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短編小説「横浜元町エレクトリカル・パレード」

横浜元町エレクトリカル・パレード


 アイカは自分の名前が嫌いだった。愛する花。なんて恥ずかしい名前だろうと、二十三年間生きてきて何百回も思った。それというのもアイカが不器量だったからだ。
 アイカは鏡に向かい、そこに映った自分の頬をなでた。冷たくて滑らかな手触りにこれがわたしの肌ならよかったのにと思う。アイカは右手で鏡に触れたまま、左手でほんものの頬をなでる。それはざらざらしているのに湿って、まるで乾きかけた粘土みたいだ。
 アイカは自分がついていないことを自覚している。先月は勤め先の図書館で、台車を使って書庫に蔵書を運んでいたら、この春入ってきた新米の女の子が手を滑らせて荷が落ちて、足の親指の爪が真っ二つになった。痛む足を引きずって急いで医者に行ったら、動かさない方がよかったのにと言われたし、爪はきれいに割れていたからきっとくっつくだろうと思っていたのに、医者はまた生えてくるからと言ってアイカの爪を無造作に剥いだ。痛みは信じられないくらいだった。目の端からゼリーみたいに粘っこい涙がいく粒もこぼれた。
 半年前、心憎からず思っていた大学生のアルバイトが職を決めて図書館に来なくなった。自分では結構仲良くなったと思っていたし、アドレスだって交換したのに彼からの連絡はなくて、ひどい引っ込み思案のアイカが耐えられなくなって「おーい。元気?」を発信したのが二か月前。未読は永遠に既読にならなくて、積極的か消極的か知らないけれど、とにかく彼の中にもうアイカはいないことをアイカに伝えた。
 でも、今日のアイカは久しぶりに胸を高鳴らせていた。「ハバナ」さんに会える。
 「ハバナ」と知り合ったのは、あまり評判のよくないSNSがきっかけだった。
 ハバナというユーザーネームは、アイカに葉巻を連想させた。アイカが想像する「ハバナ」はカリブ海の小島で太陽に焼かれながら葉巻を燻らせる精悍な顔をした男だった。ハバナとはダイレクトメールで何度かやりとりして、猫と爬虫類と、だいぶ前に公開されて史上最悪といわれた映画の悪口で盛り上がった。
 気が合う人と出会った。
 二人は心行くまで会話を楽しんだ。ほとんど朝になってから二人して互いの出方を伺いながら「また明日」となって、アイカは朝日の差すベッドの上で枕を抱いて半時間ほどもニヤニヤ笑った。人と気持ちが通うことの快感を久しぶりに感じて嬉しかった。ハバナさんはどんな人だろう。役者の演技にダメ出ししてたし芸術家肌の繊細な人かも知れない。平日のこんな時間まで起きているんだから、きっと仕事はサラリーマンなんかじゃなくて、きっと一人でこなす仕事だ。物書きだろうか。イラストレーター? それとも学生? しっかりした意見を持った人だから、きっと引きこもりとかそういうんじゃなくて、クリエイティブな仕事をしてるんだ。テキストの情報だけで想像が広がるのが楽しかった。
 何度か会話を繰り返して、アイカは「ハバナ」に淡い恋心を抱いていることに気が付いた。顔を見たこともないのに、文字面に恋をしている自分にびっくりした。アイカは不器量な自分が嫌いだったから会うのは怖かったけど、画面の中では自分らしさが表現できたと思っていた。足の爪が割れたことも、そのことで同僚を憎んでいることも包み隠さずうまく笑い話に仕上げたつもりだ。そしてハバナはアイカのユーザーネームを口にして、「桜花さんは面白い人だ」と言ってくれた。アイカは自分が「ハバナ」に受け入れられていると感じた。心の交流を感じていた。
