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『夏目漱石時間旅行⑤』

第五噺 合同コンパ

「はー、びっくりした。元に戻ったな。一時はどうなることかと思ったが」
洗面所の鏡に映った姿は、少し頬を赤く染めた正真正銘の秋葉原太郎だった。
「よかったニャー。じゃ、写真でも撮ろうか」
「なんで写真?それに写真を撮影できる機械なんて持ち合わせてないぞ」
「スマホ。スマホに付いてるニャ」
熊楠は、どうしても写真を撮ることが好きらしい。必死に目を吊り上げている。
そうか、先ほど大学でカシャリカシャリしていたのは、スマホで写真を撮っていたということなのか。
「ずいぶんと詳しいな、熊楠」
どうやら熊楠は、未来のことについて情報通らしい。柔らかなさくら色の肉球で、スマホの写真機能ボタンを器用に押した。
「はい、ニャーズ」


そのころ、修善寺では。
「なんだかやっぱり、また主人がにやりとしたような……」
鏡子は漱石の微妙な変化も見逃すまいと、目を皿のようにして見つめていた。
「奥様、にやりとはしませんよ」
森成医師と杉本副院長は、むしろ哀れむような目で鏡子を見た。
「いや、私も先生がにやりとしたような気がしますよ、奥様」
「雪鳥さん。助長するようなことをおっしゃらないで」
「でも……」
漱石の顔色は、相変わらず真っ青で血の気がない。鏡子は再び睫毛が触れ合うほどに顔を近づけた。
「ねえ、もしかしたらあなた、わたしに内緒で楽しい夢でも見ているんじゃないの?いつもわたしには秘密なんですから。そろそろ帰ってらっしゃいな」


スマホの画面には、ひとりの青年と猫が、ぴったりと頬を寄せ合って微笑んでいる奇妙な様子が映し出されていた。
「で、この写真は待ち受けにするニャ。こうして、こうするニャ」
「これをどうする?」
「思い出ニャー。秋葉原太郎、きっとびっくりするニャー」
私はとりあえずおかしな猫を放っておいて、身支度をすることにした。髪型も気に食わないし、三四郎くんの胃液を掛けられたTシャツが臭う。
「とりあえず風呂に入って着替えて、頭をなんとかしよう」
火照った頬を水で洗った。頬に吹き出物の痕も何も無い、弾力のある肌触りのいい皮膚が水を跳ね返した。私の頬もこんな風だったら良かったのに。
「羨ましい」
次に、どうしても納得がいかない『今風の髪型』を櫛でとかして、落ち着いた髪型にしてみた。
「この方が断然いいじゃないか」
すべての準備が整った秋葉原太郎を、上から下まで確かめてみる。真面目そうな大学三年生が出来上がった。
「その合コンとやらが成功するかどうか見届けるから、僕も行くニャ。仕方ないニャ」 
「それは大丈夫。必要ないよ」
「いや、行くニャ。きっと、みんなで美味しいものを食べるニャ。一人だけいい思いはさせないニャ」
「大体、飲食店に猫は入れないだろう」
「このリュックに忍ばせていけばいいニャ」
「駄目!」
「もし置いていくなら、大声で鳴き続けるニャ。近所から苦情が出ればいいニャ。出ればいいニャー。ニャー、ニャー、ニャーニャーニャニャニャー」
「あー!わかったわかった。頼むから静かにして」
「へへ。じゃ、肉食わしてニャ」
「お前、猫の癖に肉、肉って」
完全に根負けした形で、私は諦めて布製の鞄をそっと開け、熊楠猫を入れて出かけることにした。


神保町は、まるで蟻が行進するように人間がぞろぞろと歩き、牛が糞をするようにガソリンの臭いをまき面しながら自動車が走っていた。この町において、人や車の波が途切れることは、天変地異が起こらない限りなさそうだ。
「おい、まだ時間があるニャ。『K華小学校』、今は『お葉の水小学校』っていう名前らしいが、少しの間でも文豪様が通った母校だろ?近いし行ってみるかニャー?」
「たまにはいいこと言うんだな、熊楠くん。じゃあ、道案内をよろしく」
「任せろニャ」
靖国通り沿いの商店街を少し慣れた調子で歩く。熊楠の説明によると、ファーストフードと呼ばれる簡単な洋食を、手ごろな価格で提供するという『マルドナクド』の前の信号を渡った。そのまま左に曲がりまっすぐと進む。
「ここだよ。この角の小学校。ほらニャ?」
「ああ」
夕方六時近くて子供たちの声はもう聞こえなかったが、清々しい木漏れ日を浴びながら見上げた小学校の校門の横には、立派な自然石を使った石碑が鎮座していた。木に隠れているが、十分過ぎるほどの存在感をかもし出している。
「読んでみるニャ。石碑の文字」
すっかり鞄から小さい体を半分出して、大きな目をくるくると動かしながら熊楠猫も石碑を見上げていた。

