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『夏目漱石時間旅行④』

第四噺  甘くて苦い経験

古本屋を出た。そして、なにやら緑色の英字体で書かれた珈琲屋の看板のほうへと道路を横断した。少し歩く。立ち並ぶ店々から漏れる電気の量に驚く。これならば夜でもきっと安心して散歩することができるのだろうと想像した。しかし、どの店で何が売られているのかは、外側から見ただけではさっぱり分からない。歩いても歩いても箱型箱型、箱型。未来の建物はみな同じように見えて、これでは位置をはっきり把握しておかないと、二度と同じ店に辿り着けないような気がした。
「そういえば、熊楠が言ってたなあ。未来には美味しい甘味があるとかないとか」
私は病床でも、ビスケットのことやジャムのことで頭がいっぱいだった。見るものすべてが物珍しくて忘れていたが、どうやら腹の虫が騒がしい。と、ふと右側の角地に、喫茶のような店が見えてきた。

「ここか」
『高級洋菓子 青水堂』と書かれた達筆な看板に引きつけられるように、丁寧に磨かれた大きな窓越しに中を覗き見た。真正面には色とりどりの紙に包まれた何か小さな宝石のようなものが箱に入れられ、首を右に傾げると、その奥にはベージュ色の拳骨大のものがだんまりを決め込んでいた。
「シュークリーム……」
とこしえの初恋相手に再会したかのように、わたしの胸は高鳴った。食べてみたい。未来のシュークリームは、一体どんな味だろう。
考えるよりも先に、体が自然と動く扉を抜けて、シュークリームが陳列されているケースの前へと歩みを進めていた。他にも美味しそうな菓子が並んでいたが、迷うことはなかった。
「いらっしゃいませ」
小鳥のように澄んだ声が耳に飛び込む。いかにも清潔そうな色白の女性が、わたしに嫌味のない愛想をふりまいた。その人自身が真っ白いクリームのようだ。
「何にいたしましょう?」
か、可憐だ。このように可憐な乙女が、普通の日常に存在するとは、未来というところはなんと素晴らしい世界だ。
「この、このプチシュークリームとやらをください」
私は、意を決して視線を合わせるともなく合わせてみた。すると、向こうもこちらに視線を合わせた。軽く頷くと、その「シュークリームの君」は白百合のようなきれいな手でささっと小さな箱に詰めた。無駄な動きがなく、それでいていい加減なわけではない。
「今日は少し暑いですね。お持ち帰り時間はどのくらいですか?保冷剤をお入れしておきますから」
保冷剤とは、物体を低温に保つために用いられる薬剤である(『BIGLOBE百科事典』より)。スマホの使い方にも慣れてきた。辞書をいちいち調べるのは骨が折れるが、これならば、知りたいと思った時に直ちに知ることができる。明治時代にあったなら、肩が凝ることもなかったかもしれない。ということは、私の造った「肩が凝る」という言葉も生まれなかったかもしれない。
「ありがとうございました。またお願いします」
「シュークリームの君」の手からわたしの手に、何かとても尊い宝物が渡されたように、紙袋が渡った。そのときにふと、お互いの指先が軽く触れた。

「私は夏目漱石と申します。あなたはとてもお美しい。差し支えなければ、お名前を教えていただけませんでしょうか?」
「え?あの『坊ちゃん』や『道草』や、『我輩は猫である』で有名な、あの天下の大小説家、夏目漱石さんと同じ名前なんですか?それは素敵!」
「いやあ、それほどでも」
「素敵素敵素敵!これからぜひ一緒にシュークリームを食べませんか!」
「いやあ、光栄だなあ。はっはっは」
「明治時代でもどこでも、ご一緒したいわ!」
「困ったお嬢さんだなあ。はっはっは」

などと、店のドアを開けながらひとりで妄想し店を出た。もしかしたら名残を惜しんでくれているかもしれないと期待を込めて振り向くと、彼女はもう新しい客人の相手をしていた。
未来の女子は、そんなに甘くはなかった。


