避難したのはタヒチだった
2011年3月14日の朝、私たちは成田空港に向かっていた。
フランス人の義理の母が、原発が爆発したニュースを見てパニックになって、慌ててタヒチ行きの便をおさえてくれた。フランス行きの便はすでに満席だったそうだ。義母はタヒチ生まれで、タヒチにたくさん親戚がいるので、タヒチに行くことになった。
生後3ヶ月の息子はパスポートを持っていなかったから、飛行機には乗れないだろうな、とわたしは内心思っていた。乗れなかったら、どうしようか。二人でわたしの実家に行こうか。
案の定、空港で息子のパスポートで一悶着あって、夫はベソベソ泣いてごねた。仕方ない、じゃあ、実家に行こうと思ったら、今度は計画停電で電車が停まっていた。空港で赤子と一緒に野宿するのはしんどいなぁ、と私も泣きたくなったが、泣いてもどうにもならない。
空港の巨大なテレビでニュースが流れていた。ボカンと原発が爆発した。どうやら先日の原発とは違うやつみたいだ。ずっと電気がとまっていたから、私は初めて空港のテレビで震災のニュースを見た。抜けるような青空を背景に、ボカンと元気よく白い煙と共に屋根が吹き飛んでいた。現実感がなかった。
いつまで、わたしはこの空港にいないといけないのだろう。ダメ元で、入管に電話してみた。電話の相手は、とても親身になってくれ、息子はその方の計らいで特別に飛行機に乗れることになった。何かあったら、と持ってきた息子の母子手帳に救われた。母子手帳の1ページ目の出生届出済証明が、息子が日本人であることの証明になったのだ。
飛行機の中で、私たちは久々にぐっすり眠った。
当初、タヒチでの滞在は2ヶ月の予定だった。
色々なニュースが連日報道され、日本に帰るのが不安で気持ちは揺らいだ。2ヶ月の間に、それぞれの実家に避難した友人たちも、帰る人、そこにいつく人、もっと遠くに行く人、色々いた。何が正解がわからない日々。
フランス語を全く話せないまま突然やって来た私と5歳の娘にとってもストレスの多い日々。
帰国するギリギリ間際に、旦那はタヒチで仕事を得た。ならば、もう少し、タヒチにいてみようか、と思った。タヒチに住む。初めての海外生活。この青い海とヤシの木茂る島で、私は生きられるのだろうか。
今も思い出す。夜になると、波の音が大きくなる。一羽の雄鶏が深夜にも関わらず鬨の声をあげる。つられて谷向こうの別の雄鶏が音程の狂った鬨の声をあげる。
満月が、空に浮かんでいる。
それは日本のものより、確実に大きいのだ。そして明るい。明るくて、海面がチラチラと動いている。
ザワザワザワザワと、波の音が響く。
私は胸の辺りがぎゅっとなる。実際に心臓をザラリと握られたような嫌な気持ち。
ここは、世界のはてだ。ぎりぎりの淵に私は立っていて、あと一歩で闇の中に真っ逆さまに落ちていく。
息を吸って、息を吐いて。
本当に、私は、ここにいるのだろうか。
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