―我が輩は猫である。名前はまだ無い 夏目漱石―

「子供たちの学び舎に、文豪様の石碑だニャ。愛されてるニャー」
何故だか分からない。でも私の目頭が、だんだんと熱くなってくるのが分かった。人の世は、損得だけの関係でしか繋がりがないのではないかと考えていた私に、百年も経った未来は嬉しい衝撃を与えてくれた。私のことなぞ知らない人たちが、私の小説を語り継いでくれている。
「文豪様。人の世も、なかなかいいもんだニャ。お、泣いてるニャ」
「泣いてない。目に埃が入っただけだ」
早速熊楠は、その石碑を写真に収めるようテキパキと指示し、この時ばかりは私も素直に従うことにした。
「あがも入れてニャ」
大きな石碑と、にこやかな黒い猫。正真正銘の『我が輩は猫である』。
「これでよし。さあ、道なりにある銀河公園を通って、Ⅿ大に行くニャ」
「しかし、君は相当に詳しいんだね」
「まあ、未来は初めてではないのでニャ」
熊楠猫は、得意気に髭をくいっと前右足で撫で付けた。その様子が可笑しくて、私は「初めてではない」という発言に驚くのも忘れて小さなその生き物をリュックにつめた。

「おー!秋葉こっちこっち」
橙色の夕暮れ時、大学前の広場には授業終わりの学生達が、ほっとした表情で立ったまま会話を楽しんでいる。広場の前の通りでは、部活帰りの高校生や大事そうに書類を抱えた背広姿の紳士、親に怒られながら泣き喚く小学生など、様々な人々が行きかっていた。
手を振る三四郎くん以外に二つの新顔が見えたが、向こうはこちらを良く知っているようだ。笑顔に緊張感がない。
「あれあれ?お前のトレードマークの『ニュアンス』がなくなってる。おまけに冴えないサラリーマンみたいな『七三分け』になってるー」
「本当だ!冴えないサラリーマンじゃん。秋葉くん、どしたどしたのぉ?」
囃し立てながら私の髪の毛をぐちゃぐちゃに崩そうとしたのは、湯島秀雄と上野裕太という同じ学部の友達らしい。
「さ、もう十分前だから、『ぴら坐』行くぞ」
「ニャー」
「あれ?今猫の鳴き声しなかった?しかも、すごく近くで」
「しないしないしない。絶対にしない」
「え、でもしたよ……」
「気のせいだ」
思わずイラっとして鼻の穴に左手を翳しかけた私は、その手でリュックの中の熊楠の耳を力いっぱい引っ張った。

「いらっしゃいませ~。お待ちしてました~」
見落としそうな細い小道の先を行き止まりまで進むと、居酒屋『ぴら坐』があった。硝子張りの安心感がある「くの字型」の店構えで、怪しい雰囲気はまったく感じられない。
「どうもどうも。予約した湯島です」
「はい毎度~。湯島様ご一行様~おな~り~」
元々なのか人工的なのかわからない縮れ毛の店長らしき人物は、まだ若い。親切を絵に描いたような顔をしているその彼は、見晴らしのいい窓際の席へと案内してくれた。
「こちらになりま~す。お待ち合わせのお客様はまだのようですぅ。お先にお飲み物は何にいたしましょう?」
「みんな『生ビール』でいいよな?店長、『生』四つ」
私はリュックの中の熊楠に小声で話しかけた。
「飲めないのにどうすればいい?」 
『ぴら坐』では、こんなに早い時間からすでに真っ赤な顔でなにやら大声で歌っている若者がいた。でもそれは耳障りなものではなく、逆に熊楠と私の内緒話を掻き消してくれる効果をもたらしていた。
「泡のところだけ舐めておけニャ。それであとはごまかすニャ」 
きれいな黄金色の麦酒が運ばれてきた。当然私の目の前にも。
「かんぱーい!」
三四郎くんは、待ち合わせなどにかまわず、喉仏を上下左右に激しく動かしながら、まるで水を飲むかのように半分以上を飲み干した。
「っかー。うめー!」
他の二人もかなりの量を喉に押し込んでご満悦のご様子だった。
「しかし秀雄。今日の合コン相手はどこ大の娘なの?」
「今日はなんと……。リベンジ!昨日と同じX女子大生仲良し四人組!京子ちゃんからの連絡で急遽決定いたしました」
「げー」という三四郎くんの落胆と共に、秀雄が不適な笑みを浮かべて私に顔を近づけてきた。
「しかも、秋葉ちゃん、ご指名」
大笑いで騒ぎ立てる三人を横目に、私はもくもくと「お通し」に箸を運んだ。ゴムチューブが短くなったような白いものに、ハムときゅうりが和えてある。それはなかなか美味いもので、小さな鉢に入ったそれは、すっかり私のお腹におさまった。名前を「マカロニサラダ」というらしい。
「そうかそうか。この前の気の強い美人が、よっぽど秋葉を気に入ったんだ。積極的だなあ。ラインももらったもんな、お前」

