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「目の見えない白鳥さん、アートを見に行く」が気づかせてくれた「今ここ」にいることの大切さ

先日「目の見えない白鳥さん、アートを見に行く」を恵比寿にある東京写真美術館へ観に行った。

「目の見えない白鳥さん、アートを見に行く」は川内有緒さんと映像作家の三好大輔さんの共同監督の作品だ。

わたしは去年からアートを趣味にしたいと考えていて、アートに触れていくと公言していた。しかしまだ趣味だといえるほどには親しめていないのが正直なところだ。

そんな折、Twitterで「目の見えない白鳥さん、アートを見に行く」についての投稿をよく見かけており実はずっと気になっていた。

今回、ありがたいことにチケットをいただく機会に恵まれ、観に行けることになった次第である。

まったく事前情報を入れていかなかったので、目の見えない方がアートを観る、、、。正直言うと、わたしにはどういうことなのか想像がつかなかった。

物語のはじまりと白鳥さんという人

さて肝心の物語だが、冒頭は白鳥さんへのインタビューから始まり、そこから淡々と全盲である白鳥さんの日常生活から映し出されていった。

今思い返してみると、白鳥さんの生い立ちとか、現状に対する問題提起とか、福祉の現状とか、福祉のドキュメンタリーによくあるような、そういう解説みたいなのは、とくになかったように思う。

主人公である白鳥さんの風貌は、なんとなくカリンとした感じで、すこし陽気な植物のような人だなあと感じた。とても柔らかな感じだけど飄々としたリリーフランキー味もある。

次々と映し出されていく白鳥さんの仕事風景、杖をついて道を歩く姿、配達の人にお金を渡している様子、居酒屋に飲みに行く様子。。。

本当にどこにでもよくある日常の様子が淡々と映し出されていく。

ただわたしにとっては、この段階では白鳥さんはまだよく知らない人である。

よく知らない人の日常生活の様子と、いつも見慣れている外の街の風景、日常でよく聴く生活音。

淡々と映し出されていく映像に、ちょっと退屈さも感じはじめ、最後まで見続けられるかなあと不安になった。

しかし、それらはまったくの杞憂だった。

後述するが、むしろ、これらの映像が後々、わたしにはパンチをもって効いてくるのである。

目の見えない人はどうやってアートを楽しむのか


この映画を観るにあたって、わたしの最大の興味と疑問は、目の見えない人が一体どうやって観るアートを楽しむのだろう?ということだった。

アートは五感を使って味わって感じるものだと私は考えている。触覚・嗅覚・視覚・味覚・聴覚いろいろ使った味わい方や楽しみ方がある。

でも、今回のストーリーでは、目の見えない白鳥さんがアートを「観に」行っているのだ。

白鳥さんのアート鑑賞は友人たちや美術館の人に、目の前にあるアートについて言葉で表現してもらい、それを楽しむというスタイルだ。

なるほど!とも思ったが、やはり観ていけば見ていくほど、不思議が増えてしまい、映画を見ている最中、わたしの心のなかは、問いかけでいっぱいになった。

わたしたちは、意識していないが、普段から言葉をイメージにして脳内で再生して理解している。

たとえば、夕焼けのような「赤」、工事現場のような、海の中のような、、、こういう言葉をいわれたとき、瞬時に頭の中で「以前見たもの・体験したもの」を元に頭の中で再現してイメージして理解している。

では、そもそもそれを見たことない人は、夕焼けのような「赤」と言われてなにを思い浮かべるのだろう?白鳥さんの頭の中にはなにができているのだろう?

猫なら触れるから、なんかグニャグニャとしたやわらかくて暖かい、毛のふんわりとした、尖った耳がある生き物、みたいなのは触覚からイメージがなんとなくできるかもしれない。

しかし、太陽のような観れるけど触れないものはそもそもイメージができないはず。もし私なら「赤」を見たことのない人に、「赤」をなんて説明するんだろう?

ことばで説明できない。正解が分からない、と見ながら混乱してしまった。

そうなってくると、果たして白鳥さんは、ほんとうにアートを見て楽しいんだろうか??と疑問が次々と浮かんでくる。

なんか見ているだけで、頭の中が勝手に問いかけをはじめ、”哲学”し始めてしまう。

けれど映像のなかの白鳥さんはじつに楽しそうだ。そして、観ていくうちにそれは実はそれほど重要なことではないのではないかと思い始めた。

正解のなさと世界のあやふやさとコミュニケーション


絵やものをみて、それを言葉で表現するとき、おもしろいくらい人それぞれ違う。

筆でかいた白い線を、イカのように見えると表現したり、横断歩道と表現したり、いろいろだ。

この前もわたしがある絵を見て、これは太陽ですか?と聞いたら、最初は太陽だったけど、後からビッグバンになった、と言われたことがある。

そういわれると、なるほど確かにビッグバンに見えるな~と思ったことがある。

ちなみにビッグバンはみたことはないが、これもまたなんか大きなものが弾けた状態、という共通概念で、それはビッグバンの絵として認識されているから、面白い。

描かれたものを言葉に転換して説明するとき、その人の頭の中でよく見るものだったり、印象が強いものだったり、懐かしいものや、好きなもの、概念だったり、いろんなものと結びついて、出てくるのだろう。

