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noteはじめました。

遅まきながら、noteをはじめました!

なぜはじめたのか?
これは、少しでも「私のこと・弊社のこと」を認知して貰いたいと考えたからです。

世の素晴らしい起業家や経営者の様なためになる発信はあまりできないかもしれませんが、自身の内省の場として活用をしていこうと思います。
物語のつい応援したくなる成長していく主人公を見るような、温かい目で見て下さると幸いです。

さて、初回投稿ということですので、私「谷 健太郎」という人物がどういう歴史を辿ってきているのか。そして「アットオフィス」とはなんなのか。
そのあたりを中心に紐解いていきたいと思います。

1.「谷 健太郎」について

生年月日 1991.3.3
血液型  O型
出身   東京
趣味   テニス、ギター、読書(ビジネス書・漫画)
家族構成 妻1人、娘2人
経歴   日本大学第二高等学校
     成蹊大学経済学部
     プライム上場メーカー営業
     株式会社アットオフィス 現職

さて、ここからは、各年代の自分の話を書き連ねていきます。
かなり長くなるので、私に興味がない方はぜひ読み飛ばしてください笑

幼少期〜中学2年

私は、今でこそ体格が良いですが、幼少期は周りと比べると成長が遅く、とても小柄でした。
性格は、泣き虫で、リスク回避型思考のくせに負けず嫌い。
当時はどうしても体格差で勝つことが難しく、負けず嫌いな性格を拗らせた結果、勝負することそのものを避け、周りの様子を伺いながらついていく・合わせる。ということをよくしていました。
この幼少期の呪縛には、結構長い間囚われていましたね。
個人的な暗黒期です。
ただ、幸いにも暗記科目はそこそこできたので、勉強面で苦労することはそこまでありませんでした。
とはいえ、父からの「何でも良いから一番になれ。」という教えを、叶えられる気はしていませんでした。

妹と海で。髪の毛サラサラでした。

中学3年〜大学生

そんな私にも成長期が遂に訪れます。
中学3年生の夏休みに身長が15cm伸びました。
家族も部活仲間も、毎日会っていると小さな変化には気がつかないもので、2学期に夏休みぶりに会ったクラスメイトに指摘されて、身長が伸びていることに初めて気がつきました。
いやいや、嘘だろ?と思いますが、脳トレ動画とかでよく見るように、少しずつの変化には気がつけないものです。

漸く体格が周りに並んだことで、運動面で色々なことができるようになりました。
しかし、「よし、ここから人生の巻き返しだ!」という気概は残念ながら生まれず、逃げ癖が染み付いていた私は、相変わらずのらりくらり生きていました。
最たる例は、部活動の部内ランキング戦で、危うく勝ってしまいそうになったからわざと負けたことでしょうか。勝つと団体戦に選ばれる可能性がグンと上がる試合です。ただ、勝った後の人間関係の面倒臭さを考えると、勝たない方が得だ。本気出せば勝てるから、良しとしよう。と自分に言い聞かせて、本音では勝ちたいのに負けました。今思うと、意味がわからないのですが、当時は最善の選択だと思っていました。笑
一度自己肯定感を失うと中々取り戻せない。の典型です。
そんなこんな、何となく場当たり的にぼんやりと過ごしていたものですから、アイデンティティが形成されるのは、同世代でもかなり遅い方だったと思います。

首から下げるネックレスが最高にイケてると思っていました

しかし、ここで転機が訪れます。
高校1年生の時に、定期テストで学年200番台になりました。
学年は440人いたので、真ん中よりは上。
まぁいいか。と思っていたところ、なんと所属していた部活の中では、下から3番目でした。
幸いにも、部活には頭が良いメンバーが揃っていたのです。