 そのハバナから先週、会いたいというメッセージが届いた。画面の外にいるハバナは横浜に暮らしていて、アイカは菊名にアパートを借りて暮らしていたから無理をすれば近所だと分かった。約束の日時は今日の午後三時。アイカは朝の六時に起きて、簡単な食事を済ませて九時から入念なメイクアップに勤しんだ。幸い今日は雨も降っていないし季節は春で空気はほどよく湿っている。肌は空気中の水分を吸って、ひび割れたり陸に上がった魚の鱗みたいに剥げ落ちたりはしないだろう。メイクの乗りだっていい。赤い口紅は乾きかけた血液のような深い赤に染まってアイカを喜ばせた。
 それなのに、なんだこれは。
 五時間後、アイカは涙していた。

 サンサンと照りつける夏の太陽。見上げると薄く濡れた瞳が光の粒をゆがませてヒリヒリと痛んだ。下を向くとポツリ雫が落ちてしまいそうで、アイカは痛みを無視して空を見上げ続ける。今日初めて頭に乗せた唾の大きな帽子が眉毛と睫毛の真ん中に強い影をつくって、入念な化粧が仇となってマスカラが溶ける。上から見たアイカはまるでパンダみたいだ。アイカの腰掛けるベンチの背中には氷川丸がカッカ日に照らされて金属みたいに光っていた。アイカは右の二の腕でごしごしと二つの目を擦った。泣き終える寸前の子供みたいに、短い息を吐きながら擦った腕を見ると、雪解けの土道の轍みたいな二つの線がくっきりと残っていた。さっきの衝撃がまたよみがえってアイカはサイレンみたいに湧き上がるような泣き声を上げた。あの野郎。
 あの野郎。わたしを一目見て回れ右した。

 半分は自分がかわいそうで、もう半分はハバナが憎らしくて泣いていた。見通しが甘かった? そんなことは余裕がある者が考えることでスタートを切るのに必死だったアイカにそんな余裕など無い。ただただ目前で繰り広げられた現実に打ちひしがれて、アイカは絶望と屈辱に飲まれてしまう。午前三時の約束どおりにアイカは白く唾の大きな帽子をかぶって氷川丸の前のベンチでハバナの訪来を待った。言ってしまえばただそれだけの行為に、いったいどれだけの勇気を必要としたことか。変わるつもりだったのだ。二十数年も、来てもいない嵐を避ける振りをして縮こまっていた自分にさよならするために、アイカはハバナとの出会いをきっかけに生まれ変わるつもりだった。それなのになんだ。約束の午後三時になって、低い潅木の間のレンガ造りの歩道を歩く人影を認めて、その彼が小脇に目印の赤い雑誌を抱えていたからアイカは緊張して、反乱気味の表情筋をなんとか宥めながら微笑んだのに、アイカをちらり見た彼はあからさまに落胆して手の中の雑誌をそのまま潅木の茂みに放り捨てた。そして折り返し地点をまわるランナーみたいにスムーズに回れ右して、そのままもと来た道を帰っていった。アイカは固まる。これが泣かずにいられるか。何だこれは。わたしはいらないものなのか。
 アイカにはつきがなかった。それは多分にアイカ自身のその内気で内省的な性格に起因するものだったけれど、当事者たるアイカにそんな認識はできるはずもなくアイカはただ不幸な自分を嘆く。たとえばアイカは男性と恋愛をしたことがない。片思いと呼ぶのも憚られるような淡い思いを胸に秘めた経験しかない。怖気づくのが人よりあまりにも早くて、足を前に進める力を持ち合わせていなかったからだ。人から誉められたことが少ない。自尊心ってものが欲しくって、自己暗示と自助努力でティッシュを重ねるみたいにして作った自信の芽は、時間の経過と比例して一枚一枚殺ぎ取られていった。だからアイカは鏡を嫌う。鏡に向かう回数や時間は人よりむしろ多かったが、それはポケットの中の小銭を落としやしないか、三歩歩くごとに確認せずにはいられない神経質のそれと同じだった。勇気を搾り出すのがしごく、下手糞だった。
