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7分

  鍋の湯が沸いて、啓太は引っ越祝いにもらったデジタル時計を見上げた。ちょうど午後6時40分になったところだった。一人暮らしのアパートのキッチンの窓からは、仕事帰りらしき靴音が聞こえている。
  湯の中にインスタントラーメンを入れ、冷蔵庫に貼りつけてあるマグネット式タイマーに手を伸ばす。最後に使ったときのまま3分になっているから、啓太は機械的にスタートボタンを押した。
  タイマーには分と秒のふたつとスタートとストップがひとつになった三種のボタンがあるだけで、リセットボタンがない。時間がきてタイマーが鳴り出したら、スタート/ストップボタンを押せば、また最初の時間が表示される。時間をゼロにリセットしたいときは、分と秒のボタンをふたつ同時に押すのだが、そもそもラーメンを作るときにしか使わないので、啓太はまだ一度もそのボタンを押したことがなかった。
 
 それは別れた彼女が自分の家から持ってきたものだった。彼女は料理を作る度にタイマーを使った。レシピに時間の表示があればその通りにセットしたし、米が炊きあがるのに合わせて餃子を焼くためだったり、洗濯物の漬け置き洗いとか、この部屋から帰るまでの時間を計るのにタイマーを使うこともあった。
「あと30分だけいるね」
  タイマーをセットすると、彼女は少しほっとしたような表情を浮かべる。
「明日、一限からだよね。大丈夫?」
「だいじょうぶ。帰ったら30分で寝るから」
  そんな彼女だから料理は必ずレシピ通りにつくるし、何事もルールに沿わないと気持ち悪いのだとよく言っていた。
「別に几帳面とか、まじめとかじゃないんだよ。ただ、ルールを守っていると楽だから。はみ出たらその分自分でなんとかしなきゃいけないでしょ」
「別にはみ出たら出たでいいと思うけど」
「啓太は、はみ出たことに気づきもしないタイプだね」
  別れたとき、部屋に置いていた本やブラシは持って行ったのに、このタイマーだけ置いていってしまったな。新しい生活には新しい時間、ということなのか。単に忘れただけなのか。 

 麺をかき混ぜながら、することもないのでラーメンの空き袋をながめてみる。スープの上にきれいにそろえられた麺が浮かび、その上にはチャーシューとコーンとゆで卵とほうれん草らしき緑のものがっのっている。インスタントラーメンを食べるのに、こんな面倒なことをするやつなんかいるのかな。
  そんなことを考えながら、ふと3分というのはこんなに長かっただろうかという気がしてきた。壁の時計を見あげると、6時45分だった。すでに5分が過ぎている。タイマーは、と見れば、残り2分だ。慌てて火を止め、粉末スープを溶かしてどんぶりにうつした。
  ふやけた麺を啜りながら啓太は考えた。タイマー的には1分しか経過していなかったことになるけれども、麺を入れたときは確かに6時40分だった。単純に考えれば故障ということになるのだが、タイマーというのはそういう故障の仕方をするだろうか。表示が薄くなるとか、音が出なくなるというのが普通ではないか。
 麦茶を注ぎ足すために冷蔵庫を開けようとして、啓太は手を止めた。タイマーがまだ動いているのだ。さっき止めるのを忘れたのか?残り時間は10秒だ。
 5、4、3。
 2秒になったとき、叩くようにストップボタンを押した。表示が7分に変わった。
 7分?
 ということは、はじめから3分じゃなく、7分にセットされていたのか。それなら残り2分だった計算が合う。
  啓太は、麦茶を注ぐのも忘れて考える、7分というのはなんだ?蕎麦なら4分半、乾麺のうどんなら10分かそれ以上。でも、そんなもの学食でしか食べない。
「あ、パスタか」
  思わず、声が出た。
  最後に彼女が作った料理が、パスタだった。レトルトのパスタを作りながら同時にサラダときんぴらを作っていた。なんか変な組み合わせだとったけど、確かにパスタのゆで時間は7分だった。そしてあの時も、残り時間2秒で啓太がタイマーを叩いたのだ。
「あ、なにするの」
  と彼女は抗議した。
「なにって?」
「ちょうどゼロになってから消したかったのに」
  それで音がうるさいから、と言い訳をしたんだ。
  それにしても、以来自分はラーメンを食べていなかったのだろうか。思い出そうとしたが、はっきりしない。食べたような気もするが、あるいはタイマーをかけ忘れて時計を見て確認したのかも知れない。
 
 どうでもいいといえば、どうでもいい出来事だった。でも、今日はやけにいろんなことを思い出す。
 
 どんぶりを洗っていると、テーブルに置いていたスマホが鳴りだした。大学の藤本からだ。壁に掛けたデジタル時計を引っ越し祝いにくれたのはこの藤本だ。マージャンやっているんだけどメンツが足りないから来ないかと言うので、行くとひとつ返事をして時計を見ると、7時14分になったところだった。上り7時28分の電車があることを啓太は記憶している。アパートの前を走る私鉄は、末尾の数字がほとんど8だから覚えやすい。駅までは歩いて7分弱だから、7分以内に支度をすれば間に合う。
 