あれ?なんか悔しいぞ。

と、押さえ込んでいた生来の負けず嫌いが、久しぶりに顔を出しました。

即座になぜ定期テストで点数が取れたのか、勉強方法をヒアリングしました。
そして、共通点が「ある塾」に通うことだと気がつきました。
早速行動に移します。
母に「塾に通わせてほしい」とお願いし、春期講習に参加しました。
振り返ると、この一歩が人生のターニングポイントでした。
この一歩がなければ、今ものらりくらりな半端者だったと思います。

通い始めた塾は少し特殊で、日大統一模試という全国の日大系列の高校3年生が受験する模試で、高得点を取るための勉強方法を教える塾でした。
学内推薦を獲得するという目的にフルコミットです。
なので、一般受験をする前提ではなく、学内推薦で日本大学へいけたらいいなと思う人がほとんどで、そもそもの勉強に対する意識が低い生徒が入塾する傾向にあるわけです。
それらを統率し、発破をかけるために、塾側が取った解決策は、「武力」行使です。笑
「武力」による強烈な負のモチベーションを使うというものでした。

「この空間は、点数を取らないものは人ではない」
「俺は差別はしないが、明確に区別をする」
「にーちゃん、70点以下だったら人権があると思うなよ」
「この点数を下回ったら、ためらいなく右腕振り下ろすからな」

実際に言われた言葉の抜粋です。
正直、ビビりました。笑
令和の時代には存在できないようなスタンスです。
塾長が元プロボクサー、英語教師が元暴走族で空手黒帯などなど。
うでっぷしでは、とても太刀打ちできるような人たちではありません。

しかし、この塾の熱血指導は私にとてもあっていました。
結果を出し続けなければ愛の鞭が飛ぶ環境で、のらりくらりを卒業し、私はメキメキと成長しました。
最終的な年間評定は5.0。MAXです。
ここで、努力する→成長する。
ということに対する面白さを、理解した訳です。

最終的に、日大統一模試の社会科目で全国1位を取り、失われた自己肯定感は随分と戻りました。
負けず嫌いの性格もかなり満たされていました。笑
幼少期に父から言われた「何でも良いから一番になれ。」を、高校3年生で漸く叶えることができました。

評定平均が高かったので、どこの大学でも行ける状態でしたが、吉祥寺でのキャンパスライフに憧れ、成蹊大学にさっさと決めてしまいました。
全く後悔はしていませんが、就職とか大学進学とかそういうことを目標にしていなかった弊害で、単純な意思決定をしました。苦笑
教師にもかなり止められましたが、頑として譲りませんでした。
変なところで頑固です。

成人式

そして、大学時代は以下の3つに没頭しました。

・ソロギター演奏
・書道(信山流)
・麺づくり

特に没頭していたのは、麺づくりです。笑
つけ麺屋でアルバイトをし、本来社員しかやれないはずの麺づくりができる様に懇願し、製麺機を毎日触っていました。
変化させられる係数は少ない中で、自分の理想の麺を追求していました。

そのつけ麺屋では、社員さんが代わる代わる頻繁に問題を起こし、本部から良く人が来ていました。
黒塗りのハイエースから屈強な男たちが出てくるのです。
まるで闇金ウシジマくんの様な世界でした。
振り返ると、とても良い社会勉強になりましたね。
とにかく店舗に立つ可能性がある職種は止めよう。BtoBだな。
と固く心に誓いました。

一般的大学生です

サラリーマン

新卒では、プライム上場メーカーに就職しました。
いわゆる老舗。日本のインフラを陰ながら支えてきた100年企業です。
決め手は、トップシェアで、商材が面白そうだったから。
そして、何よりホワイト企業という噂だったからです。笑

配属は、大阪。
当時の四季報の離職率の全てがこの場所から生まれていることを、事前情報で知っていたので、配属の紙を見たときは「終わった〜」と思いました。
今風に言うと、配属ガチャ外れた。というやつです。
全体研修を終えて、大阪へ向かう道中、憂鬱過ぎて脚が鉛のように重たかったことを覚えています。