「顔、すごいことになってますよ」
 だから、やけっぱちのアイカの耳に、飽和した夏の朝の空気みたいに妙に厚みのある男の声が届いたとき、アイカは現状認識をすべて破棄してスムーズにそれを受け止めることができた。突然の男性の声にテンパる余裕すらなかったからだ。顔を上げると目の前にいるのは学生風の男だ。上唇をげっ歯類みたいにちょっと伸ばして笑みを浮かべる男の顔はひどくアホっぽく見えた。アイカはハバナに向けることあたわなかった敵意のカタマリを初対面のこの男にぶつけてしまおうと思った。だからふてぶてしく横柄に応じた。
「ほっといてよ」
 男はアイカの返答をどう受けるべきか迷う風で、さっきのアホっぽい笑顔のまま首を傾げる。若い、そして決して清潔そうには見えない男のその仕草は尚の事アホっぽくてアイカは気が抜ける。
「だって、泣いてるじゃないか」
 信号無視を一人だけ咎められた子供の顔で男が言った。
「何。かわいそうな女だからって慈善事業のつもり? 何様?」
「何様って。だってあなた、真昼間の公園で太陽の下女の子が泣いている。放っといたら不味いでしょう」
 言うと、学生然とした男はアイカの腰掛けるベンチにフラフラと近づき、そのままアイカの隣にすとんと腰を落とした。五秒ほども無言でベンチからの眺めを確認し、それからようやくアイカを向いて大袈裟に唇を歪めてまた笑う。
「暇ですか」
 男の不思議な対応にアイカは対処の仕方がわからない。経験はないけど、これがナンパってやつだろうかと思った。もしくはいわゆるキャッチセールスの類? それともただの善意ってやつだろうか。
「さっき暇になったばかり」
「よかった。それじゃ、遊びましょう」
 嬉しそうに言う男の笑顔をアイカは未知の生物を見るみたいにしかめっ面で眺める。男は得体が知れない。ヨレヨレのシャツに安っぽいチノパンツ。髪は油気がなくてかさついていて、顔はつるんとしていて若いのに、笑顔の皺だけがやたらと深い。
「わたしと?」
 溶けて乾いたマスカラが目の下の皮膚を引っ張るのを感じながら、アイカは自分を指差して問うた。このわたしと? 男はアイカの心の声を聞いたみたいに笑いじわで肯く。
 大胆になっていたアイカは、どうにでもなれという思いで男に付いて行くことにした。たとえホテルに連れ込まれても構わない。安っぽい派手な色彩の部屋で、ぐるぐる回るベッドに横になって、今日はじめて会った男のちんぽを銜えるのも悪くない。性欲を処理して頭が冷めたら、この男だってきっとわたしに唾を吐き掛けるだろう。わたしなんかどうにでもなれだ。
 信じていたハバナのアイカに対する無体な所業、そんなたった一つの些細な出来事が一生の枷に思えるくらい、アイカは純粋で一途だった。だから乱暴に無敵な気分でいられた。
「では、いきましょう」
 男はアイカの腕を引いて公園を出ると、腕時計を見て時間を確認してから、「まだ早いから、どこか見て、あと食事でも」と言った。アイカは自分の腹に視線を落とした。男の言葉に触発されたみたいに空腹を感じる。待ち合わせの時間は遅いけど、もしかしたらハバナはわたしを昼食に誘うかも知れない。そう思って朝食以降何も食べていなかった。お腹が鳴るのを恐れて腹持ちの良さそうなスナックを二時間前にかじっただけだ。
「中華街の店は高いって思うでしょう。でもさ、安い店が何軒か紛れ込んでるのは、案外知られていないんだ」
 朝陽門と書かれたコバルトブルーの冠を通り抜けてしばらく歩くと、男は迷わずに左手に折れた。「南門シルクロード。雑貨のお店がたくさんあるよ。好き? ぼくは好きだ」
