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怪談ウエイトレス その5

5,糸ループ

 野木ちゃんが、今なら大丈夫と言って出ていってしまった。いつもは変な髪型のマスターがいるけれど、今日は野木ちゃんが一人で店番をしていた。その野木ちゃんも出ていった。今は坂寄一人だ。
 大丈夫ってなに、誰もこないってこと?と思いながら、好奇心に負けて坂寄はカウンターの中に入った。床はコンクリートで足が疲れそうだ。グラスやピッチャー越しに見る喫茶まりもは、いつもとまったく違って見える。
  野木ちゃんとは、勤務先の近くの公民館で半年期限で開かれていた手芸教室で知り合ったのだが、あなたは失敗の見本のような生徒だとよく先生は笑っていた。柄の向きを考えずに布を切ったり(そのくせすぐに柄物の布を持ってくる)、布を中から引き出すための返し口をしっかり縫いあわせてたり、糸ループを作るための輪を無限にでかくして椅子から立ち上がって騒いでいたり。ブラウスとスカートを縫ったところでだいたいのことはわかったと言って、まつり縫いとコの字とじを混同させたままやめた。
 その野木ちゃんが、いまはコーヒーを淹れたりケーキを作ったりしているのだが、さっきも冷蔵庫を開けて、やべえと呟いていたのではっきり言って不安しかない。でも、いま飲んでるアイスコーヒーは美味しい。
 私がここでこうしていると、いろんな人がくるのだと野木ちゃんは言う。そりゃそうだろう、店なんだし。
 そうじゃなくて、変な話をする人ばかり来るんだよ。たとえば、奥の席で本読んでた人いたでしょう。あの人は、未完の小説しか読まない。終わらないから靄に包まれていて怖くない、結末があると怖くて読めないって言うから、それが本では?って聞いたら、怖い話をして帰っていった。
 どんな話だと尋ねると、とても長いというので聞かなかった。
 夢の中にいつも知らない女が出てきて、さっきまでいた客がその人ですとか。
 それは、ストーカー。
 さっき会った人が、誰だかわからないって悩んでたり。
 そんなの、よくある。
 いつも六人組の幽霊を見る女の子。
 それは嘘くさい。その人たちって、強烈にさみしいんじゃないかな?坂寄がそう言うと、野木ちゃんはそれは短絡的にすぎると反論した。
「だったら坂寄も、なんかあるってことになる」
「なんでよ。私は野木ちゃんの友達で手芸仲間だからここに来たんだけど」
「そうだね。ところでさっき、アイスコーヒーにガムシロップを二つ入れたね」
「ああ、最近仕事がハードだったから、疲れが溜まってるんだよ」
「二日前に来た時は、ブラックを飲んでたよ?」
「そうだった?でも、それが何?あー、もしかして、野木ちゃん私からも変な話、引き出そうとしてない?そういうの、ないから」
 野木ちゃんは笑いながら、バナナマフィンをすすめてきた。お客にもらったお土産だというので、眉間にシワを寄せていると、これはマスターがもらったものだから大丈夫だとよくわからない説明で納得させられたが、生クリームをたっぷりつけてくれた。
 マフィンはしっとりしてクリームの甘さがちょうどいい。お菓子作りが得意だった友達のお母さんを思い出す。

 「ところで、どうしてそんなに疲れてるの?」というので、きたな、と思ったけれど、話してあげた。

 さっきちょっとミスして、ばたばたしてさ。
 取引先の人から電話がかかってきたんだけど。ふだんはメールの人だからよほど急いでるのかなと思って、メモをとりながら話を聞いてたの。電話を切ってそのメモを見たら、一文字もわからない。汚くて読めないとかじゃなくて、文章としてまったく意味をなしてない。電話の内容を思い出そうとしたら、ついさっきなのにお世話になってます、と、失礼しますしか思い出せない。しょうがないから、ともかく平謝りする覚悟でもう一回電話したんだけど、相手の人が電話に出るなり、ああ坂寄さん電話してくれて良かったって言うわけ。今の電話、自分、何を言ったか自信がなかったんです。それで私もメモを取り忘れたてっ言って、お互いに確認し合いながら電話を終えたんだけど、まあ、意味不明のメモを書いたとは言えなかったよね。そのあと、どっと疲れちゃって。