つまり、現実にある作品ひとつとっても、じつは誰もそれを「同じ」ようには観れていない。色だってまったく同じように見れている人もいない。

少しずつ、みんな違うもの、違う世界を見ているのだ。

映画のなかで白鳥さんが「正解はない」と話していた場面があった。

確かにひとりひとりそもそも違う世界を見ているのであれば、表現にも正解はないし、答えも正解はない。

なんというか、またもや観ながらいつの間に”哲学”の世界に放り込まれてしまった。。。

だが、まだ分かりやすい絵の場合は説明しやすくて可愛いものである。

現代アートなどになると、目で見ていても、これはなんだ??ただの白い絵の具がキャンバスに塗ってあるだけ、、、丸い石を重ねた物体にしか見えないのだが、、、みたいな作品もたくさんある。

でも、その意味不明(すみません!)な作品も、白鳥さんに「言葉」にして「表現(説明)」しようとするとき、みんなそれをじっくりと見て、なんとか自分の内側に持っている情報で伝えようとする。

わたしは、この瞬間のコミュニケーション自体が、きっと白鳥さんにはすごく面白くて、もしかしたら、それは白鳥さん以上に、伝えている側に、大きな気づきをもたらすのではないかと思った。

ちなみに、作品中でも白鳥さんは、アートを観ているその場(体験)そのものが面白いんだ、というようなことを言っていたと思うので、たぶん解釈は合っているのではないだろうか。(どうかな)

アートと自分の内側が言葉によって結びつく


わたしたちの内側や、頭の中にあるものは、じつは自分でも気づいていないものがたくさんある。

意識して取り出して、言葉にして外に表現するときに、はじめて自分の内側にあるものや、自分の考えていることを客観的に認識・理解できることがあるのだ。

絵について「言葉」を使って表現し伝えていく中で、伝えていく人はおのずと自分の内側のなかにあるもの、感じているもの、思うことも伝えることになる。

そこにさらに他の人の解釈や理解や世界観を聞いて、また自分の内側にあるものが触発されることもある。

とくに、それは作品中の風間サチコさん作の「ディスリンピック2680」について白鳥さん、川内さん、佐藤さんの3人で伝える(語り合う)ところが顕著だった。

この内容とこの絵に関しては、もう映画を観て!というしかないのだが(笑)わたしも、この作品を観て、そしてものすごく考えることや、思うことがあったので、語り合えたらものすごい気づきがありそうだなあと思った。

もともと美術品は、静かな美術館の中でじっくりと鑑賞する、というのが世間一般の常識であり、スタイルなことが多い。

じっくり観ることで、内側で感じたり、湧き上がってくるものもたくさんあるのだろう。

けれど、途中からアートを本当に観るには「言葉」を使うことも大事なのでは?と思うようになった。

アートを観たときに感じること、思う子ことを「言葉」にすることにより、とアート作品と内側が繋がっていくのかもなあ、とふと感じたのだ。

もしかしたら、いつでも楽しそうにしている白鳥さんは、思いのほかじつはすごい役割をしているのではないだろうか。。。とも思ったりもした。

禅のような美しさを感じる日常風景


作品全体を通して、目が見えない障がいのことや、大変さや感動ということを伝えるような内容はあまりない。

しかし、気づくとわたしは、ある場面で涙が勝手に出てきて、しばらく泣いてしまった場面がある。いや、わたしだけではなく、私の周りの人たちも多分何人か泣いていた。

そんな心を打った場面はなんだったかというと、まさかの白鳥さんが丁寧に洗濯物をたたんでいる姿であった。

そして、冒頭で話した白鳥さんの日常生活の風景の映像が、ここでじわじわとパンチを効かせてくるのである。

白鳥さんの動作は、とても丁寧だ。包丁でネギを刻むとき、日本酒を飲むとき、歩いている時、すべてゆっくりひとつひとつ確かめている。

もちろんそれは目が見えないからだ。

わたしは泣きながら、そのただの日常の姿が、わたしの心の琴線のどこに触れたのだろう、と考察した。

かわいそうだから、とか大変そうだからとか、そういうことでは全然ない。

わたしが泣けたのは、白鳥さんの佇まいの美しさ、ひとつひとつ丁寧に洗濯物に触れて、形をなぞってい折っていく、その静けさだったように思う。

白鳥さんが洗濯物をひとつひとつ静かにたたんでいるいるのを見て、わたしはちゃんと洗濯物をたたんでないのだな、と気づいた。

なんといえばいいのか、、、、目で見ているけれど、わたしは洗濯物を見ていない。

洗濯物をたたみながら、わたしは頭のなかで違うことを考えていて、見ているようで、見てもいなく、なんとなくそれらしい形にするだけで、洗濯物の感触もよく分かっていない。

