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エッセイ・リトルボーイ

 リトルボーイは、第二次世界大戦中に広島へ落とされた原子爆弾のコードネームだ。
 米国にある博物館で、私はリトルボーイの展示を前にたたずんでいた。私は八歳前後で、時代は八十年代の中頃のことだ。米国では日本の真珠湾攻撃が有名で、原子爆弾の投下は必要であり正しいという意見が一般的だった。
 米国のどこの博物館かはっきりと覚えていない。調べたらリトルボーイは1986年までワシントンにあるスミソニアンの国立航空宇宙博物館に展示されていたので、そこだったと思う。
 米国の首都ワシントンにある、スミソニアンの国立航空宇宙博物館では、大型の施設の中に六万点におよぶ歴史的な飛行機、ロケット、月面着陸船、月の石などの実物が展示されている。入館は無料で、別館を合わせて年間八百万人の観光客が訪れる、全米でも人気一位と言われる博物館だ。
 当時私の父は米国のマンハッタンの金融業で働いていたので、ニューヨークへ通勤出来るニュージャージー州に、私の家族は暮らしていた。

 その日はからっと晴れた休日で、家族みなで観光するためにワシントンを訪れていた。航空宇宙博物館に入ってからは、小さな妹を連れた母も、三つ上の兄もそれぞれ展示を眺めて楽しんでいた。
 明るく広い博物館は楽しかった。何しろ飛行機の現物が展示されているので迫力がある。つやつやした真っ赤なプロペラ式の飛行機や、銀色の大きな月面探査機などは、見た目が派手で子供にも面白い。特にすごいと感じたのは、ライト兄弟の飛行機ライトフライヤー号だ。大きな宇宙船もまばゆくかっこ良く見えて、私も兄も夢中で眺めて大喜びしていた。
 そんな華やかな展示の中に地味に目立たずに、原子爆弾の実物が展示されていた。内部やウランは抜き、横になって置かれている。照明も薄暗いような静かな場所だ。来館者の多くは気が付かないのか、興味を持たれないのか、他の見学者は誰も足を止めていない。
 私と父は何気なくリトルボーイの展示の前を通りがかった。展示の解説の英語表記を見た瞬間に、父は小さく震えるように驚いていた。
「リトルボーイ……。原爆じゃないか」
 父はまじまじとその爆弾を見つめ、息を飲んでいる。
「こんなところにあるなんて……」
 やるせないような声で父はそれだけを言い、絶句して衝撃を受けていた。そのまま原子爆弾の展示の前で足を止めて、真剣に眺め始める。
 子供の私は何も知らず、なぜ父がそんなに驚くのか分からなかった。私に向かって父が抑えた真面目な声で説明する。
「これはな、広島という街に落とされた爆弾なんだ。これで何十万人という人が亡くなったんだよ」
 そう言われて、私も一生懸命に展示を眺めた。
 リトルボーイの表面は暗めの照明を鈍く反射している。黒々と丸っこく、大人一抱え分はありそうだ。だけれどそれだけで、他は何も分からない。展示は台の上に原子爆弾と英語の解説文だけが置いてあり、英語表記を読めない私の理解の助けになりそうな、写真などは一切置いていなかった。 
 戦争? すごく昔の話だよね? 何十万という人間? とにかく沢山ということ? 八才の私はいろいろ考えてみたが、話のわりには小さく見える爆弾に想像力が追いつかない。
 戦争の知識のない私は何とか考えようとしたけれど、どうしてもそれ以上は分からなかった。
 父は黙ったまま展示の前から離れず、原子爆弾を見つめている。
 その場で足を止めたまま次へ進まなくなった父から離れ、あきらめて私は別の展示を見に行った。他の展示物の方が華やかで面白く、何十倍も楽しく感じたからだった。
 十分ほどしてからだ。同じ部屋の他の展示物をひとめぐり眺め終えて、私は後ろを振り返った。離れた場所からは残された父が小さく見える。
 ひとりきりで、父はまだ原子爆弾の展示の前に立っていた。何を言うわけでもなく、真剣に展示を眺め、目をそらさず黙ったままだ。深い物思いに沈み、何かに耐えるようにじっと爆弾を見つめている。
 私はその姿に立ちすくんだ。冷たく大きな、分厚く越えられない壁を目の前にしたようだった。体がこわばり、父に何も声をかけられなかった。
 他の見学者は誰も足を止めず、リトルボーイの展示の前を通り過ぎてゆく。その中でたったひとり父だけが、原子爆弾の展示をじっと見つめ、たたずみ続けていた。

(終)

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