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短編小説「外に出ようとする男と女」

外に出ようとする男と女


 今日の分の支払伝票をファイルして、ロッカーにそれをしまいに行くとき、窓から見える楡の木の茂りがいつのまにか黄色に染まっていて、今の今までそれに気付かずにいた自分がちょっとだけ嫌になった。今朝、まだシャッターの開いていない商店街を足早に歩いていたとき、汗が出ないなって思ったことに納得する。秋が来たんだ。
「河野さん、今日はどう? 付き合わない?」
 わたしと同年代だけど仕事は一年先輩の飯塚さんがわたしに声をかけた。一週間ぶりだ。彼女はお酒が飲めないから、きっとスパの類への誘いだろう。そしてわたしは前に一度だけ飯塚さんと健康ランドに行って、薬湯の中で会社の方針と彼女の能力の比較分析をこってり聞かされて懲りているからやんわりと断る向きにベクトルを傾ける。
「河野さん、彼にべったりね。もっと他の人とも付き合って、もっと世間を知らなきゃ」
 わたしは飯塚さんのことを善い人だとも悪い人だとも思わないけど、彼女の言うことはもっともだと思った。わたしはもっと外に出て、いろいろなことを知らなきゃいけない。だけど、飯塚さんの言葉に肯いて健康ランドに出かけたその一回の外出が、家でわたしを待つ彼を二時間泣かせたことをわたしは知っている。だから、それはもうできない相談なんだ。
「河野さんは仕事に真面目だからわたしと話が合うと思うのよ」
 そのたった一回の外出のおかげで、彼が一人でいることをどれだけ悲しむか知ったわたしは、それからは今まで以上に早い帰宅を心がけている。だからわたしは飯塚さんの言葉に微笑みながらも気が急いでしかたがない。商店街の魚屋が閉まる前に、スズキの切り身を二枚買っておきたい。
「また今度誘ってください。帰ります」
 ちょっと笑顔が不自然になったかも知れない。振り返らず更衣室に向かうわたしの背中に、飯塚さんの返事は聞こえてこなかった。

 わたしの彼が部屋から出られなくなって、かれこれ二年が経つ。
 最初に彼が、「外に出られない」と言って玄関口で佇んだとき、わたしはまだ大学生で、彼も社会人に成りたての二十四歳だった。だから、わたしはきっと、こいつ、わたしに甘えてるんだと思った。
 だからわたしは寝転んだまま、つっけんどんに彼をあしらった。付き合い始めて一年も経つのにまだわたしに甘えたいっていうのはちょっと嬉しかったけど、それ以上に彼のガキさ加減に嫌気が差したから。わたしが、「いちゃいちゃする気分じゃないよ。会社行きな」って言うのに彼はノブを握って固まったままで、まるで質の悪いビデオのコマ送りみたいにギギギと首を回して引き攣った笑みを浮かべた。見たことがない顔だったからわたしはびっくりして慌てて体を起こした。
 まるで、冗談で撃ったパチンコに、すずめが当たって死んじゃった、って顔だった。

 最初の頃、部屋の中に彼がいるのに、外から鍵をかけるのがとても嫌だった。でも、彼はそうしてくれって頼むし、わたしたちが暮らしている家は借家だったからお金がなければ生きていけないし、わたしはお金を稼がなきゃいけなかった。大学はあともう少し、十数単位も取れば卒業だったけどあきらめた。彼との生活を続けるには卒業なんて待っていられなかったから。
 それに、彼は外に出られないから、食べ物の補給もないわけだし。
「何が原因なのか話してみて」
 わたしは何度か彼にそう尋ねてみた。そうすると彼は決まって、冗談ですずめを殺したときの顔になって怯えた。何を聞いても、そんなんじゃない、わからないんだと答えた。
 お金をたくさん稼ぐために遅くまで働いて、ほとんどの店が閉まった商店街を歩くときは毎日涙目だった。まだ開いている店を見つけて、その店の種類で夕食の献立を決めて食材を買った。たまに明るいうちに商店街を歩くときは嬉しくて、一日中部屋にいる彼のために、植物の種とプランターを買って帰った。彼はそれを喜んだ。
 ここ一年、いつまで経っても良くならない彼にキレたことも何度もある。ドリンク剤を飲んで一年がんばったのに、お給料がまったく上がらなくて凹んでいるとき、部屋で観葉植物に水をやっている彼の背中を見たわたしはプチンとキレて、力ずくで彼を部屋の外に出そうとした。彼のスウェットの首根っこを掴んで、プランターが倒れるのも無視して玄関まで引きずったら、彼の体がそこで万力みたいに固まって動かなくなった。振り返って見下ろしてみると彼は三和土の靴置きに腕を絡めていて、突っ張った彼の腕の皮膚と筋肉がいまにも弾けそうにビリビリしていた。なんだか彼全体が治りかけのカサブタみたいで、引っ張ると血が出てきそうで嫌だった。ギリギリのわたしは隣人とか世間体とかプライドとか愛情とかそういうの全部を失って叫んだ。
「何よ! わたしがどんな思いしてるのかわかってるの!」
 彼は腕を突っ張ったまま、怯えた顔でわたしを見上げた。涙の被膜ごしに彼の顔を見て、この一年でずいぶん痩せたんだと気が付いた。気が付いたけど、もう耐えられなかった。
「もう嫌。ねえ、止めていい? 止めていいかな?」
 彼はもういいよと言ってくれなかった。
「おれだって嫌だよ。外に出たい。外に出て働いて、明日美にプレゼントをしたい。でも、出られないんだ」
 そして彼はわたしより泣いて、わたしの肩を両腕で掴んであっさりと最悪の言葉を口にした。
「明日美、助けてくれよ」
 それで、わたしは涙を飲んだ。
 二人で泣き崩れるのは気持ち良さそうだったけど、彼に助けてと言われたんだ。
 わたしたちは二人しかいない。