 野木ちゃんは別に真剣、というふうでもなく聞いていた。そのほうが坂寄にとってもよかった。それにこれは、別に変な話なんかじゃない。お互いにありえないくらい疲れていたというだけだ。

「その文字は、まだある?」
「文字って…ああ、メモのこと?もちろん捨てたよ」
「嘘だね、捨ててないと思うな」
「何言ってんの」
「ところで、相手の人は最初の電話で何を言ったんだろうね。もしかすると、坂寄は正しいメモをとったのかもしれないよ」
「ますます、何言ってんの?」
「うそうそ。お互い疲れてたんだね。もう一切れマフィン食べなよ」

 あのとき、一回目の電話のとき自分はどこにいたんだろう。なぜだか、野木ちゃんの糸ループを思い出す。輪のなかに針を通して、それを何回も繰り返していくとより合わさった糸のロープができて、それを輪っかにしてループが出来上あがる。坂寄はあの手芸教室で一度も間違えたことがなかった。

 マフィンをつついていると、野木ちゃんが急にうえっとかうごっみたいな奇声を発した。
「なに、どうした?」
「やばい。牛乳注文し忘れてた。すぐそこの紀ノ国屋に行ってくるから、ちょっと待っててくれる」
「え、でもお客さん来たらどうするの?」
「来ないって。今なら来ても大丈夫だから。適当に相手しといて」
「は?なにそれ」
 それから戻ってこない。

 窓の外に人がいる。石段をゆっくりあがって、ドアに手をかける。カウベルがチリンと鳴った。少し大柄の、四十代半ばくらいだろう、外回りの仕事をしているという感じがする。持っている鞄は大きい。アイスコーヒー、と言われなかったら本当のことを言って帰ってもらうか、野木ちゃんが戻るのを待ってもらうつもりだった。
「ちょっとお待ち下さい」
 冷蔵庫にはさっき野木ちゃんが坂寄に入れてくれたアイスコーヒーらしきガラスポットがあったので、カウンターに洗い上げられたグラスに製氷機から氷を数個すくって入れた。

「今日は暑いですね」とガムシロップを注ぎながら、客が言う。
「ええ、とても」
「私、こんな日に、誰もいないプールでひとりで背泳ぎをしたことがあるんですよ」
「それは気持ちがよさそうですね」
「ええ、とても。最初はとても良かったんですよ。でも途中から変なことがあっったんです」
「何かあったんですか?」
「泳いでいた他の人たちが、急にいなくなったんです」
「何があったんですか?」
 客はそれには答えずに、
「ところでこの店は、妙な話をする人が集まると聞いたんですが、今日は私のほかにお客さんは誰もいないようですね」
「そんな話があるみたいですね」
「じゃあ、あなたはいつもの人じゃないんですか」
 そう言って、客は、坂寄が座っていた席をちらりと見た。ほかに誰もいないのに、グラスと皿が置かれたままなのを、不審に思っている顔だ。あわてて自分はヘルプで、と誤魔かしながらテーブルを片付けた。
「旅先で会った変わった男からこの店のことを聞いたんですよ。たまたま近くに寄ったから来てみたんですが」
「どんな話でしたか」
「六人組の幽霊がいるとか、そんな話です。甘いものが食べたいな。なにかありますか。ケーキとか」
「マフィンなら」
 残ったマフィンに、ボウルから生クリームをたっぷり添えた。
「ところで、プールで何があったんですか?」
「ああ、さっきの話。そういえば、途中でしたね」
 マフィンをほとんど一口で食べ、クリームを舐め取るようにすると、客は窓のほうを向きながら、話し始めた。