 啓太の頭の中で、架空のタイマーが動き出した。トイレに1分、手を洗って着替え終えたところで5分。ふと冷蔵庫を見ると、またタイマーが動いてる。残り1分だ。何かのはずみに触って、またスタートさせてしまったのだろうか?
 まあいいか。ちょうど家を出るまでの時間とリンクしているし。
 啓太はキッチンの流しタイマーを見ながらうがいをすることにした。うがい薬のボトルには30秒間ゆすいでくださいと書いてあったので、タイマーが残り30秒になると同時にうがい薬を口に入れた。ぴりぴりするミント味が口の中で転がっている。5、4、3…。残り2秒で急に胸がむかついて、薬を吐き出してしまった。流し台につかまりながら、耳元にあのぴぴぴぴという耳障りな音がするのを待っていたが、顔を上げて口を拭いてもまだタイマーは無音だった。ただし、数字は7に戻っている。
 やっぱり壊れかけていて、おそらくはちょっとした震動か何かで7分を刻みだすのだろう。 壁の時計を見上げると7時21分になったところだったので、啓太は部屋を出て駅への道を歩きだした。

 電線に届きそうなほど枝の伸びた柿の木のあるマンションが見える。
 ここはアパートから駅までの中間地点だ。ポケットからスマホとりだして時間を確認すると、いつもより早足で来たのにもう3分半を過ぎている。
 啓太は早足になった。踏切が鳴り、列車が近づいてくる音がしてきた。急いで改札を抜けようとすると、疲れた顔をした乗客たちが押し寄せてきた。合間を縫うように階段を駆け降りる。車掌が独特なイントネーションで発車を告げており、ホームの時計は7時27分58秒をさしている。

 大丈夫。あと2秒あるはずだ。右足を車体にすべりこませると同時にドアが閉まり、列車が動き出しても啓太の本体はまだ電車の外にあった。茫然としてホームの端に立ったまま、運ばれていく自分の右足を見送った。いや、下を見れば右足はちゃんとついている。もちろん左足もあるし、どこにも痛むところはない。急いで引っ込めようとした足が、残像になってそう見えたのか。
 足を出したことは覚えているけれど、引っ込めた感覚はまったくなかった。もし本当に右足が挟まったのなら、駅員は一度はドアを開けたはずだ。その隙にこっちが入り込むか、ホームに残るにしても。
 結局次の列車には乗らず、頭が痛いから行けなくなったと藤本に電話をしてアパートの部屋に戻ることにした。

  こんな話を聞いたことがある。
 人間というのは2時間ぶっ通しで作業しろと言われると嫌になるのに、2時間を8分割にして15分ずつタイマーをかけると、途端に時間が惜しく感じるのだそうだ。タイマーをかけたからと言って2時間が縮まるわけでもないのだが、そうすると突然時間がリアルに感じられるのかも知れない。
 区切られた15分は、言わば「時間のなかの時間」だ。バケツの水にコップの水を足すことはできるけれど、時間に時間を足すことはできない。時間はいつも同じ方向に向かって一瞬たりとも休まずに流れているのだから、所詮は浮き出た15分なのだ。
 柿の木が見えてきた。お前さっきもここを通ったじゃないかと言われているような気がして、ついうつむいてしまう。
 
 最初に自分はタイマーを2秒早くとめ、7分は6分58秒になった。そのあと7分で何かをしようとすると、必ず6分58秒のところで邪魔が入るのではないか。30秒のうがいは吐き気で完遂できない。列車は時刻表より速く右足を連れ去る。もちろんただの偶然なのだが、そんなことを考えながら歩いているうちに部屋に着いていた。そういえば、帰りは何分かかったのだろうか。7分の意識をしなかったせいか、無事に帰り着くことはできたが。
 部屋に入ると啓太はすぐに冷蔵庫のタイマーを見た。7分のまま静止していたので、分と秒のボタンを同時に押してみたけれど、ふにゃりとして手ごたえがなく数字はリセットされなかった。もうタイマーには触れぬようにして、布団に潜り込んだ。目が覚めたら、元通りになっているかもしれないと根拠もないことを考えながら目を閉じた。

  気がつくと、台所のテーブルに座っている。別れたはずの彼女がこちらに背を向けてパスタを作っている。サラダときんぴらごぼう。あとはパスタね。7分、と。
 彼女が手を伸ばしたのは、トマトの形をしたかわいらしいタイマーだ。あれ、そのタイマーはなに?これ?私が家から持ってきたんじゃない。じゃあ、あの白いタイマーはなんだろう。そんなの知らない。別れる時にこのタイマーもちゃんと持ちかえったし。じゃあ、あのタイマーはいつから家にあったんだ。ていうか、君どうしてうちにいるわけ。なんなんだ、あのタイマーは。

