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こわさから敬と恥を知り己を律する

松下幸之助 一日一話
10月28日 こわさを知る

人はそれぞれにこわいものを持っています。子どもが親をこわいと感じたり、社員は社長をこわいと思ったり、世間がこわいと思ったりします。しかしそれとともに、自分自身がこわいという場合があります。ともすれば怠け心が起こるのがこわい、傲慢になりがちなのがこわいというようなものです。

私はこのこわさを持つことが大切だと思います。こわさを常に心にいだき、おそれを感じつつ、日々の努力を重ねていく。そこに慎み深さが生まれ、自分の行動に反省をする余裕が生まれてくると思うのです。そしてそこから、自分の正しい道を選ぶ的確な判断も、よりできるようになると思います。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

稲盛和夫さんは著書「生き方」にて、冒険家の大場満郎さんが有していた「畏れ」について以下のようなお話をされています。

…これについては、冒険家の大場満郎さんからお聞きした話が参考になるでしょう。大場さんは世界で初めて、北極と南極を単独で徒歩横断した人です。その冒険に京セラの製品を提供したことから、お礼にと大場さんが私を訪ねてきてくれたことがありました。

私はそのとき、開口一番、命がけの冒険を辞さない大場さんの勇気をたたえたのですが、大場さんはちょっと困ったような顔をして、それを即座に否定されました。

「いえ、私に勇気はありません。それどころか、たいへんな怖がりなんです。臆病ですから細心の注意を払って準備をします。今回の成功の要因もそれでしょう。逆に冒険家が大胆なだけだったら、それは死に直結してしまいます」

それを聞いて私は、どんなことであれ事をなす人物は違うものだ、人生の真理というものをその掌中にしっかり握っておられると感心しました。臆病さ、慎重さ、細心さに裏打ちされていない勇気は単なる蛮勇にすぎないのだと、この希代の冒険家はいいたかったのでしょう。… 
(稲盛和夫さん著「生き方」より)

これは、「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」上で、悲観的な計画に繋がる「畏れ」が新しき計画の成就には不可欠であるとする具体例ですが、仮に大場さんが自然に対して「畏れ」を抱くことなく驕慢になっていたならば、冒険家としては死に直結することを意味し成功は成し得なかったと言えます。

同様に、「畏れ」について孔子は論語にて以下の言葉を残しています。

「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は、天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を悔(あなど)る」(論語)

君子には三つ畏れるものがある。天命、天から与えられた命を畏れる。そして大人、立派な道徳観を持った人を畏れる。そして先哲聖人の言葉を畏れる。小人は天命を知らないが故に天命を畏れることがない。そして立派な人にも馴れ馴れしい態度で接するし、聖人の言葉も侮る。という意味です。

孔子が何よりも畏れたのは「天命」であり、天に対して非常に敬虔で忠実であったとされています。人はこの「畏れ」の心から「敬」の心が生じ、「敬」の心と一対になっている「恥」という気持ちも同時に生じてきます。つまりは、君子には「畏れ」がある故に、「敬」と「恥」を知り自分を律していくことができるということです。「敬」の心は天に対してだけではなく、立派な道徳観を持った人や、先哲聖人の言葉に対しても言えることです。

恥知らずの人間は敬を知らず、畏れを知りません。故に、小人であるとも言えます。

孔子と同様に、天を畏れるが故に天を敬い、更には天と同一に人を愛すことで自己を律し続けた代表的な日本人の一人に西郷隆盛がいます。西郷隆盛の「南洲翁遺訓」には以下の言葉があります。

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は他人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」 (西郷南洲翁遺訓 遺訓二十四条)

道というのは、この天地おのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから、何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。という意味です。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」(西郷南洲翁遺訓 遺訓二十五条)

人を相手にしないで常に天を相手にするよう心がけよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人の非を咎めるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。という意味です。

「至誠の域は、先ず慎独より手を下すべし。閑居(かんきょ)は即ち慎独の場所なり」(西郷南洲翁遺訓 問答)

独りを慎み、即ち睹(み)ず聞かざる所に戒慎(自分を戒めて慎む)することが、己に克つ具体的修練の方法であり、それによって私心をなくし、誠の域に達することができる。ひまでいる時こそ、独りを慎むによい状況である。という意味です。

西郷が独りを慎んでいた時とは、敬する天と対峙し自らの行動を反省していた時であったのでしょう。故に、私心に溢れる明治維新の世にあっても、正道を歩むことが出来たのであると私は考えます。


最後に、余談になりますが、私にも三畏があります。私はその3つを見るだけでも鳥肌が立ち、怖くて怖くて泣き叫びたくなります。ですので、決して手土産として私の元へとは持って来ないでください。

ここだけのお話ですがその三畏とは、…
「饅頭」と「お茶」と、そして最もこわいのが「お金」です。

※底が深~い箱で、上には饅頭とお茶が薄めに、その下にお金が分厚く入っていたら、こわさでショック死してしまうかもしれません!!
決して、持ってこないでください!!

「あ~~こわい!!、こわい!!…(泣)」


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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