そして、実際に劣悪な環境が待ち受けていました。
まず衣食住の自由度が減るところから始まります。

衣:作業着・安全靴。スーツは黒無地。
食:寮と工場の食堂。
住:築60年の寮。洗濯機と洋式便所を奪い合う。

続く関西の洗礼。
「お前、何か面白いことやって。」をコピー機に行く度に求められました。
毎朝、寮から工場に向かう道中では、仕事の事もそうですが、どうやったら先輩が喜ぶのだろうか・・という事ばかり考えていました。

また、取引先に飲料メーカーが多く、お酒を飲むことがお客様の売り上げにつながるという事実があり、とにかく毎日飲み会がありました。
私はどちらかというとお酒に弱い体質なので、毎日という頻度はきつく、すぐ風邪を引くようになりました。
体は正直ですね。尿酸値も爆上がりしました。笑

これでやりがいを感じる仕事であれば良かったのですが、仕事内容も残念ながら全くもって面白みを感じませんでした。

・工場からの出荷指示に対して、指定された商品を指定された時間に届けるように社内に配車指示を出す。
・製品が間に合うように需給調整を行う。

まさに歯車の一部という感覚でした。
その上、業界の慣習や、作業の無駄などの非合理性にうんざりしていました。
このやり方でやれ。と決められた方法を毎日繰り返していくのは、とにかく性に合っていなかったです。
改善提案も「俺は良いと思うんだけどねぇ」という上司にもみ消されて、実行に移せませんでした。

こういった洗脳されるような環境下の中、ゴリゴリと気力と体力は奪われました。
会社行きたくねぇな。と毎日思っていました。

半年が経ったある日、遂に大きなミスをやらかします。
トラックの出荷指示誤りです。
消費期限があり、納期が厳しく設定されている業界だったので、出荷指示誤りは最もやってはいけないことでした。
会議室に軟禁され、「なぜなぜ分析」を無限にやらされました。
よく経営者のエピソードで、サラリーマン時代にトップセールスという言葉が出てくると思うのですが、私は逆。
周囲の期待値を大きく下回っており、気づけば「使えないやつ」の烙印を押されていました。

しかしながら、ここでの大きな失敗が屈辱的で、私の負けず嫌いスイッチを押しました。

こいつら全員に勝つ。と強く思った時に、何かが変わりました。
「使えるやつ」と思われる行動を取り続けることが、急に苦ではなくなりました。
周囲の環境も、全部自分を成長させるために存在していると思えました。
表面上は決められたやり方をしますが、裏では自分なりのやり方を編み出し、改善をし続けました。
そうなると不思議なもので、仕事がどんどん楽しくなります。
限られた中で成果を出すゲームの様な感覚です。
Very Hard クリアしてやろうじゃないか。という感じ。
勝手に自分の中で目標を設定し、それが達成できた時に幸福を感じました。
何事も捉え方次第です。


社会人1年目
先輩の結婚式の余興を必死にやる若手

そして1年経ち、後輩もでき、新しい仕事も任され、気付いたら仕事が大好きになっていました。笑
この新しい仕事も、今までは30歳以上のベテランが任されるような種類の仕事でしたので、とても刺激的でした。

その矢先、新しい仕事をやっていることが目に留まったのか、本社への異動となりました。
普通に考えると、栄転ですよね。
ところが、工場にいると本社のことはよく見えません。
本社で打ちのめされた人が誇張して噂を流したりするので、天外魔境のようなイメージになるのです。
なぜか私は周りからとても同情されました。
この転勤もまた、私にとって大きな転機になります。

