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ホテルにあった本

 そのホテルの図書室には、一冊の本しかなかった。しかし、書棚にはすきまなく本が並べられている。すべて同じ作者による同じ物語だ。つまり、同じ本でびっしり埋まっているのだ。
 ホテルの宿泊客たちは人種もさまざまなように見えた。原書がどこの言葉なのかは知らないが、その本はすべての(このホテルに泊まっている客のという意味だが)国の言葉に訳されているということは、図書室の司書から聞いた。
 翻訳者の名前はなかった。もしかして、著者が自分で翻訳したのだろうか。それとも、翻訳者は自分の名前を出すことを遠慮したのだろうか。

 図書室にはクリーム色のソファが用意されていた。すべて一人がけで全部で十六脚あり、一脚ごとに読書ランプがつけられたテーブルが備え付けられている。

 なぜか、いつ行っても席は埋まっていた。私一人分をのぞいて。
 このホテルの宿泊客数は常に一人客十六人におさめられているから?
 いや、そんなはずがない。それではホテルの経営がなりゆかないだろう。でもなぜか、図書室に行くたびに私はそんな想像をしてしまうのだ。

 きっと、このホテルのオーナーがつまらない自伝でも書いたのだろう。旅行かばんに詰めてきた三冊の本をそれぞれ二回ずつ読んでしまった私は、しかたなく自分の国のことばで書かれた本を手にとってソファに腰かけた。

 どこからともなく黒い制服を着たウエイトレスがやってきて、水の入ったグラスを置く。
「あたたかい紅茶をください」

 大きな窓にはソファと同じ色のカーテンがかけられていて、部屋の中は暗くもなくまぶしすぎもしない程度の明かりで包まれている。運ばれてきた紅茶をひとくちすすると、私はその本を読み始めた。

 それは、ホテルオーナーの自伝などではなかった。幻想文学のようでもあり、純文学のようでもあり、推理小説のようでもあり、ホラーでもあり、現実に起こった話にも思えた。読んでいると、森の中を歩いているような気分になったり、かと思えばビルの屋上にいたり、未来か過去のどちらなのかわからない世界にいたり、人がものすごくうるさかったり、誰もかも死んでいたり、赤ん坊に戻ったり、肉を食ったり、吐いたり、泳いだり、走ったり、転んだり、飛んだり、何回も死んだり、生き返ったりを繰り返すのだけれども、どこまでいっても物語は終わらなかった。
 
 と思ったら、いきなりぷつんと最後のページの空白に置いてきぼりにされて、私は我に返った。

 私はひどくこの本を気に入り、どうしても家に持ち帰りたいと思った。それで新しい水を運んできてくれたウエイトレスに、この本は出版されているのか、もしそうならどこで手に入るかと聞いてみた。

「出版はされていないのです」
「自費出版ということですか?」
「いいえ。どなたにもお配りしていないんです。このホテルにあるものがすべてです」
「作者はこのホテルのオーナーでしょうか」
「そうではないようです」
「ないよう、ということは?」
「わたくどもも知らないのです」
「でも、原稿は存在しているんですよね。コピーするとか、電子化するとかできないものでしょうか。どうしても家に帰ってからも読みたいのです。もちろん、お金は払います」

 ウエイトレスが司書に要望を伝えると、案外あっさりと原稿用紙のコピーをくれた。金額を尋ねると、コピー代だけ受け取りますと言う。
 こんなに面白い物語を、なんの契約も取り交わさずコピーしてくれるとは思わなかった。私はコピーをカバンに入れて、ホテルに滞在中は、何度も図書室に通って本を読み直した。

 荷物をまとめ会計を済ませると、私は帰りの船に乗った。波がおだやかで、いつの間にかぐっすり眠り込んでしまった。港につき、電車とタクシーを乗り継いで家に帰るとさっそくコピーを取り出した。

 だが、そこには何も書かれていなかったのだ。何年も日にさらされたみたいにどのページも日に焼けて茶色く変色している。いくらめくっても、ひとりの登場人物も、ひとつの比喩も、名詞も会話も描写も残されていなかった。
 
 おそらく、そんなことだと思ったんだよ。

 今ではもう、あの本の内容を思い出すこともできない。あんなにくりかえし読んだはずなのに。もういちど、あのホテルのあの図書室に行くしかあの本に出会うことはできないのだろう。

 でも、なぜかそうはしなかった。

 私は長い息を吐いた。それから、原稿用紙に新しい物語を書き始めた。

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