 そのプールは、はじめから人がいなかったわけではありません。泳ぎ始めたときはたくさんの大人や、やっと足がつくようになった子供もいました。なかなか前に進めないので、のんびり背泳ぎをしていました。
 半時ほど泳いで、ふと気がつくと、さっきまで騒がしかった子供の甲高い声が聞こえない。すごく静かなんですね。水から出て周りを見ると、驚いたことに、誰もいません。帰るには日はまだ高い。外の食堂にでも行ったのだろうと思って、再び泳ぎ始めました。今度は背泳ぎの腕をかき回さないで、足だけをゆるく動かしながらぼんやり水に浮いていました。日差しがゴーグルを透して、まろやかにまぶたに届いて気持ちが良かった。
 しばらくそうしていると、だんだん不安になってきました。空気がさっきまでとは違っているような気がしたんです。体を回転させて水の中に潜ると、コースを仕切っている黄色いロープがなくなっていました。営業時間は夜の七時までですから、片付けるはずがない。あわててプールの縁に向かおうと、クロールになりました。途中で空気を求めて水の外に顔を出したとき、視界にピンク色をした小さなものが見えました。プールから出た足が触れたのは、ざらざらしたコンクリートではなく、きれいに手入れされた芝生でした。目の前にはピンクのバケツ。子供が砂場で遊ぶあれです。泳いでいたときに一瞬目にしたのはそのバケツだったらしい。足元には、ビニール製の子供用プールがあって、オレンジや黄色のマリーゴールドの鉢植えに、サルスベリの木に小さな赤い花が咲いているのが見える。
 そこは誰かの家の庭先だったんです。市民プールで背泳ぎをしていたはずがいつの間にか子供用プールに流れ出してしまった。寝ぼけて、どこかの家にさまよい込んでしまったのかと自分を疑いましたが、あれこれ考えている時間はありません。目の前には白い外壁の二階建ての家がじっと見下ろしているし、こんなところを家の人に見つかったら大変なことになります。とはいえ、水着のまま道に出ることもできない。ボロキレでもいいからなにかないかと周りを見渡すと、縁側にシャツと、短パンがたたまれて置いてあるのを見つけました。縁下にはご丁寧にサンダルまであったので、迷いましたが、とにかく大急ぎでそれらを身につけて門扉に向かおうとしたときです。目の前の通りを、大きな帽子を被った女の人が歩いてくるじゃないですか。
 とっさに隠れようとしたけれど、間に合わない。帽子の人は、私を見てとても不思議そうな顔をしました。もう終わりだ。そう思っていると、女の人がひとこと、「出かけるの?」と言ったんです。思わず「うん」と答えていました。それから彼女と入れ替わるようにその家を出ました。いってらっしゃいという声が聞こえて振り返ると、もうそこには誰もいませんでした。

 客はそこで顔をこちらに向けた。

「それで終わりですか?」
「ええ」
「そのあとどうしたんですか?」
「なんとか歩いて、家にたどり着きました」
「着ていった服は?プールのロッカーに置きっぱなしですよね」
「翌日尋ねたけど、そこにあったはずの自分の服はなかった。忘れ物もなかったと」
「借りた服は」
「今でもタンスにありますよ。靴は下駄箱に」
「その女の人も、その家の住人ではなかったとか」
「さあ。そうかもしれない」
「どこからが、作り話なんですか」
「どうしてそう思いましたか」
「怖さを感じるのはその家にいたときですけど、現実問題としては、そこからどう逃げたかですよね。そこが空白でしたから」
 その通り、と言って客は笑った。
「ぜんぶ作り話です。いや、違うな。背泳ぎをして人がいなくなったところまで。本当に誰もいなかった。一瞬だけどね。とても怖かった。ところであなたは、この店の客なんでしょう?」
 客は立ち上がると、アイスコーヒーのお代を置いて帰っていった。このまま野木ちゃんが帰ってこなければ、それこそ妙な話になる、と思いながらグラスと皿を洗った。それからすぐに、野木ちゃんが大汗をかきながら、牛乳売り切れててと言いながら転がるようにまりもに入ってきた。

その6 鬼に続く

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