「シュークリームの君」から受けた小さな衝撃で肩を少し落としながら、排水溝に吸い込まれるように地下鉄とやらの駅に降りていく。グルグルとまあ、目が回りそうに階段がやたらと続いたが、一体どこまで降りるのだろう。
「半蔵門線、と」
三四郎くんに教わった通り、薄紫色の「輪っか」のマークの半蔵門線の表示通りにさらに地下へ進むと、改札が出てきた。
はて、困った。どうやって、電車の乗り口まで行くのだろう。電車の音は確かに聞こえてくるのだが、姿は見えない。電車の到着とともに吹き狂う温風に巻かれながら、仕方が無いので他の乗客を観察することにした。
「都電の乗り場は簡単で良かったのに」
またイライラして鼻の穴に手を突っ込みそうになるのを何とか抑えて、じっくりと観察してみた。三分ほど経っただろうか。どうやら、狭い通路に手を翳すと小さな扉のようなものが開く仕組みになっているらしく、ほとんど下など気にもせず乗客たちは機械的に入場しているようだ。
「よし、手を翳せばいいのか」
みなと同じように一列に並び、颯爽と手を翳してみた。
「ピンポーン」
思い切り股座に小扉が引っかかった。電車に乗るのに、こんな痛い思いをしなければならないなんて。
「うっ」
だめなのか?手の皺を見せる角度が違ったのかもしれないと、再度挑戦してみる。後ろを見ると、私の後に続いていた女学生が「ちっ」と舌打ちした。
「ピンポーン」
また股座に小扉が当たった。痛い。
「どうしてだ。どうしてこの扉は開いてくれない」
「お客さん」
駅員と思われる若い男がけげんな表情で近づいてきた。
「お客さん、パスモはお持ちですか?」
「は?」
「だから、パ・ス・モ」
ずいぶんと顔が小さい駅員だ。体も痩せているが、それにしても顔が小さい。たとえるならばマッチ棒だ。頭の半分は帽子にほとんど隠れてしまって、表情がよく分からないし、近くにいるのに遠くに感じてしまうような男だ。
「パスモというのは、何でしょう?」
駅員は私の質問に絶句したあと、一瞬呼吸をすることを忘れ、そのあと思い出したように息を一気に吸い込み、それから呆れたようにため息をついた。今の時代に何を言っているんだお前は、という顔だ。
「一人遠近法」とでも、名づけて進ぜよう。

「はい、お客さんこちらに」
左腕をつかまれ、私は路線図が掲げられた機械の前に連れてこられた。
「今時スマホに入れてないですか?パスモ無いなら、ここで切符買ってください。はい」
駅員は、右口角だけを上げて薄ら笑い、じっと私を見ている。もしかしたら、「キセル」と思われたのかもしれない。屈辱的だ。しかし、機械の使い方さえ見当もつかないのではしょうがない。ここは知ったかぶりをせずに聞いた方がいいだろう。
「あの、早稲田駅までの切符の買い方を教えてください」
浦島太郎が竜宮城から帰ってきた時というのは、こういう心持だろうか。すべてが分からない。すべての人間が敵に思える。孤独である。
駅員は、その質問以降一言もしゃべらなくなった。それは怒っていてしゃべらないのではなく、笑いを堪えているのが手に取るようにわかる。私は持っていた小銭入れを男に手渡して、下を向いた。腋の下に、信じられないほどの冷や汗をかいている。また喉が渇いて、胃潰瘍を再発しそうなくらい腹がきりきりと痛む。
「半蔵門線で九段下に出て、東西線に乗り換えてくださひぃ。……」
かまわない。きっと、休憩の時にお茶を飲みながら今時風情の格好をしているくせに電車の乗り方がわからないという私のこの失態について、噂話をしながら同僚と大笑いするのだろうが、かまわない。
漱石、頑張る。
その後も、ご丁寧に改札の切符投入口に指をさして、
「こっ、ここれす……」
と、これまた笑いを堪えながら案内してくれた。
顔の小さな駅員くん、君の顔は一生忘れないよ。明治時代まで土産代わりに持って返ってやろう。

