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出産〜生後半年記録③

産後、入院中の記録から。
時間軸あいまいです。

入院中の記録

朝方の出産だったため、入院部屋に入ってからは朝食を済ませ昼前まで爆睡した。(赤さんはステーションでお預かり頂いた)
この日の朝食はフルーツサンド。疲れた身体に甘さが染みた。

昼過ぎの授乳時間からお世話スタート。
抱っこの仕方から、おむつ変え、調乳までをひとつひとつ看護師さんに教わる。
初対面同士、なかなかペースが合わない。
そわそわ不慣れながら、初回お世話を終える。
下手くそで申し訳ねぇ気持ちでいっぱい。
自分の幼児期にメルちゃんのお世話はしてこなかったけど、赤さんの洋服を整えたり大事に扱う手付きは習わずとも知っていた。
自分こんな事出来たんだ、と不思議だった。 

それからは、3時間ごとの授乳時間に授乳室へ通う。

バースプランには混合授乳、と記入したが、実際どんなものか想像出来ていなかった。
母乳って出産が終われば自然に出るもんかと思っていたが、いきなりブシャーとはいかなかった。
どうやら自分のは初産で出ない上に吸いづらい形らしい。
親は不慣れで咥えさせるのひとつ手間取る。その上に吸いづらい、やっと吸えても出ない。娘はひどく泣いた。助産師さんが咥えさせる。その手付きが強引でびびる。泣き声。咥えさせる姿。…結構メンタルに来る。申し訳ねぇ…申し訳ねぇ…とひたすら心で謝った。
泣き声から逃げるようにミルクを作って飲ませた。娘も飲めることに安心して泣かない。ちゃんと飲み干せる。…これで良くないか?
げっぷも不慣れ。出たのか出てないのか分からない。身体ぐらぐら。わからない。わからない。
この歳になって、これだけ生きてきて、まだこんなにも自分がうまく出来ないことが世の中にあるのかと、ひどく落ち込んだ。

最初の2日間は、夜間はナースステーションでのお世話をお願いしゆっくり寝た。元々うつ持ちのため、寝不足は危険だと思った。産後うつになるのは絶対避けたかった。少しでも寝て回復すべきだと思っていた。
その後も授乳の時間だけは相変わらず逃げ出したかったが、お世話は楽しかった。ずっと顔を見て触れていたかった。

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入院してすぐの頃は、他のお母さんは皆さん経産婦さんだった。
そんな中でひとり授乳室で不慣れにそわそわしている自分が恥ずかしかった。娘を大泣きさせ、まともに出ない母乳を一生懸命咥えさせている自分が恥ずかしかった。みじめだと思った。
またしても逃げるようにひとり、入院中の部屋でミルクを飲ませた。

お世話が終われば、赤さんは落ち着く。
眠るまでの間、抱っこしたり手を握ったり、とにかく可愛くて幸せな時間だった。どんな仕草もすべて新鮮で愛らしく見えた。

授乳時間中、心では逃げ出したいわたしに代わる代わる助産師さんが声をかけてくださった。
マッサージの末(激痛)、初乳が出た。ほんとに少量。それでも、娘の口元へ運ぶ。初めて自分にしか出来ない、母親らしい事が出来た。この上ない多幸感だった。

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いよいよ夜間のお世話にチャレンジする日。
授乳時間の合間はほとんど寝れなかった。
「ミルクの間隔は3時間」の呪文に囚われる。助産師さんに相談しまくり、(この子のペースで行こう…肌感覚で合わせていこう…)の考えが芽生える。

母乳の量は少しずつ増えていた。
けれど、上手に咥えさせることが出来ず、娘は嫌がった。抱っこで咥えさせる姿勢で構えると泣き出すようになった。辛かった。
搾乳も行った。最初は数滴ほどだったのが、瓶底に溜まるほどになり、飲ませることができた。嬉しかった。自信になった。
けれど同時に、「これ(直母)を頑張るのは自分のメンタル的に良くないかもしれない。わたしのエゴだ」と思うようになった。
心にブレーキがかかった。頑張りすぎないことにした。

夜間のお世話を乗り越えた自信。授乳方針の確立。
今までよりも助産師さん達に質問しまくり、不安を潰した。
娘に対しても、最初は「お人形さん」を愛でそっと触れていたような接し方だったが、いつの間にか「人」のお世話をしているという責任を背負っていた。
退院前には、余計な肩の力が抜けてすっきりやるべき事に集中している感覚だった。

