自殺しないと実現しないユートピア

この世は腐りきっています。
私のような人間が生きるのは無理です。

万人に適した世界など存在しないのはわかっていますが、この世界は非常に腐っているので私にとっては不適切であるとしかいえません。

私はこの世に生まれてきて失敗でした。
私がこの世に生まれてきて唯一幸福を感じたのは、音楽というものと出会い、そしてそれに関する人物の思想を知ることができた時のみでした。

この世はユートピアではなくディストピアではありながら、私はそういった音楽の世界にいる人物達にインスピレーションを受け、どうにかしてこのディストピアを生き抜いてきました。
また、『メシア(救世主)』の出現により、さらにそのディストピアでの生存方法に磨きをかけることができました。

しかしながら、ディストピアでの生存にも限界が来ました。
ユートピアというものは自殺しなければ実現しないと気付いたのです。
何人にとっても、この世はディストピアでありますが、自殺すれば目の前の世界はユートピアへと変貌を遂げます。
尤も、自殺した者は地獄へ落ちるという説もありますが、私はこの世こそが地獄でもあり天国でもあると考えているため、死んでからわざわざ地獄と称される世界へ行かされるなどあり得ないと思っています。その一方で、死後の世界は死者にしかわからないのであるから、生きている人間である私がいくら「地獄など存在しない」と発言したところで信憑性はありません。しかし、死んだ者の魂は真っ暗闇を彷徨うだけだということは固く信じています。
そして、私の提唱するこの「死後の世界」についての感覚からすれば、このnoteのタイトルのような『自殺しないと実現しないユートピア』というものの実現は不可能に近いともいえます。ただ、現世というディストピアにおいて苦しみながら生存し続けていると、私の想像するユートピアは実現しないというのは動かぬ事実であります。
つまり、生きているよりは死んだ方が良いということです。

では、私が想像するユートピアとは如何なるものなのかを説明します。私の想像するユートピアは、

Kelly GreenやVarg Vikernesの精神性や感覚を基にして数多のメシアから享受した要素によって構築された誰からも理解されないはみ出し者が自由に生存できる世界

というものであります。
Kelly Green氏の自然調和の精神と
Varg Vikernes氏の決まりきった存在への反抗心
これらの精神性はユートピアの実現のためには不可欠です。
そして、私がこの現世というディストピアにおいて出会った数多の素晴らしいメシア達から授かった要素というものもユートピアで生きる際には不可欠です。尤も、ディストピアにおいて使われていた要素は、ディストピアという腐りきった世界を生きるために使われていた要素であるため、ユートピアを生きるとなれば要素に多少の変更をしなければいけないという可能性はあるものの、大方変更は必要ないでしょう。

このようなユートピアの実現というものはなにも私だけが望んでいるのではありません。私がかねてより敬愛し、そしてまた尊敬している人物もこのユートピアの実現を望んでいるでしょう。
私がこの人物と直接の接触をすることが可能であったのならば、このユートピアの実現について話をお伺いしたかったのですが、それは叶いませんでした。その人物との接触を試みましたが、直接の対話は無理でした。
その方はもう外部との接触を絶っています。
例えるならば、まるで某少数民族のような状態におられるのです。
しかしながら、恐らくその方も私が夢にみるようなユートピアの実現を望んでいるはずです。私はその方の記した書物等を熟読しましたが、私と近しい考えを持っていらっしゃるとわかりました。私と近しい考えなどというのは畏れ多いのですが、このディストピアで唯一みつけた思想の近しい人物であるということを強調するためにそのような表現をさせていただきます。

それから、私は特に『自然との調和』に重きを置いています。誰も見ていませんが、以下のnoteに自然との調和に関する事柄を記したので是非読んでください。

https://note.com/happy_quince813/n/n3a38fa7458ae

私は現世というディストピアから抜け出し、Kelly氏やVikernes氏、そして数多のメシアと尊敬しているその人物と共に新たな世界で新たな自分を構築するという固い意志を胸に秘めております。
ディストピアに生存する私という人間の終焉は近いです。

自殺しないと実現しないユートピア。
これは現世においては『我が儘』とか『頭がおかしい』と評されるものであります。

腐りきったこのディストピアに敢えて気を遣うのならば、そういった我が儘とか頭がおかしいと評される私の『ユートピア実現』という目標はせめて死後の世界で達成するのが良いということです。
これはもちろん単に気を遣ったからそのような思考に至ったというだけでなく、この腐敗したディストピアにおいては私の夢みるユートピアの実現は不可能だと信じているからです。

現世というディストピアを放棄して死後の世界においてユートピアを実現することは、実はこの世の人間達に本来であれば必要な行為です。
しかしながら、誰もそれを実現する勇気がないため、現世というディストピアでもがき続けているのです。
ディストピアの仕組みが変わらない限り、この世に生きる人間達にとっては
「ディストピアで苦しむ」
「死後の世界でユートピアを実現させる」
これら二つしか選択肢がありません。


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