本社へ転勤となり、花形部署への配属となりました。
そこは、圧倒的な業務量と責任感があり、私の前任は月120時間くらい残業してました。
22時くらいに家に帰り、シャワーを浴び、終電で出勤して力尽きるまで働く。
こんな生活です。
働き方改革が叫ばれる少し前だったので、それをどうにかしなければいけない。という会社の関与はありませんでした。
体力は人並みの私は、このままでは死んでしまうと早々に思いました。
人間としてまともな生活をするためにはどうすれば良いのかを必死に考えました。
至った結論は、あらゆる作業の自動化。
Excelのマクロを活用することでした。
今となっては何がそんなに凄いのかと思ってしまいますが、あの環境下で営業がマクロを使いこなすということはとても画期的だったのです。
簡単なマクロで魔法使い扱いされる環境です。
私のいた部署は、目に見えて業務効率が改善されました。(それでも40時間程度残業していましたが。)
そして様々な業務の改善の傍ら、属人的な仕事も学び、成長していきました。
本社は、工場よりも閉鎖的ではありませんでした。
改善提案は受け入れてくれるし、理不尽も相対的には少なく、ロジックで攻め・守りができる人が強い。という環境でした。

この経験により、私はITにとても魅力を感じることになりました。
命の恩人ですからね。笑
それからは、継続的に成長し、社内でも一目置かれる存在になりました。
所謂、出世街道に乗っていたという状態です。
しかし、そこから私は、出世を諦め、アットオフィスへ入社することになりました。
このあたりの詳細は、後述したいと思います。

とても長々と自分史を書いていきました。
ご覧になっていただいてわかったと思いますが、元々私はやる気に満ち溢れているエネルギッシュな人間ではありません。何か突出して才能があったわけでもありません。
ただ、人より少し負けず嫌いだっただけの凡人です。
逆境に立たされた時に、必死に考えて行動をしてきただけです。

その経験を活かし、今は逆境に立たされる前に逆算して行動することを心がけています。

クレームで数万本のPETボトルを検品しました

2.「アットオフィス」について


それでは、続いて株式会社アットオフィスについて、話をしていきたいと思います。

弊社の主として行っている事業は、「オフィス移転の仲介」事業です。
いわゆる、住居の引っ越しの時に問い合わせをする街の不動産業者とは異なり、法人がメインです。
オフィスを移転したいなと思った時に声をかけていただく会社ですね。
業歴としては約20年。長くやっています。

本社は、東京都港区南青山にあります。
2023年3月にオフィス移転をして、アットオフィス流のABWを盛り込んだ「イマドキ」な内装にしています。

現在は、東京と神奈川に拠点があり、神奈川でも横浜西口に新しく拠点を設けます。
今後、更なるエリア展開を検討しています。

さて、社名の通り「オフィス移転の仲介」だけを行っているかというと、そうではありません。
アットオフィスはホールディングス体制を取っており、様々な事業を展開していく成長フェーズにある会社です。
以下にメインの法人及び事業を紹介したいと思います。

■アットグループホールディングス株式会社

  • ベンチャー企業投資

  • 不動産投資

  • グループ企業のアセットマネジメント

■株式会社アットオフィス

  • オフィス移転の仲介

  • 店舗の開業の仲介

  • オフィス内装の企画・施工管理

  • 居抜きのマッチング

  • 起業家向けメディアサイトの運営

  • ビルオーナーの空室対策

■株式会社アットクリニック

  • クリニック開業支援

■株式会社ビルアド

  • 事業用不動産の新しい貸し方・借り方

不動産領域で様々な展開をし、変化が加速していく世の中でも、弊社のサービスが顧客の皆様にお届けできる体制を構築しております。

年始の全社御祈祷後

MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)

そんな当社の中核になる、MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)について説明をしたいと思います。
実は、2022年12月により持続的な成長を促進すべく、再定義いたしました。