 さして興味もなさそうにそう言うと、急に思い出したみたいにアイカを振り返る。
「そういえば聞いていないや。住んでいるのはこの近くなの? もしかしてぼく、地元の人に観光案内してるのかな」
「菊名」
「きくな? 一日限りの出会いだから?」
「そうじゃなくて、東横線の菊名」
「ああ。そう」
 楽しそうに笑う。「じゃあ近所だ。遊ぶのは横浜が多かったでしょう」
 出会ってから半時間、ずっと二人きりだから、最初の言葉を思い出せないくらい男と話をしたけど男の意図と意味がわからない。性格もよくわからなかった。町を歩くのを楽しんでいるみたいにも見えるし、公園で空を眺めるときも同じ顔をしていそうな気もした。なんだかスポンジみたいな空気。こっちが放出した分だけ質量を増す可変する雰囲気をこの男は持っている。
「こっちこっち」
 男が地下に続く階段から頭だけを覗かせてアイカを呼んだ。商店と商店の一二〇センチの隙間から男の嬉しそうな顔が生えて、アイカを見て笑っている。
 アイカは分数の割り算を考える小学生みたいに唇を尖らせて、男と目を合わせないようにしながら階段に向かった。自分がどうしてこの男について行こうとしているのか、それがどうしてもわからない。

「どうして泣いてたの?」
 どのタイミングで聞かれるかと思っていたのに、男はなかなかその質問を発しなくて、アイカは聞かれたくないと思いながらもモヤモヤして落ち着かない。巨大な熊のねぐらみたいなくすんだ壁の地下の雑貨屋で、男は匂いのきつい首飾りと手のひらで叩く皮張りのタイコを嬉しそうに弄っている。店の入り口で対応に迷っているアイカを振り返って子どもみたいな笑顔を見せる。公園で遊んでいる小さな子が、親を前に無意味に笑うみたいな表情だ。ただ笑いたいから笑うみたいな。
「ねえ、あなたは何なの」
 糸口が掴めなくて発したアイカの質問は男の耳に届かない。クリスマスの朝、プレゼントを見つけた子どもの顔で男は山積みになった御香の香りを楽しんでいる。
「嗅いでごらんよ。食べ物の匂いがいいのはわかるし、女の子の香りが魅力的なのもよくわかる。けどさ、これってなんだろ。確実に食べ物じゃないし、女の子の香りとも違う。虫なんかこの匂い嗅いだら逃げ出しそうだよね。でも、いい香りだな」
 盛大に鼻の穴を広げて、金銭の支払いなしでは気がひけるくらいに男は香気を吸い込んだ。アイカもおそるおそる顔を近づけてみる。香の強い香りに混ざって、呼吸のたびに男の匂いがした。日向の土ぼこりの匂いに似た乾いた匂い。ラベンダーを煮詰めたような紫の香り。
 男がアイカを見て笑った。
「ほんとだ」
 強い刺激性の香りは今日のアイカの気持ちによく合った。ラベルを確かめて値段を確認して、無言でそれを持ち上げて、「買う」と意思表示したら男は残念そうな顔を見せた。どうしてそんな顔? アイカには男の表情の意味がわからない。
「香りは持ち運ぶものじゃないと思うんだ」
「は? 何が」
「香りはその場に行って嗅ぐものだよ。たとえば花が咲くだろう? その花の香りを嗅ぐには花が咲いてるところに行くべきなんだ。よい香りのする女の子がいるだろう? その香りを嗅ぐにはその子に会うべきなんだ。またこの店に来よう」
 男は言うだけ言ってしまうと、急に興味をなくしたみたいに出入り口につながる階段を昇り始めた。上下に揺れる男の背中を眺めながら、アイカは、この男、意味がわからないと思う。そしてそんな意味のわからない男と意味のわからないデートをしている自分はいったい何なんだろう。