  スマホが鳴っている。どうやら夢を見ていたらしい。
「もしもし啓太?大丈夫か?」
 よく確かめもせずに出たが、それは藤本の声だった。
「ああ、悪かったな。あれから帰ってすぐに寝たよ」
「実は今、おまえんちの駅にいるんだ」
「駅に?」 
「コンビニでポカリとおにぎりとプリン仕入れたから、今から行くよ。頭痛ってなに食べたらいいんだかわかんないから適当に買ったけど」
  笑っている藤本の声の背後に、踏切の音が響いていた。
「じゃあ、いまから7分後にな」
「え…」
「おまえんち、駅から7分だろ」
 それで電話は切れてしまった。7分って、なんでわざわざそんなこと言うだよ。啓太はベットから飛び起き、タイマーを見た。動き出している。すぐに藤本に電話をかけたが、つながらない。
 果たして、6分58秒のルールは自分だけに適用されるのだろうか?啓太は玄関にダッシュし、スニーカーをつっかけながらドアに手をかけたが、ドアノブはくるくる回転するばかりで手ごたえがない。ドアの向こうに何もないからドアノブも役目を放棄しているような感じだ。
 再びタイマーの元に駆け寄ると、めちゃくちゃに叩く。けれど、どのボタンもふにゃりとして反応がない。こうなったら窓から大声で叫んで、藤本を駅に引き返させるしかないぞ。幸い通路側の窓は開けたままだ。細い隙間から無理やり顔を突き出すと、コンビニの袋をぶらさけげた藤本が歩いてくるのが見えた。
「藤本!」
  啓太は思いきり叫んだ。白いイヤホンを耳からぶら下げて何かを聴いているらしい藤本に、しかしその声は届かない。
「おい藤本!藤本、来るな!帰れ!」
 藤本はコンビニの袋を前後に揺さぶりながら、どんどんアパートに近づいてくる。タイマーの残りは10秒だ。アパートの階段を上ってくるかんかんという足音。7秒。4、3、2…。こんこん。ノックの音が、水の中みたいにくぐもって聞こえる。7秒。4、3、2…。
「藤本、帰れ!」
 そのとき、手元のスマホがぶるぶると震え出した。藤本からだ。ドアが開かないからかけてきたのか。とにかく帰ってくれと怒鳴ろうとすると、藤本ののん気な声が聞こえてきた。
「もしもし啓太?大丈夫か?」
「藤本、いいから今日は帰れよ!」
  啓太は開かない玄関に向かって怒鳴った。
「コンビニで、ポカリとプリン仕入れたから、今から行くよ。頭痛ってなに食べたらいいかわかんないから適当に買ったけど」
  さっき聞いたのとまるで同じセリフじゃないか。っていうか、駅にいる?
「熱もあるし、とにかく帰れ」
  電話の向こうに、踏切の音が聞こえる。
「じゃあ、いまから7分後にな」
「ふじもと…」
「おまえんち、駅から7分だろ」
  階段を上る音。ノックの音。微妙に音のずれたノックの二重奏が聞こえてくる。藤本が増えているのか。また電話がかかってきた。同じセリフだった。何を言っても返事は変わらない。増え続ける藤本、ノック、電話、その繰り返し。
 啓太はキッチンに駆け出した。タイマーは同じように7分を刻んでいる。時間を区切ったせいで、おまえの機嫌を損ねたのかよ?もしそうなら、何かを7分でやり遂げればもう一度時間をくっつけることができるのかもしれない。それでお前の時間は概念の時間でしかないっていうことをわからせるんだ。 

 啓太は冷蔵庫からタイマーをもぎとるようにして、壁の時計の前に立った。もうすぐ8時になる。ジャスト8時にこいつを時計の前にかかげて、7分が過ぎていくのを待つ。一方向に流れていく唯一無二の時間を見せつける。
 7時59分57…
  ノックの音は鳴り続ていて、ドアが外れて大量の藤本がなだれ込んでくる。見えないけれど、人がばたばたと倒れる音がした。ゾンビみたいに、藤本たちが襲いかかってくるかもしれない。足が震えるのをこらえて、啓太はタイマーを掲げ続けた。
  あと2秒だ。…7分。
  その瞬間、ノックの音が止んだ。右手をそっと降ろすと、玄関へ向かう。誰もいないし、ドアも外れていない。タイマーは、7分の状態で静止していた。啓太はスタートストップボタンを押してリセットすると、そっと冷蔵庫に貼りつけた。
 藤本に電話をかけたが、つながらなかった。麻雀に夢中になっているのかもしれないな。キッチンの窓から、駅から歩いて来る人が見える。これから遅い夕食を作るのか葱が飛び出た袋を持った人もいた。

  彼女もまた、何かを作っているのかもしれないな。トマトの形をしたタイマーで時を刻みながら…。
 それから啓太は伸びをして、部屋に戻った。
 なんだか腹が減ったな。ラーメンでも食べようか。鍋の湯が沸いた。壁に

 掛けられたデジタル時計は、6時40分になろうとしている。

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