 すごく、空が赤い日だった。
 夕方、わたしは彼のために、パックに入ったちくわと長ねぎを抱いて商店街を歩いていた。空があんなに赤いのに、空気が澄んで冷たいのが不思議だった。
 商店街を抜けて、彼が待つ家に向けて路地を折れると、細い土道に人だかりができていた。近所の人たちが大勢集まってわたしの家を指差している。わたしはすごく嫌な予感がして、急いで人波を掻き分けて前をめざした。
 人垣が切れると、あっさりと原因がわかった。夕焼けの空にもう一つの赤、重なって二重になっている。空の赤と家の赤が滲んでいる。
 わたしの家が燃えている。
 巨大なキャンプファイヤーみたいな家を見た瞬間に、わたしは腰が砕けて座り込んでしまった。そして次の瞬間に気がついた。
 彼は外に出られない。
「河野さん、あのね、落ち込んでるところ申し訳ないんだけど、あれ、あれ見て」
 向かいのおばさんがわたしの隣にやってきて、まるで過去の出来事を慰めるみたいな口調でそう言った。窓の中に真っ赤に染まった部屋が見える。バキバキ燃えてる。そしてその窓の内側に、彼がへばりついてこっちを見ている。開いた口をガラスにくっつけて、パクパク酸欠の金魚みたいに顎を上下に動かしている。なんか言ってる。
 熱風が吹いたのか、それとも部屋の空気が膨らみ過ぎたのか、彼がへばりついているガラスが外に向かって弾け飛んだ。ガラスの欠片が空中で一瞬静止して、夕焼けの光を反射しながら落ちていった。ガラスのバリアを失って、彼の声が空気を振わせてわたしに届く。
  ごめんよ明日美、おれ、死にたくないから、こうしたら出られると思ったんだ。明日美、ごめん、おれ、失敗しちゃったよ。すごく熱いよ。
 オレンジ色の炎を背負った彼が、冗談ですずめを殺したときの顔をして叫んでいた。
「なにそれ」
 喉の奥から、沸いた油みたいな怒りがドクドクこみ上げてきた。気持ちが悪くて吐きそうだ。
「何勝手なことしてるのよ」
 わたしは完全に怒っていた。
「わたし、あんなにがんばったのに。わたしは? わたしは何のために二年もあんたを介護したの?」
 炎のシルエットになった彼が目を見開いている。
「勝手過ぎない? あんたがわたしを愛してると思ったからがんばったのに、これじゃわたし、ばか丸出しじゃん」
 黒い塊が赤い口を開いてなんか言った。
  けど、おれ、明日美の誕生日を祝いたくて。だから外に出なきゃいけないって思って。出るにはこれしかないって、おれ。思って。
「出れてないじゃん」
 わたしはこの二年間がまったく無駄だったことを知って、ものすごくやる気がなくなった。彼を愛しているけれど、彼がわたしと同じくらいにわたしを愛していないのならそんなの無意味だ。わたしを何だと思ってるんだ。
「このバカ。わたしにもう一度会いたいなら、そっから出てきなさい」
 彼はきょとんとしていた。
 まるで今この瞬間に、わたしが外にいることに気づいたみたいに。

 彼が手紙を書き始めたときから、わたしはそれがだれ宛の手紙なのか察しがついていた。彼の目下の目標は、書き溜めたわたしへの感謝状を、角のスーパーのポストまで自分で出しに行くことだ。
 だからわたしは、彼が手紙を書いていてもそれがだれ宛なのか、一度も聞かなかった。彼は口下手だから、問い詰めたらきっと簡単に話してしまうだろう。そして彼は手紙を書いている姿を隠そうとしていなかったから、きっとわたしに問いかけられるのを待っていたんだ。けどそれは目標を挫くためのきっかけを待っているのと同じことで、そしたら彼はきっとすべての努力を放棄してしまうような気がわたしにはしていて、だからわたしは口を噤んだ。

 燃える家から救出された彼は、今わたしの目の前のベッドで全身に包帯を巻かれて横たわっている。腕には太い針が刺さって、チューブの先は半透明の液体が詰まった袋につながっている。
 ぽたりぽたり落ちて、それが彼の中に入っていく。彼は丸一日目を開けない。
 彼を外に出したのは、黄色い服を着た消防署の隊員だった。わたしは急に窓から消えた彼を追って玄関に走って、そこで、熱でゆらゆらしている空気越しに倒れている彼を見つけた。ピクリとも動かない彼を見て、まるで民衆に引き倒された銅像みたいだと思った。
 彼はドアの開いた玄関口に、右手の手首から先を外に突き出して倒れていた。

 わたしは彼の顔を見ている。包帯の下、彼の右の瞼が線虫みたいにプクリと動いた。
 わたしにとって、外ってどこだ。



※涌井の創作小説です。

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