つまり、ちっとも今ここにいない、のだ。

白鳥さんは、きっと目が見えない分、手で感触を丁寧に確かめて、ひとつひとつ意識してたたんでいるはずだ。

それには、今に集中する必要があるし、歩いていても頭の中で違うことを考えていたらぶつかってしまう。だから、すべて五感を今に集中させて行動しているのだろう。

ああ、だからか、と思った。

だから、カリンとした楽しそうな植物のような白鳥さんの姿をずっと見ていたら、なんだかよく分からないけれど、泣けてきちゃったのだ。

禅の僧のような美しさ、みたいなのに、たぶん心が触れちゃったのだ。正直、これにはびっくりした。

きっと、白鳥さんにそんなこと言ったら、そんなの意識してないよ、と笑われるかもしれない。ただ、本人の意識は関係なく、わたしは、なんかそう感じて勝手に涙が出たのだ。

人間性云々なども関係なく、人は、今ここに集中している人の姿に、ただ美しさを感じるのかもしれない。

(ちなみに禅の修行では、食べ物を食べるときも、掃除する時も、ただ今行っていることに集中し、今に心(意識)を留めることが修であるという。)


また映画全体を通じて、「音」の役割もすごかった。

お湯を沸かす音、信号機の色が変わる前の音楽、車の音、そしてさわさわとした風の音。

これも、日常でいつもどこでも聴いているはずなのに、映画の中では、あらためてこんな音だったけ、、、と思うことが何回もあった。

やっぱり「今ここ」で意識して生きていないのだろう。聴いているようで聴いていなかったのだ。

さわさわと吹き抜ける風の音は、静かでやはり美しかった。

わたしは映画を観ながら、もうちょっと丁寧に今を味わって生きたいなあと、泣きながら反省した。

自分の姿が見えないのなら、自分の存在をなにで確かめるのだろう。

どこの場面だか忘れてしまったが、白鳥さんが「誰かと話していない時、本当に自分は存在しているのか分からなくなる」というようなことを話していた場面がある。

じつは、わたしは映画を観ている最中、そして映画を観た後も、たびたびこの言葉を思い返していた。

真っ暗な空間のなか、周りにあるものも自分という存在も目に見えず、そこにいるとき、本当にそこに自分が存在しているって、わかるのだろうか??

なんかそれを考えたとき、ちょっと恐怖、のようなものを感じた。

もちろん視覚以外にも、いろいろな五感があるから、触れば分かるし、匂いも嗅げばなにがあるかは、分かるのかもしれないが、なんにせよ自分以外のなにかがいなければ、自分という存在も分からない。

これまた哲学の道に放り込まれそうになったのだが、白鳥さんは意図はせずとも、この問いを他の人より体感として問いかけているのかもな、と思った。

幸せは「○○」であり、それを大切にしているから、白鳥さんは幸せなのかもしれない。


映画全編を通して感じたのは、白鳥さんは、日常をとても楽しんでいて、そしてともにいる友人たちとのコミュニケーションをとても大切にしているのかな、ということだ。

これはもしかしたら先ほども記した、他者の存在がなければ、自分の存在が分からない、ということも起因しているのかもしれない。(これは完全にわたしの勝手な推測だが)

そして、そんな白鳥さんを好きな人たちに囲まれて、楽しそうにしている白鳥さんを見ていると、いいなあ、幸せそうだなあ、と純粋に思えて、わたしもそんなお友達たち欲しいなと感じた。

でも、これは、映画の最後の白鳥さんへの質問、「幸せってなんですか」という問いに「○○」と答えたところに、すべて集約されるのだな、とも思う。

「○○」はわたしが答えてしまったら、ネタバレになるのでもったいないので控えておくが、やはり白鳥さんは「今ここ」を大事に生きている人なのだ。間違いない。

そして、映画を見終わる辺りには、まったく知らない他人だった白鳥さんが身近に感じられて好きになっていて、なぜ白鳥さんの元に人が集まるのかもわかった気がした。

結局、わたしはパンフレットまで購入しちゃったし。

まとめ

「目の見えない白鳥さん、アートを見に行く」の映画は、たぶん見た人の数だけ、心に触れる部分や、思うことがある映画だと思う。

わたしと似たようなことを思う人もいれば、全然違う見方をする方もいるかもしれない。

アート関係者や福祉関係者から見たら、どんな風に見えるのだろうか。

アートと同じように、同じものをみていても、まったく違うものが見えていそうだ。

この記事の内容も製作者の意図とまったく違うことを拾っている可能性も大いにある。

でも、それだけ「余白」があるけど、情報がぎゅっと詰まった不思議な映画だ。多くの人に観て欲しい。

それにしても「哲学」と「アート」って、きっと相性がいいのかもしれないなあ。

そして普段から「今ここ」にいて、いろんなことを丁寧にみる、きく、かぐ、ふれる、味わう、ことをしないでアートをみても、じつは半分も楽しめないのかもしれないなあ。

これから趣味はアートですと堂々と言えるよう、普段からいろんなものを見て、感じて、言葉にして、誰かと語り合って、哲学していこうと思う。



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