三四郎くんは隣りのテーブルの三人組の女の子が気になるのか、視線はそちらにうつしたままで、二杯目と思われる麦酒をほとんど飲み干していた。
なんだか頭がふらふらする。泡だけ飲んだ麦酒が、あっという間に私の顔をのぼせ上がらせた。
「秋葉真っ赤。お前どうした?いつもより飲むピッチも遅いしさ」
「大丈夫だ。私のことはお構いなく」
髭をしごく仕草をして、髪を撫で付けた。少し気持ちが高揚していて、なんだかとても愉快な気分だ。 
「おい、大丈夫か?あまり調子に乗って飲むなよニャ」
リュックの中から聞こえてくる熊楠の声も、麦酒でぼんやりとした三半規管があまり正確に捉えることができなくなってきたようだ。

「あ、来た来た。こっちだよ」
上座から現れたのは、一様に華やかな洋服を着た女性たちだった。その一人が一際熱い視線で私を見つめていた。酒も飲んでいないのに、頬をポッと赤らめているのが一目瞭然だ。
それは、少し若い鏡子だった。
「はい、京子ちゃんは秋葉の隣りね」
慣れた風に立ち回りながら、三四郎くんが女性達の席を指示している。私は着席したままでその様子を傍観していた。
「ライン、返事くれないんだもの」
私の隣に座ったとたん、その「鏡子」いや、「京子?」は言った。怒っているようだが、目が笑っている。久しぶりに見るが、なんとも可愛らしい。着物姿ではないことから、余計に新鮮な気分になった。
それにしても少し若い。

「なんだ。お前も未来に来ていたのか。手紙の返事のことは悪かった」
とりあえず謝ってから、麦酒の泡を一口飲んだ。鏡子(京子)と人前でこんなに密着して座るのは初めての経験だったので、とてもドキドキしてしまった。
それからは、八人揃って乾杯をし直し、食べ物の注文をはじめた。
「サーモンのカルパッチョ」と呼ばれるもの、「鶏の唐揚げ」や「生野菜の盛り合わせ」、などなど、私の生きている時代には見たことも聞いたこともないような美味しそうなものが机一面を埋め尽くした。
「秋葉君は、気になる人とかいるの?」
しおらしく、モジモジと体を捩りながら、鏡子は私にトンでもない事を質問してきた。私が病気になったことで、気が動転しているのだろうか。
「何を言ってる?お前と結婚してるじゃないか。何をいまさら」
「はあ?」
「はあ?ではないだろう」
リュックの中から、熊楠が私の横腹を勢いよく蹴っ飛ばした。
「お前もう飲むニャ!」
「何?今何か聞こえなかった?猫の鳴き声みたいな」
京子(私にとっては鏡子)が私のリュックを覗き込もうとする。慌ててリュックを椅子の後ろに隠して微笑んだ。こんなのが見つかったら大変だ。私は思わず、猫の鳴きまねをしてみせた。

「にゃー」
「やだ、秋葉くんの声?」
「いかにも」
真正面に座った三四郎くんが、にやにやしている。いつも何か企んでいるような、それでいて純粋な目は、やっぱり「栗鼠」だ。それが証拠に、さきほどから乾いたピーナッツばかりを口に運んでいる。
「あのねあのね。こんなところで渡すのはどうかと思うんだけど。お菓子作ってきたんだ。食べてもらえる?」
若作りをした上目遣いの京子(鏡子)は、私に小さな箱を渡してきた。
「クッキーなの」
中を開けると、なにやらトランプのスペードのような形をしたクッキーがたくさん詰まっている。とても優しくて甘い匂いが私の鼻先をつついた。
珍しい。いつもなら鬼のような形相で、 
「胃が悪いという人が甘いものを食べるなんて、もってのほかです!」
と怒鳴り散らしている鏡子とは雲泥の差だ。何か心境の変化でもあったのだろうか。
「ほう!でかしたぞ鏡子!ちょうど甘いものが食べたかった」
「本当?よかったあ!」
「だめニャ!絶対にだめニャ!」
構わない。美味しそうだ。とても食べたい。熊楠が背中を蹴っているのも無視して、判断力を失った私は、その中のひとつを口に運んだ。
「だめニャー!下を向け!漱石!」
「うまい!」
と、勢いよく京子に顔を向けたとたん、彼女が小さく悲鳴を上げた。
「ヒッ。秋葉君の顔が!顔が!」
その声に驚いて、一斉に振り向く一同。湯島も上野も鳩が豆鉄砲を食らったような目になり、女の子たちも口を大きく開けた。店内もざわざわし始め、店長も飛んできた。熊楠は隠れていた後ろの鞄から飛び出し、私の席の前に立ちはだかった。

「早く、早く酒を飲めニャ!」
「きゃあ、やっぱり猫!」
わあわあと騒ぐ店内。その中で響き渡った熊楠の声に、思い出したように麦酒を飲もうとした。その時ふと、真正面にいる三四郎くんの顔を何気なく仰ぎ見た。どうしたことだろう。彼の周りには後光が差し、背中に翼が生えているように見えた。

「こ、これは……」
ようやく眩しさに慣れてきた目で、彼の姿をじっと見つめ直した。

最終話 『夏目漱石時間旅行⑥』|さくまチープリ (note.com)

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