まず、それぞれの言葉の定義を書きます。

Mission :組織としての存在意義
Vision :将来のありたい姿
Value :従業員が大切にすべき価値観

そして、2022年の12月に課長代理職以上のメンバーでディスカッションし、キーワードを集めました。
その際に、以下の様なキーワードが出てきました。

・はたらく
・幸せ
・ワクワク感
・つなぐ、応援する
・続ける

みんな、仕事を通じて「誰かを幸せにしている」という実感を得ている。得ようとしている。得たいと思っている。

これに、私は強く衝撃を受けました。

不動産の営業って、なんだか自分だけ良ければ良い。みたいな世界観のイメージがあると思うのですが、弊社においてはそうでは無かった。

そして、当日のディスカッション内容を受けて、以下のMVVを策定いたしました。


Mission

「はたらく」をつなげる。

「はたらく」とは、人が動いて価値を生み、その価値と誰かのニーズがつながること。
直接関わった人・その人に関わっているご家族に至るまで、
「はたらく」がつながることにより、様々な幸せが生まれると考えています。

グループ全体で「はたらく」をつなげることで、変化していく価値観に対応し、
今よりも少し明るい世の中を実現し続ける。

それがアットグループの存在意義です。

Vision

人と企業に、よりそい続ける。

我々は、オフィスのプロとしての自覚と責任を持ちながら、お客様と社会の課題解決を行います。
課題の本質に対して正面から向き合い続けることで、新たな価値を創出いたします。

これらは、人と企業によりそい続けて、はじめてできること。

オフィスのことで困ったら、最初に思い出してもらえる企業になるために。
「あなたに任せて良かった。」その言葉をもう一度聞くために。
課題解決と新たな価値の創出をしながら、人と企業によりそい続ける。

それがアットオフィスのありたい姿です。

Value

  1. 我々は、オフィスのプロとしての自覚と責任を持ち、お客様と相対します。

  2. 我々は、有言実行の精神で、約束を守り、発言と行動に責任を持ちます。

  3. 我々は、誠心誠意、お客様の幸せに繋がることを探求します。

  4. 我々は、お客様や社会のためになる挑戦を、常に続けます。

  5. 我々は、誰よりも早く、正確に、行動を起こします。

  6. 我々は、常に現状を疑い、絶えず改善に努めます。

  7. 我々は、全従業員に適切な教育を行い、組織としての成長を続けます。

  8. 我々は、本質から目をそらさず、立ち向かい続けます。

Missionの「はたらく」を敢えてひらがなにしたのには理由があります。
「はたらく」というのは、人が動いて価値を生み出し、その価値と誰かのニーズが繋がることだと定義しています。

言葉遊びの様ですが、言い換えると、「はた」にいる人を「らく」にする。ものです。
「はたらく」をつなげる。とは、誰かの抱えている課題を解決に導く存在であることがより多面的に伝わる様にしています。

これは、アットオフィスだけでなく、グループ共通のMissionとして掲げています。共通のMissionとして掲げることで、グループがこれから進んでいく方向性に迷いが生まれないようにしています。

Visionは、より多くの価値の創造・課題の解決をするためには何が必要か?ということを突き詰めて考えた結果、この言葉が生まれました。
人と企業によりそい続けようと思うと、新たな価値の創造も必要ですし、あらゆる課題の解決をする必要もあります。
顕在的な課題だけでなく、潜在的な課題の解決も必要です。
常に必要とされ、選ばれるパートナーになりたいという想いを込めています。

3.まさか!の事業承継

タイトルにも書いた通り、私は昔から後継ぎになることを決められていたわけではありません。
むしろ全くの逆。
「継がせる選択肢はない」と明言されていました。
そこに対しては批判も不満も無く、そうなんだな。と受け入れていました。

なので、当然ながら、周りと同じような人生設計を描いていました。
就活の時も、未練がましく思われるのも嫌なので、敢えて「不動産」という領域を選択しませんでした。

そんな中のある日、まさか!の事態が発生しました。

「うちに来るつもりはないか?」

父からこう言われたわけです。

私はもう、その時は衝撃で脳内真っ白でした。笑

実は、この誘いに対して、2つ返事でOKをしていません。
数年かけて口説かれた末、決断をしています。


リスクとリターンの天秤

なぜ断っていたのかと言うと、最初は想像できなかったからです。
そして、調べていくうちに、だんだんと怖くなってきたからです。
単純にリスクとリターンの天秤をかけた時に、リスクの方が大きいと感じました。

