケットを食べている時の顔に似ていましたの」
鏡子は、睫毛が触れそうなほど顔を寄せ、漱石を見つめていた。
「確かに。わたしの目にもそんな風に見えました」
雪鳥も、鏡子と同じように漱石に顔を寄せた。
「坂元さんまで。それは嘘でしょう。とても苦しいはずですから。ただ、ビスケットの夢でも見ているのであれば別ですが。しかし胃の痛みは尋常ではないはず。きっと目の錯覚でしょう。奥様、疲れてらっしゃる」
森成医師はそう言ったが、漱石は間違いなく笑った。
鏡子はもう一度だけ確認するように、漱石の顔に自分の頬を付けた。
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