 雑貨屋を出た後も男はほとんど迷う素振りを見せずに、アイカの歩く速さをあまり意識しない速度でさくさくと前を行く。南門シルクロードの本通から一本側道に入ったところ、さっきの雑貨屋と同じく商店と商店の間の道を折れるときだけ立ち止まり、アイカを振り返って手を振っては笑顔を見せる。
「ご飯にしよう」
 まるで自分の部屋に案内するみたい。アイカを招く男の仕草は自然すぎて、第三者の目をして見たら不躾なようにすら見えるだろう。男の声と仕草にエスコートされて踏み入ればそこは中華街のお店というより町の中華料理屋で、ラーメン一杯六百円の券売機が置いてありそうだ。首を伸ばして奥を覗けば、店主らしき白いコック帽をかぶった男がつまらなそうな顔をして天井近くのテレビ画面を眺めていた。画面のなか、アイカの知らない言葉で女主人公が叫んでいる。お客がきたのに店主はこちらにちらりと目をやっただけで動こうとしなかった。女主人公が泣き崩れて、場面が王宮らしきものに変わったのを確認してから億劫そうに立ち上がる。アイカの隣に立つ男に無粋な目をちらりと向けた。
「そっちの入り口から入った場合は金取るからな。何食う?」
 店主の言葉を聞いて、男ははにかむような笑顔を見せた。わかってますよ。今日はまかない飯を求めてやってきたんじゃなく、デートなんですから。ね。そう言って、態度と表情でアイカを示す。店主の顔が「お」と好奇の色を帯びた。
「この子がエンデの彼女かい」
 エンデ?
「ええと、確認しないとわからないな。そうですか?」
 男は悪戯っぽく笑ってアイカを向いた。エンデというけったいな呼び名もそうだし、さっき出会ったばかりのこの状況で、冗談を交えて場の雰囲気を沸かすことができるほどアイカは器用ではなかった。眉を寄せた不機嫌な顔になってしまう。
「あ、ごめん。怒った。怒らせちゃったよ」
 エンデが慌てたように言ってから、なぜか店主を睨みつけた。体臭と体型がにくまんに似ている店主は肩を竦めて、無意味な空笑いを残して厨房に引っ込んでしまった。
「で、何食うんだよ」
 店主の声だけが響く。エンデとアイカは(店内に客はいなかったけれど)、充分に皿を並べられそうな大き目の円卓を選び、隣には並ばずに、対面する形に腰掛けた。
「ぼくは排骨飯。と、君は……、あれ? 君、何て名だっけ」
 呆れてアイカは口をポカンと開けた。と同時に、自分も今店主から呼び名を聞くまでこの男に関する固有名詞を何一つ知らなかったことに思い至りなんだか恥ずかしくなった。
「アイカ」
「アイカ。花を愛でるんだね。四川料理は平気? 辛いのはすき?」
「エンデって本名? 辛いのは大丈夫」
「じゃあ周さん、酸辣湯と空心菜もお願い。ミヒャエルエンデのモモ。知ってる?」
「知ってる。時間泥棒のお話」
「そう。よく知ってるね。本好き?」
「好きっていうか、それが仕事だから」
「国語の先生? あ、周さん。ぼくは紹興酒も軽く飲みたい。アイカはお酒大丈夫?」
「あ。じゃあ少しだけ。先生じゃなくて、司書」
「図書館?」
「そう。で、なんでエンデ? お昼からお酒?」
「モモといっしょにいる亀が好きでさ、想像して絵にしてみたんだよ。車?」
「ううん。歩きと電車。亀、カシオペイヤだっけ?」
「そう。で、書き上げたカシオペイヤをTシャツにプリントして、それを着てここに来た」
「なんて?」
「店長の子どもたちがよろこんだ。で、エンデエンデって叫びながらぼくからそれを強奪した。その後で裸のぼくを哀れんだ店長がこれをくれた」
 エンデは自分の着ている蓬色のTシャツの首を摘んでみせた。
「それがこのTシャツ。ヨレヨレでしょ?」
「で? カシオペイヤは?」
「ほら、あそこ」
