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『夏目漱石時間旅行⑥』

第六噺  吾輩の帰還

「し、子規くん」

まさしく、私の対面にいたのは親友の正岡子規だった。見間違いだろうか?いや、あの顔を見間違うはずがない。絶対に忘れられない、私のことを応援し続けてくれた正岡子規その人だった。
「夏目くん。久しぶり」
変わらない穏やかな話し方と笑顔。私の書いた詩を、誰よりもほめ称えてくれた子規くんがそこにいた。

「私は、子規君にお詫びしなければならない……」
「何言っているんだい?君は謝る必要なんてないんだよ。今でも僕の一番の理解者で親友なんだから」
「しかし、英国にいた時。君からの最後の手紙に返事も書かず、自分のことばかり考えていた。恥ずかしいよ」
「恥ずかしくなんか無い。君は最高さ。一緒に寄席に行けなくなったことは寂しいけれど、いい思い出ばかりだよ。感謝している」

『ぴら坐』の空気が止まった。辺りは静まり返り、まるで漱石と子規の二人だけが存在しているかのように物音ひとつ立たない。
「さあ夏目くん。そろそろ帰る時間だよ。明治時代で君を必要としているたくさんの人たちが、首を長くして待っている。辛いだろうけれど、その麦酒を全部飲み干すんだ」
まだ、ジョッキに半分以上残ったままの泡の無い黄金色のビールがあった。「向こうに行ったら、また小説や詩、水彩画なんかを書くといい。体調は万全とは言えないが、まだ元の世界で生きるんだ。人間は、君が思っているほど意地悪ではないよ。君のことを大切に思っている人が必ずいる。だから、それを飲んで帰るんだ」
子規くんは、ゆっくりとジョッキに手を伸ばすと、それを私の両手に持たせた。
「僕はもうこの世にはいない。そして、新たな人生を新たな人間として、この未来で始めているのさ。生まれ変わったんだ。最初は時間の流れや人との関わり方が難しくて骨が折れたけれど、なかなか楽しくやっているよ。でも、この時代は君の生きる時代ではない。君は生き返って、また素晴らしい作品を世に残し、後世にまで伝えなくては成らない使命があるんだから」
「私も、ここに残る」
「駄目だよ。ほら、熊楠くん。夏目くんをよろしくね」
真っ黒な猫は、静かに頷くと私の方を見た。
「では、文豪様。その酒をクイッと飲み干して帰ろうニャ」
「いや、でも子規くん。まだ君にたくさん言わなければならないことがあるんだよ」
「大丈夫。きっとまたどこかで出会えるさ。だってほら、現にこうして今出会えただろう?」
飲みたくない。謝らなくては。私のことなんて心配している人はそうそういるものか。
「ほら、飲むんだ漱石!」
熊楠がそう言った瞬間、私の口の中に大量の麦酒が流し込まれた。
子規くん、いや、三四郎くんが飲ませている。頭がクラクラして、なんだかひどく気持ちが悪くなってきた。
「さようなら、夏目くん」

「うっ、げげげげー」
喉の中が血の味でいっぱいになった。胃の辺りが重苦しくて気持ち悪い。そのあまりの不快感に目を開けると、見覚えのある掛け軸が目に飛び込んできた。手を伸ばせば寝たままでも届きそうな電気の傘も、まったくそのままだった。しばらく辺りを見回しただけで頭が遠心分離機に掛けられたように回転して、まるで酒に酔っているかのようだ。
「あああ!主人が!主人が目を覚ましたわ!」
頼むから、大きな金切り声を出さんでくれ、鏡子!
「何!本当だ!脈が戻った!」
だから、頼む……、しずかに、先、生。

少女のように涙を流す鏡子。そして、杉本副院長と森成医師、坂元雪鳥。大の大人が四人雁首そろえて、私の顔をまじまじと覗きこんでいた。そして皆、一様に嬉しいような悲しいような妙な顔をしている。まったく暑苦しい。
「ああ、漱石先生。良かった。良かったです」
「奇跡だ。早く処置を」
「やっと帰ってきましたね」

『菊屋旅館』、梅の間の畳の上。未来に行く前と同様、私は布団に寝そべっていた。
「あなた、良かった、本当に」
さっきまで居酒屋『ぴら坐』で横に座り、顔を赤らめていた京子ではなく、着物を着てやつれた顔の鏡子が傍にいた。
その顔を見て、「君のことを大切に思っている人が必ずいる」という子規くんの言葉が蘇ってきた。
外では、季節外れの鶯がホーホケキョと鳴いた。

果たして私は、本当に百数十年後の未来に行っていたのだろうか。それとも、今この時代に来ていることが、一時的なことなのか。一瞬のようでもあり、とても長い旅のようでもあった。
「漱石先生、大丈夫ですよ。私たちが付いてますから」
「必ず良くなります」
若くて優秀な森成医師とベテランの杉本副院長は、耳元で力強く、そっと私に囁いた。

「あらやだ、黒猫が」
視線だけ動かして鏡子と同じ方を見ると、見覚えのある黒い猫。どこからともなく部屋に入ってきたそいつは、私を見ると呑気な声で「ニャー」と啼いた。
良かった。どうやら熊楠も帰ってきたようだ。
「あら?なんだか主人の口元に……」
涙を浮かべたままの鏡子が、不審な表情で私の右端の口角に付いていた欠片をゆっくりとつまんだ。
「これ……、一体何かしら?」
四人が、その欠片をつまんだ鏡子の指をじっと見つめる。
「ビスケット……のような」
鏡子が言う。
「私も、そう思います」
雪鳥が言う。
「そんな馬鹿な」
杉本副院長が言う。
「そうですよ、奥様。やっぱり疲れてらっしゃるんだ。雪鳥さんも、いい加減にして下さい」
森成医師が言う。

私の処置でおおわらわな杉本副院長と森成医師は、ろくにその欠片を観察もせずに、吐き捨てるようにそう言った。
鏡子はその欠片をそっとつまんで、鼻先に近づける。
「でも、バターのような香りもなんとなくするわ……。あなた、私の見ていない隙に食べたでしょ、ビスケット?」
血の味と混じって、私の口の中に広がっているビスケットではなくクッキーの確かな香り。甘くてしょっぱくて、多分砂糖と多めの塩が両方入っていたのではないだろうかと思われる。
「未来のお前は、料理があまり得意ではないようだったぞ」
でもやっぱり、

「月がとても綺麗ですね」

食い入るように私の顔を見つめている鏡子に向かって、心の中でそう呟いた。

                              ―完―

【参考文献】(あいうえお順)
 
『素顔の南方熊楠』著者 谷川健一、中瀬喜陽、南方文枝 発行 朝日新聞社
                         一九九四年十月一日
 
『漱石の思い出』述 夏目鏡子 筆録 松岡譲 発行 株式会社文藝春秋
                         一九九四年七月十日
 
『夏目漱石の修善寺』著者 中山高明 発行 静岡新聞社 
                                                                                   二00七年四月二十八日
 
『文豪・夏目漱石そのこころとまなざし』編集 江戸東京博物館、東北大学 
発行 朝日新聞社                                                       二00七年九月二十日
 
『吾輩は漱石である』著者 井上ひさし 発行 株式会社集英社
                      一九八二年十一月二十五日
 
『私の「漱石」と「龍之介」著者 内田百閒 発行 株式会社筑摩書房
                       一九九三年八月二十四日

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