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「夏休みは軽井沢で過ごします」と言ってみたくて。

昨年の春からSANUという、サブスクの貸別荘のようなサービスを利用している。ホテルが軒並み高騰する時期でも、変わらない料金で利用できるのが強みだ。テレワークを活用しつつ2日間の休みをとって、8月2週目の5日間を軽井沢で過ごすことにした。
暑い東京を抜け出して、軽井沢で避暑!ちょっとしたトレッキングをして、焚火で川魚を焼こうかな。朝はテラスでヨガをしよう。

天気予報はずっと雨

沖縄にずっと居座る台風のせいか、軽井沢の滞在中の天気予報は見事に毎日雨だった。灼熱の中、都心に通勤しながらささやかな夏休みを楽しみにしていたのに。恨めしい気持ちもあるけれど、休暇には変わりない。そんな気持ちで始まった軽井沢の夏休みの思い出を記録する。

軽井沢に向かう道は青空

文豪に思いを馳せる

結果的に軽井沢の夏休みは小雨と曇り時々晴れだった。到着した日に旧軽井沢のお蕎麦屋さんに行こうとしたらものすごい行列で、繁忙期の軽井沢の実力を目の当たりにした。
さらに、中軽井沢あたりも星野リゾート運営のハルニレテラスの人気でものすごい渋滞だった。人気エリアは早々に諦め、文学や文豪に思いを馳せることを旅のテーマに静かに過ごすことにした。

軽井沢高原文庫で遠藤周作について知る

小雨の1日目に、軽井沢高原文庫に向かった。
軽井沢高原文庫は、塩沢湖畔にを囲む軽井沢タリアセンという公園の一角にある小さな建物だ。

軽井沢文庫

雨にしっとりと濡れた緑に囲まれた建物はとても静かで、その日は、遠藤周作の企画展が行われていた。「沈黙」という隠れキリシタンを題材にした小説を夢中になって読み、長崎の平戸でキリシタンの歴史を巡ったこともあったが、本人の人柄についてはあまり知らなかった。直筆の原稿や、親しい友人との書簡、日記などを、じっくり鑑賞した。自身の作品への批判について「どれだけ苦労して書いているかも知らずに勝手な批判をする人は気にしなくてよい」といった記載があった。著名な作家であっても毎回苦労して作品を生み出し、周囲からの批判は気になるものなのだ、とよく考えたら当たり前のことが妙に印象に残った。

心中の現場でコーヒーが飲める 浄月庵

軽井沢高原文庫の向かいには明治後期に建てられた有島武郎の別荘が移築されている。1階はカフェになっており、2階は軽井沢高原文庫の入場券で見学することができる。有島武郎については「生まれ出づる悩み」という作品名から思い悩むタイプだったのかな、くらいのイメージしか持っていなかったが、この別荘で愛人と心中していたことを初めて知った。当時の新聞記事の展示があり、なかなか生々しい。遺体の発見は1か月後で、かなり凄惨な現場だったらしい。そんな現場となった建物を移築して保存し、1階を素敵なカフェにまでしたのはなかなかすごいが、不思議と嫌な感じはしなかった。

ここが現場

「悲しみよこんにちは」を翻訳した本物のお嬢様の別荘へ

同じく軽井沢タリアセンの一角に、朝吹登水子の別荘「睡鳩荘」がある。知っていたように書いているが、私はこの人について何も知らなかった。
ただ、サガンの「悲しみよこんにちは」という小説を20代の頃に読み、衝撃を受けたことはよく覚えている。サガンがこの小説を書いたときに19歳であったこと、短い夏の情景、悲しい出来事、そしてそこに描かれる心情のすべてが印象に残っていた。そして、この小説の翻訳者がこの朝吹登水子という人であった。

インテリアも素敵!

大実業家の家に生まれ、桁違いのお金持ちであることはW.M.ヴォーリズの設計の別荘からも十分感じられたけれど、本物のお嬢様とは何かを考えさせられた。お嬢様という表現が適切なのかわからないが、いくら頑張っても身に着けることが難しい、育った環境の中で自然に受け継がれた文化資本がこの人を作っていると感じた。サガンの小説がそれだけ印象に残っているのはサガンの作品が素晴らしいのはもちろんだけれど、翻訳もまた素晴らしかったはずだ。ボーヴォワールやサルトルとも交友が深く、翻訳を手掛けただけでなく、彼らからとても信頼されていたそうだ。この人を通してサガンの世界を知ることができて良かったなと思った。

信濃追分と堀辰雄の最後の家

翌日は、信濃追分をのんびりと散歩した。静かな一本道には、堀辰雄が最期を過ごした家が残っており、堀辰雄の文学記念館になっている。堀辰雄といえば「風立ちぬ」の儚げなイメージだ。20代の若い堀辰雄が室生犀星に連れられて軽井沢にやってきた初めての夏のこと、「一流の人間と付き合うにはお金がかかる」と義父にお小遣いをせびる手紙、「風立ちぬ」のモデルとなった女性との出会いと別れ。
堀辰雄の暮らした家は、軽井沢タリアセンにも残っている。若いころに暮らした家に比べると、この信濃追分にある家は立派だが、どちらも決して大きすぎず、目が行き届く、なんというか取るに足る家だ。軽井沢の中でも静かなこの信濃追分を好んだ堀辰雄は、身の回りの小さなことを大事にする人だったんだろうなと感じた。

愛用品に囲まれた快適そうなお家

信濃追分は、江戸時代は宿場町として栄えた場所でもある。中山道と北国街道の分岐点に位置し、今でも「分去れの道標」の碑が残っている。この宿場町で感じる旅情について堀辰雄はこのように書いている。
「往昔、遠く中山道を御代田の方から上がってきた旅人がやっと追分まで巡りつき、宿へのはいり口で、いかにもほっとした気持ちで改めて浅間山をしみじみと見直した数百年の感慨が、いまだにそこいらじゅうに漂っていて、私たちの今日の感情をそれとなく支配しているのかもしれない。そんな気もされる。」

今も残る分岐点

誰かの思い出が今も漂う軽井沢

軽井沢から帰ってきて、お土産を持って義両親を訪ねた。義母は信濃追分をとても懐かしがった。
軽井沢中心に比べると宿泊費が安かった信濃追分で、何度か夏休みを過ごしたそうだ。義父と結婚する前の若かりし頃の夏の思い出を話してくれた。毎年同じ宿でバイトをしていた大学生との再会。浅間山の絵を書いたり、自転車で鬼押し出しまで行って過ごした日々のこと。そして、最後にふと「あの頃は楽しかったな」とつぶいた。

宿場町から、外国人が集まる避暑地として発展し、今も多くの人が訪れる軽井沢。たくさんの人の思い出や感慨が堀辰雄の言うようにそこいらじゅうに漂っていて、それがまた誰かを引き付けている。
軽井沢で過ごした天気の悪い夏休みは、とてもとても楽しかった。

信濃追分の一本道 少しだけ雲が晴れた


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