 エンデが指差す天井近くの壁には、まるで室内干しの洗い物みたいに白いシャツがぶら下がっている。ゆっくりまわる天井の扇風機に煽られて、まるでバラードでも歌うみたいにゆったりと靡く。アイカはそれを見上げて頬を緩めた。見返り美人みたいな構図、ニヤリと笑うカシオペイヤの甲羅に『喜』の文字。
 厨房から周と呼ばれた店主ののんびりした声が聞こえてきた。
「匂いがつくから額に入れようっておれは言ったんだぞ。なのに、エンデはそれをさせなかった。自分の作ったものをもっと愛せと言いたいよ」
「愛してるから檻に閉じ込めたくないんだ。Tシャツにプリントしたのは着てもらいたいからで、額に入れて飾っておくためじゃない。ほんとうならああいう形だって不本意なんだ。だいぶ折れてるんだよこれでも」
 出来立ての空心菜をアイカたちのテーブルに運びながら、店主はエンデを見て、一丁前に、と呟いた。不機嫌な顔と声だったけど態度はどこか優しげで、アイカは店主とエンデの深いつながりを知る。何でもない会話をする二人が羨ましく思えた。
 空心菜をつまみに、アイカとエンデは温めた紹興酒を楽しんだ。エンデは見ているアイカが胸焼けするほど黒砂糖を酒に溶かす。小人が使うような小さなグラスに満たされた琥珀色の液体。その中をオーロラのような紗が滑る。エンデが口に含んで満足そうに息をつくのを見てから、アイカも自分のグラスを口に運んだ。はちみつを飲むような舌を焼く甘。
「これから何をしようか」
 エンデが話の続きみたいにするするとそう言った。店の奥で新聞を広げ、聞いていないと思っていた店主が口を挟む。
「エンデにエスコートを期待するなよ。そいつはひどく自己中だぞ」
 アイカはエンデにたずねる。
「おすすめの場所があるの?」
「あると言えばあるし、ないと言えばない。アイカが気に入るかはわからない」
「わたしといっしょにいて楽しい?」
 エンデがしてやったりという顔をする。ニヤニヤ笑いを店主に見せて、アイカに向き直ってからグラスを掲げた。
「やっと自分から話してくれた。楽しいよ。今のぼくがつまらなそうに見える? アイカは楽しい?」
「わからない」
「わからないの?」
「わからない」
「じゃあ、アイカはもっとここにいたい?」
 エンデの問いかけにアイカはきょとんとした。エンデは笑っている。
「うん。たぶん、いたい」
「じゃあ楽しいんだね」
 それから二人は街を楽しんだ。また雑貨屋に行って、蜂蜜をパンに塗って食べさせる店で鼻に抜ける甘さを楽しんで、店頭のカゴに投げ込まれたチャイナ服を胸に当ててみたりした。
 地下の店から出てきたら夜も来ていた。
 オレンジと赤とときどき青のネオンが目の端に残像を残してきれいだった。お酒が入って少しだけ上がった気持ちの隙間に、人工的な光の美しさが滑り込んできてアイカの心をくすぐった。華勝楼と書かれたネオンに照らされたエンデの横顔はオレンジの紗がかかってエンデが歩くたびにそれが移動して面白かった。知らず口元に笑みが浮かんだ。時間が経って臭くなる前の汗みたいな、活力に満ちて気持ちを刺激する臭いが町全体に香っていて、目的を持たず歩くことを目的とさせる夜の街の空気に、アイカは少しばかり浮かされていた。歩き回って体中がベトベトに湿っていたが、肌にへばりつく服の感触すら子供の頃の夏の夜を思い出させるようで、アイカは帰郷のそれに近い喜びを味わっていた。
「そろそろいいかなぁ」
 気の抜けた調子でエンデがそう言った。腕時計に目を落としている。
「腕時計、めずらしいね」
「そう?」
「スマホは?」
「持っていない」
「じゃあガラケー?」
「それも特には」
「じゃあ連絡とかどうするの?」
「さっきのお店。あそこに電話してほしいな」
