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海の絵画展

 その絵画展に、なぜ行く気になったのかはわからない。

 日曜の朝、はやくに目を覚ましてしまった俺は、水を飲んだあともう一度ベッドに潜り込んだものの、どうしても眠れなかった。なんとなく部屋の片づけをしたりして過ごしているうちに、腹が減ってきたんだが、冷蔵庫の中が空っぽだったので家を出た。

 駅まえのコンビニで何か買うつもりで歩いていたら、踏切が鳴り始めた。隣の駅にホットケーキをやすく食べられる店があったことを思い出した俺は、そのまま電車に乗ってしまった。

 コーヒーとホットケーキを食べて、会計をしようとしていたらレジカウンターにポストカードが置いてあるのが目にとまった。暗い海の絵だった。
 じっと見ていると、ウエイトレスが一枚どうぞと言うから断るのも悪くて、なんとなくポケットに突っ込んだ。
 絵画展のお知らせだった。
 家とは反対方向の、しかも随分と遠いそこへ、なぜ足を運ぶ気になったのかはわからない。

 小さな会場には、誰もいなかった。
 入ってすぐに目にはいったのが海の絵だ。晴れた空の下の凪いでいる海の絵。穏やかな浜辺の絵。灯台が照らし出す夜の海。どれも海だ。俺は一枚一枚を、丁寧に眺めていった。絵の中の空はだんだんと暗くなり、海もまたそれにあわせるように泡だっていく。

 なんとなく不安な気持ちになった。
 
 室内は壁で区切られていた。といっても、壁によって個別の部屋にわかれているのではない。途切れた壁がそこかしこにあるのだ。来場者が作品をたどりやすいように、壁で誘導しているのか。ひと目で見渡せないように、少しずつ絵を隠す効果もあるのかもしれない。

 最後の空間では、海の上で船が揺れていた。いや、揺れているなんてものじゃない。どの絵の中も嵐だ。船員たちが甲板で手をあげたり叫んだりしている。その中の一人と目が合った気がして、俺は思わず、う、と声を出してのけぞってしまった。

 ふと、顔につめたい水が飛んだ。雨漏りかと天井を見上げたが、部屋が暗すぎてどこから水が飛んできたのかわからない。
 どこかの窓が開いているのか、湿気った風が吹いてくる。こういうのは絵によくないんじゃないか、といらぬ心配をしながら周りを見渡したが、受付には誰もいなかった。俺がここに入ったときには、切符を受け取った女の人がいたはずなのに、いつの間にか受付用のテーブルも片付けられている。

 今日はもうおしまいなのだろうか。朝一番の客だと思ったのに。
 俺は再び絵に目をやって、驚いた。船が転落して船員たちが海に投げ出されているのだ。そんなわけがない。さっきまでは確かに船からこぼれ落ちまいと、必至に甲板にしがみついていたはずだ。
 俺ははしからはしまで絵を確認して回ったが、どの船にも人の姿はなかった。もちろん船の中まではわからないが、なんとなく誰もいないんじゃないかという気がした。少なくとも、生きている気配はないというか。
 
 何を考えているんだ、と思う。生きている気配?そんなもの絵にあるはずがない。少なくとも、俺にそんな大層な鑑賞眼はそなわっちゃいない。
 もう出ようと踵をかえしたとき、足元がぐらりと揺れた。地震かと思ったが、それにしては揺れ方がおかしい。まるで大きなシーソーに乗っているみたいに、右に左に交互に揺れるのだ。
 俺は、顔にあたった飛沫や湿った風のことを思い出した。まさか、俺自身が海にいるんじゃあるまいな。展覧会場がいつの間にか船になっていて、外は大嵐で、ここから出ると海のなかに飛び込むことになるなんて…。
 
 ともかく誰か探そうと俺は館内を走り回った。だが、他の絵が展示されている場所にも、受付にも誰もいなかった。叫んでも、誰もやって来ないし、扉はがっしり閉まっている。俺がいることを知らずに鍵でもかけてしまったのだろうか。足元を水が流れている。

 パニックになりながら走っていると、地下に降りる階段を見つけた。迷ったすえに下りることにした。そこには海の気配が、まったく感じられなかったのだ。
 思ったとおりだ。そこは非常用カプセルとでもいう部屋で、棚には一年は持ちそうな食料や日用品が置いてあり、ベッドもソファもラジオもあった。壁中に、青い空やら草原やら湖やら、とにかく牧歌的なの絵が飾ってある。かわいらしい犬を連れた女が歩いている絵もある。
 

 そうはいくかよ。と、俺は思う。
 こんなのあまりに簡単過ぎるじゃないか。晴れた空と草むらと犬とかそんなもの。俺が好きなのは曇った空だよ。
 うそだ。
 ほんとうの俺は何もかもどうでもいい。生きていることもどうでもいいのだ。俺はでも、波風立てられるのが一番嫌いなんだよ。
 
 とにかく俺を、普通の日曜日に戻してくれ。


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