気を取り直して急な階段を降りると見えてきた駅のプラットホームには、たくさんの人々が電車を待っていた。降りたら左側に乗ってくださいということだったので、素直にそちら側で待つことにした。到着した銀色の電車に押し込まれるように乗り込み、九段下で心太が押し出されるように下車した。
「靖国神社か」
階段を上り、迷路のような構内を歩き回ること十分。
未来の東京の地下というのは、すべてつながっているのではないかと思うくらいに広々としている。駅でうろうろしているところへ、近寄ってきた掃除の君に教えてもらった「東西線乗り場」に辿り着き、懐かしき『早稲田』までエッチラオッチラやってきた。これまた階段を上る。
どうしてこう、未来の駅は登ったり下ったりさせるのだろう。体力がない者は、電車に乗ることも間々ならないではないか。ちょっとした登山のようだと、久しぶりの運動に息切れした。
早稲田の駅の二番出口を出る。すぐ目に飛び込んできた交差点を酒屋側に右に渡る。『夏目坂』と青い板に白字で書かれた大きな標識を見つけ、すっかり変わってしまった我が生誕地にあっけに取られた。のどかな昔とは打って変って、町全体が騒がしく、空気が汚れていて自動車が縦横無尽に行き交っている。
「この辺だったが」
と、一瞬土地勘を無くして行き過ぎたところに、私の名前の酒処を見つけた。枝豆や麦酒の写真が、道に目立つように飾られている。
「私は酒は飲めんというのに」
やはり違うと思い直し、もと来た坂道を少し戻ると、細長くて黒い石碑があった。なにやら横では、小さな椅子に腰掛けた男たちが、「丼もの」をかっ食らっている様子が硝子戸の外から丸見えになっている。
「牛丼屋になっているのか」
その横の、見落としそうなほどひっそりと建てられている石碑には、私の経歴がざっくりと記されていた。新宿区指定史跡となっている。なんだか仰々しくて、見ていると気恥ずかしくなり思わず周りを見回した。

「文豪夏目漱石(一八六七~一九一六)は……ということは、あと六年しか生きられないということか」
「そういうことだニャー」
「そうか」
「というわけで、牛丼奢っちょくれニャー」
「おおおおおお!猫が喋っているぞ!」
慌てて飛びのくと、私が元いた場所の足元に、中くらいの大きさの黒猫が呑気に座っていた。どことなく顔立ちが濃い。
「おう、夏目っち。按配はどうだニャー?いきちゃったか(元気だったか)ニャー?未来はどうだニャー?」

尻のポケットから出して改めて見直した免許証の住所は、何度見返してみても確かにここだ。まさに私の石碑と牛丼屋に隣接したマンションのようだ。なんという偶然。一見すると白亜の城のような佇まいだが、すこぶる新しい建物ではないらしい。
「ここだよ、ここ。秋葉原太郎という男はなかなかリッチらしいニャー。夏目っちの持ってる、現代的な物入れの中にほら、鍵があるニャー」

猫を小脇に抱えたまま部屋の中に入ってみると、想像よりも片付いていてこげ茶色を基調としたハイカラな造りだった。前と奥に同じくらいの大きさの洋室が二部屋あって、ひとつには近未来的な白い机が設置されている。手前には便所と上等な風呂。奥に進むと清潔そうでこじんまりとした台所があるのだ。
「秋葉原太郎は、案外『ボン』なのか」
「いん(うん)。『ボン』らしいニャー。だから、こげな良いマンションに一人で暮らしくさるニャー。というわけで、牛丼食いたいニャー」
猫という動物は、腹が減った時だけ体を摺り寄せてくる。小憎らしいとわかっていながらも、正直可愛らしいと思ってしまった。
「偉そうに。ところで、お前名前は何と言う?」
想像はついている。想像というよりも確信しているが、一応尋ねてみた。すると少し得意気に顎を上に向けて、姿勢を正しその猫は言った。
「我が輩は猫である。名前は、熊楠」
やっぱりそうか、とうなだれながら、私は「熊楠猫」に促されるように下の牛丼屋へ一皿の牛丼を購入しに行った。狭い牛丼屋に入ると、ごちゃごちゃと肩寄せ合って、血に飢えたような男たちが牛丼を貪り食っていた。誰も余所見をしない。その光景はなんとも滑稽だったが、皆なんとも満足気な表情である。狭い箱の中で、同じ感動を味わっている男たちには、ちょっとした連帯感さえ生まれているように思えた。