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夫は出生日の夕方には会うことが出来た。
お互い満身創痍な顔つきをいたわりながらも、娘との初対面をじんわり噛み締めているように見えた。
夫はこわごわながらも、上手な抱っこだった。
娘は夫の腕の中にすっぽりと収まっていた。

二日目夜にはお祝い膳を頂き、夫と久しぶりに二人で向かい合って夕食を取った。
産後すぐにはテレビ電話で報告していたが、面と向かって「終わりましたね」と挨拶したのはその時が初めて。
やっと、やっと、やったよ、と、お疲れ様、と。
目頭がじんわりあったかくなった。

両親や祖母も順番に面会に足を運んでくれた。
誰も来ない日がないほどだった。

健診にて母子共に異常なし。
無事家族揃って退院した。

退院後、里帰り先にて


里帰り先へ戻る。
いよいよ娘との生活が始まる。
退院したら、自分しかいない。自分でなんとかしないと。
娘の生命を繋ぐことで精一杯だった。

授乳について。
搾乳も日に数回行っていたがほぼミルクのみだった。相変わらず構えると泣き出す娘。出来の悪い母さんのそれでごめん。
頻回搾乳ですら辛い…無理だと思った。頻回授乳を行っているお母さん達には頭が上がらない。ほんまに寝不足でメンタル終了する。
また病院では3食とも栄養バランス抜群の食事がしっかり取れていたため母乳量が増えるスピードが早かったが、退院した途端減った。そもそもちゃんとご飯食べるのが苦手な人間だった。そんな母親から出る母乳って栄養あるんか?と自分の母乳が信用できなくなった。
2週間健診にて助産師さんと話し、完全ミルクにすることを決める。祖母の代からミルク育児のみだったことも後々母から聞かされ、踏ん切りがついてしまった。
そのうち胸の張りもなくなり、母乳量も増えなくなった。

里帰り後すぐは夫も育休を取らずワンオペになる予定だった。その時の生活を想像し、己のこだわりを貫いて授乳だけで力尽き夫に家事をさせてみんなヨロヨロ…より、自分にある程度元気を残して家事をこなし、家族みんなが健康で明るく暮らせる方が幸せだ!と考えた。
お世話をするためには、自分がなんとか元気でおれないといかん。
そう自分を納得させ、母乳育児は早くも終了した。

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母と祖母との里帰り先での生活は本当に合わない。
産後メンタルに人間関係の悩みも相まってひたすら辛かった。
ガルガル最盛期だった。
母は毎日仕事終わりにお世話を分担してくれたが、それでも娘に触らせたくなくなる瞬間が何度もあった。
祖母や父にはほとんど触れさせなかった。家族に対する自分のトラウマがあり、心の整理が付かず、娘を守ろうというなかば意地のようなものに囚われ続けた。

期間中、自分のトラウマを初めて母に打ち明ける機会を作った。
自分の心が軽くなった、みたいなことはなかった。昔のわたしが救われた、とも思わなかった。
心の奥底の引き出しをあけっぴろげにして、久しぶりに中身を天日干しした気分だった。引き出しの中身は相変わらずのままだった。

早く自宅へ戻りたがって、里帰り先へ通う夫を困らせた。
まだその時は夫も繁忙月中。自宅へすぐ戻って家族三人での生活がスタートしてしまうのが不安だったのだ。
これは自分のわがままだ、家族みんなの為じゃないことは頭で理解していたが、あらゆるストレスから逃げる方法が他に見つけられなかった。

そのまま予定通り、産前からまるっと2ヶ月余りを里帰り先で過ごした。

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どれも書いている今頃では「あの時は…」で済むのだが。
マミーブレインの回らない頭で、よく必死に悩み、決断してきたと思う。
お疲れ様。

もしまた天使を授かる機会がわたしに訪れるとしたら、当時の記憶をたどりながら、心のブレーキを少し緩めて、母乳育児をもう少し頑張った、と言えるくらいには続けてみたい。と思う。
里帰りはおそらくしない。しんどいので…
それでもわたしの家族はすでに新生児との生活を生き抜いた猛者たちばかりなので!おまけに次はお姉ちゃんの助けもあるので!今度はもう少し生活のあれこれを家族に頼って、育児にチャレンジしてみようと思う。
今回の里帰り出産で、自分と両親や祖母の関係が変化した実感はない。でも自分と夫、娘と作る家族では「任せてみよう、チャレンジしてみよう」と思えたことが、成長の一歩かもしれない。

次回は生後数ヶ月分をまとめて振り返る予定です。

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