 まるでエンデに連絡先を求めたように受け止められた。否定はしない。
「のんびりした生活だね」
「ぼくの理想の生き方は水母だから」
 堀川にかかる前田橋に戻り、欄干に体を預けてみた。となりでエンデがアイカを見ている。また時計を見た。
「この橋の下、汽水域なんだ」
 アイカは欄干から身を乗り出して川面を見ようとした。エンデの腕が伸びてそれを止める。
「降りてみる?」
「降りられるの?」
「降りられないよ。降りようとしないかぎりは」
 側道を行く車のヘッドライトが、エンデの笑い皺を深くさせた。

 エンデに手を引かれ降り立った場所は、くちかけたはしけだった。歩くたびにベコンベコンと音がする。川に浮かべた大きな空き箱の上を歩いているみたいだ。
 エンデははしけの端に立って、中腰になって水面を見ている。アイカはエンデの背中を見て、それからはるか上の県道と町の喧騒を振り仰いだ。
 不思議な感じがした。さっき歩いたオレンジや赤やときどき青のネオンがここからも見える。そこには蒸発することを拒むような活気が溢れていた。それなのにこの場所はなんだ。静かだ。声高な話し声やバイクの排気音や遠すぎて何だか分からないポップソングが流れているのに、その音はアイカの頭上をすり抜けて行く。コンクリでできた橋が街の光を遮ってここはずいぶんと暗い。
 エンデが立ち上がって、暗闇から町を仰いだ。
 アイカを見る。
「嫌いだっていう人もいるけど、ぼくは好きだ。アイカに見て欲しいな」
 エンデが何を言っているのか分からなくて、アイカは何も答えなかった。はしけの端に立つエンデの肩越しに橋の欄干が見えた。橋の上を一台の車が通る。白と黄色の中間色のヘッドライトが時速二十キロで通り過ぎた。
 車のヘッドライトが川面を撫でた瞬間、アイカの見つめる水面が青白く輝いた。
 それは暗闇の中で光る夜光塗料の輝きに似ていた。水面を埋め尽くす青い炎。橋の上を車が通り過ぎるたびに、幾千、幾万の光沢が水面を満面に光らせた。アイカは目の前で繰り広がる光景が理解できなくて軽いパニックに陥った。だからエンデに助けを求めた。
「水母だよ。汽水域に上がってくる水母たちだ」
 幾千、幾万の青白い炎。それは凪いだ水面のすぐ下を埋めつくすように、水面そのものをビリジアンに輝かせていた。波が打つたびに乱反射して一面が明滅を繰り返す光のつぶて。その繊細な光はアイカの頬をキラキラと照らした。エンデの顔にも金の欠片が張り付いて、まるで傷口から金粉を吐き出す生き物がそこにいるみたいだった。美しかった。青く輝く水面。白と黄色のヘッドライト。オレンジと赤のネオン。エンデの言うとおりだ。光と闇、人工と自然、喧騒と静寂の、ここは汽水域だ。
「きれいだろう」
 エンデがそう言うのを聞いて、アイカは強く肯いた。ありえない光景に息をするのも忘れていた。横浜元町、中華街と商店街の隙間、活気と熱病に浮かされた街の隙間に光の行進がある。
「横浜元町、エレクトリカル・パレードだ」
 アイカが呟くと、エンデが笑った。
 とても嬉しそうに。
「そう。パレードだ。ずっと、これは何なんだろうって思っていたんだ」
 考えもせず言葉が口をついて出てくる。
「こんなところに道があるんだね」
「うん。あるんだ」 
「すごいね」
 エンデが笑った。
「うん」

 アイカは川面を見る。
 水母たちの作る道はずっと続いて先が見えない。
 それでもアイカは考える。
 でもこの先。

 きっとどこかに、何かあるんだ。



※涌井の創作小説です。

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