「どうして私が買いに行かなくちゃムニャムニャ」
「固いこと言わないニャー。いやあ、やっぱり文豪様の買ってきた牛丼はうまいニャー」
熊楠は一心不乱に、そして慣れたように牛丼を頬張った。そしてにんまりしている、ような気がした。
「おっとあむない(危ない)。玉ねぎは食べちゃだめだニャー。猫は腰が抜けちゃうニャー。こっちによす(除けて)、と」
「そんなにうまいのか、牛丼。私も腹が減っているんだ。じゃあ一口……」
うっかり差し出した私の手を、熊楠はするどい爪でひっかいた。
「だめ!……だ!ニャー」
「……さっきから思っていたんだが、無理して『ニャー』つけなくてもいいんじゃないか」
「いや。基本、猫は『ニャー』だろうニャー」
一通り食べ終わると、熊楠は腹を上に向けて両手両足を広げた。まさに、大の字。
「かーっ、最高だニャー!ごっそさん(ご馳走様)ニャー、文豪様」
大の字に寝ている猫を横目に、私はシュークリームの袋を開けた。すると、それまで袋の中で立ち込めに立ち込めていたシュークリームの甘い香りが解き放たれ、私の鼻先にふんわりと侵入してきた。それはとても小気味のいい侵略だ。
「美味しそうだ。よし」
ゆっくりと一口食べる。なんと美味しいことよ。目が二倍くらい大きくなっているのではないかと思うほど、そのシュークリームを余すことなく見つめた。
「やはり、美味しい。そうか、未来は美味しいなあ」
と、いつもの癖で髭をしごく。
「ははは。髭が無いのにしごいてしまうんだな。参った参った。やはり癖というものは……あれ?」
髭がある。確かにある。そして、そのまま横にずらして頬を触ると、痘痕までもが存在している。
「あ?あれ?あれ?」
「あーあ。さっきのきれいな美少年だったときに写真撮っとくんだったニャー」 
「ええええええええー!」
「言ってなかったけど、甘いもの食べると元の姿に戻るニャー。その方がスリルがあるニャー」
慌てて洗面所の鏡を見た。
「こ、こ、こ」
「そう。戻るニャー。えらいこっちゃニャー。ぬはははははは」
「笑い事じゃないだろう。え?どうしたらいいのか早く教えろ!」
私は、取り乱しに取り乱し、熊楠猫の顔が変形するくらいに揉みしだいた。襟首も捕まえ、伸ばしたり引っ張ったりしてみる。上下左右に振り回された熊楠は、哀れ、口から泡を吹き出し始めた。
「や、やめ、やめちょくれニャー。教えるから、教えちゃるから。そして大好きな煙草もやるから。ニャニャニャニャニャ」
「本当だな?本当に教えるな?」
「熊楠、嘘つかないニャー」
やっと落ち着きを取り戻し、私は肩で息をしながら熊楠をゆっくりと地上に下ろした。なんともばかばかしい。私は猫相手に何をしていたのだろう。
「で?」
「『で?』、の前にもう一度牛丼……」
「くのっ、くのっ」
今度は熊楠のコメカミに、ぐりぐりと両人差し指を押し付けてやった。
「わかった、わかった。嘘嘘。ギブ」
「もういいだろう?いい加減にしてくれ」
「はあ、はあ、はあ。夏目っちも、なかなかエキセントリックだニャー。わかったよ、教えるニャ」
「で?」
「酒を飲むんだ。酒を飲めば、秋葉原太郎の体に戻るニャー」
「私は飲めないよ」
「でも、飲むんだニャー」
「酒なんてない」
「となりの酒屋で買ってくればいいニャー」
「酒ならなんでもいいんだな?」
「そう。酒と、そいでもってついでに牛丼も……」
と、私は無言のままで、熊楠の口に残っている二つのシュークリームを力いっぱい詰め込んだ。

第5話 『夏目漱石時間旅行⑤』|さくまチープリ (note.com)

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