前職ではそれなりの立ち位置を築き上げたと感じていたところです。
しかも、企業の体力と国内への影響度を考えれば、倒産するリスクは限りなく低い。
このまま働いていれば、確実に出世はできるだろう。
死ぬまでは家庭を守れるだろう。
そう考えていました。

しかし、2018年に転機が訪れます。

この年、大阪の北部地震(6月)・西日本豪雨(7月)・北海道の胆振地震(9月)
が立て続けに発生しました。

この影響で、前職の工場がそれぞれの地域で全て被災をしました。
特に、西日本豪雨の被害は酷く、3階建てくらいの高さがある工場が文字通り"水没"していました。

コンマ数mmの差が品質に対して影響を及ぼす業界です。
ましてや、人の口に触れるものです。
当然、品質の担保ができなくなり、イレギュラー対応を強いられます。

無い袖は振れないのだから、欠品にしたら良い。
と皆さん考えると思います。
しかし、欠品することで発生する国内への影響を考えると、限界ギリギリ迄その判断はしません。
限界ギリギリ迄、です。

大企業は仕組みで動きます。
なので、その仕組みが破綻するとそれは悲惨なものになります。

私は、その時の経験が今となっては大きな成長につながったと考えています。
しかし、身体は疲弊し、精神もボロボロになったこともまた事実です。

将来を考えたとき、災害大国の日本で同じことが起きないと言えるだろうか?

こう考えました。

そして、この経験の中で、最も私が嫌だと感じたことは、有事の際に「家族の心配をし続けられない」ということでした。

どういうことかと言いますと、例えば地震が発生したらまずは家族の安否を確認しますよね。
その後、家族の安全を確保し、共に不安な時を乗り切る。
というのが、一般的だと思います。

しかし、製造業の場合は、そこからPCを開き、在庫の確認と出荷予定の確認をします。
本当に家族を支えたいときに、家族だけを心配することができないのです。
直ちに在庫の心配をしないといけないのです。
これが私にはどうしても耐えられなかった。

この経験から、製造業は私の求める理想とは異なる。ということに気が付きました。
私は、家族が何よりも大事だということが明確になりました。

そうなると、リスクとリターンの天秤が大きく動きます。
加えて、アットオフィスがメインで取り扱うのは、無形商材です。
これはチャンスだと思うようになりました。

愛する長女と

「2代目」はダサい?「自信」が持てない。。

しかし、まだネックがあります。

それは、「2代目」に対する日本のイメージと「自信」の無さです。

あの。。。
「2代目」って、ちょいとイメージ悪すぎやしませんか?笑

「3代目」以降は、老舗ですねぇというイメージがあるのですが、「2代目」となると、さぁいつ会社をつぶしちゃうのかな?という値踏みをされる感じがあります。

特に私は、不動産のことを全く知らないわけです。
不動産業界で修行をしていれば、美しいストーリーが描けたかもしれませんが、それもない。
経営も知らない。わからない。
「自信」は過去の自分の経験の積み重ねでしか得られないと思っていますので、当然「自信」もない。
根拠のない「自信」は持てないタイプです。

その膠着状態を変えたのは、2つの出来事でした。

1つ目の出来事は、「アトツギが日本を救う」という本との出会いです。
アトツギが日本を救う ――事業承継は最高のベンチャーだ―― | 山根 太郎 |本 | 通販 | Amazon

山根社長も同様に親族承継をされています。
詳細はぜひ、著書を手に取っていただきたいので割愛いたしますが、私は以下の学びを得ました。

・承継元が生きているのは、とても恵まれている
・アトツギってかっこいい
・自然と普段の生活の中で、経営に必要な哲学は伝えられている

山根社長と比較すると、自分はなんて恵まれているのだろう。と思いました。
そして、世間と同様に私自身も抱いていた「2代目」のイメージの悪さが無くなりました。
事業承継をし、会社を存続させ、成長させていくことは、今後の日本を考えたときに最も求められることだと感じました。

私は日本が好きなので、国内の社会課題を大いに解決をしたいと思っています。
その中で、中小企業の廃業という社会課題。
この解決の当事者に自分がなれることは、なんと誇り高いことかと思うようになりました。

「2代目」のイメージの悪さは全くなくなり、心が「やりたい」と叫ぶようになりました。

そして2つ目の出来事は、父を慕う経営者の方々との出逢いでした。
私は父を含め、両親をとても尊敬しています。
就職の面接でも、義理の父との挨拶でも、そう答えているくらい。
それは昔から変わっていません。
ただ、それは家族だからだろうなと思っていました。

しかし、それは違いました。
私の父は、非常に多くの方から尊敬を集めていました。
それも、"社長"と呼ばれる方々からです。
一国一城の主からここまで尊敬されるのは、並大抵のことではないと思っています。

父を慕う経営者の方々と出逢い・会話をしていく中で、私の父に抱く尊敬の念には客観性があることがわかりました。
これは、事業承継を考えなければ気が付かなかったと思います。

経営者には多くは「メンター」と呼ばれる方がいます。
簡単に言うと、色々と悩んだときに相談し、その経験値を元に解決に導いてくれる存在です。
それが私は、幸運なことに父になるわけです。
なんと心強いことかと思いました。
自らはまだ何物でもないが、父は相当な傑物だ。
ならば、それを学び取って成長していけば、できないことはない。

「自信」が生まれ、頭で「できる」と確信しました。

心が「やりたい」と叫び、頭で「できる」と確信したので、私は事業承継をする決断をしました。
このあたりのストーリーや心の機微を改めて誰かに詳しく話したことは無かったので、とてもむず痒いのです。笑

愛する家族と

4.今後の30年を見据えて

私は、この記事を書いている時は、32歳です。

働く月日はまだまだ長い。

当然ながら、まずは自分の家族を守るため、少なくとも30年は事業を継続させる必要があります。
また、継続させるだけでなく、日本の社会課題の解決・ついてきてくれている社員の生活のためにも、組織の成長は欠かせません。

とある経営者の方に、「経営は逆算だ」と教えていただきました。
まったくもってその通りだなと思います。

では、2053年はどうなっていたいのか。
売上で言えば、グループで「1,000億円」。
知名度で言えば、「全国」規模に拡大したいと思っています。
誰もが、オフィスのことで困ったら、アットオフィスを思い出します。
そして、その時の社会課題を解決するサービスをグループで提供いたします。
Missionで掲げた、「はたらく」をつなげる。
これをグループ全体が実現している状態を目指したいと思っています。

ではでは、それを達成するためのマイルストーンをどこに置いていくのか。という話になります。
まず、2038年には、オフィス仲介という業界で、1位を獲得したいと思っています。
それなりに歴史のある業界なので、1位になるには時間がかかります。
それを実現するためには、着実な成長と、圧倒的に生産性の高い環境作りが欠かせません。
労働集約型なので、社員は最も重要な資産になります。
そのため、社員が着実に効率的に成長できる体制を構築し続けます。

直近3年以内としては、同業他社と比較して、"何か"で1位を獲得することを目指します。
その具体的な"何か"はまだ明かせませんが、全てのお客様が弊社を選ぶ必然性を構築したいと思っており、鋭意構築中です。

ブレない軸は、今より少しでも明るい世の中の実現。です。
手の届く範囲だけは、明るく照らしたい。
そしてその手の届く範囲を、広げていきたい。
実現のため、様々な手段を考えていきたいと思っています。

5.最後に

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

初めてのnoteで、正直勝手がわからずに書きすぎた感が否めません。笑

ただ、これを読んでもらい、「谷 健太郎」や「アットオフィス」について、少しでも理解が深まったのであれば、書いたかいがあります。

今後も継続的に発信をしていきたいと思っていますので、乞うご期待くださいませ。

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