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れいわ新選組~パフォーマンスに命を懸ける

右の参政、左のれいわ。と言われるように、れいわ新選組は参政党と並ぶ新興宗きょ、じゃなかった新興政党。参政党が国家主義的な色を濃くしているのに対し、れいわ新選組は社会主義的、いわゆるリベラル勢力の色が濃い。

なので、れいわ新選組も思いっきり現体制、今の社会をDisる。愛国だの保守だのを標榜しながら、日本社会にダメ出しをして、外国人参政権とかを言い出す。とにかく今を壊して自分たちの理想郷を作りたい一心でトンデモ主張を展開する。このあたり、右の参政もトンデモ主張で社会を揺さぶっている。右と左の合わせ鏡、どちらもそっくりだ。

こうした政党に共通するのは、支持者が独特、というか、外部情報を否定し、信じたいものしか見ない。党の指導者もそれがわかってるのかわかってないのか、支持者の欲しい情報だけを出し、それ以外の情報が間違いであることをひたすら繰り返す。こういうところ、カルト新興宗教やマルチビジネスと似通ったところを感じる。

それが顕著になったのが令和6年の元日の能登震災。代表の山本太郎の行動について、信者、もとい、支持者とそれ以外の一般人とで大きく評価が分かれた。

誰もが知るように被災地は食料電気燃料水など生活に必要なものが不足しており、装備のある自衛隊や警察消防以外の人がいけるところではない。それ以外の人は助けられる人なのだ。つまり、何の装備も物資もない人が行けば助けられる側になり、支援の邪魔になる。

ところが、こんな簡単な理屈がれいわ新選組の支持者には理解できない。彼らに見えているのは教祖様、もとい代表である山本太郎のヒーローのような活動である。松葉杖で不自由な足を省みず戦った、感動した、それだけ。これはパフォーマンスでしかないかもしれないが、パフォーマンスこそ大事。パフォーマンスで支持者に訴えること、これに命を懸けているのだ。

もし、怪我をした山本太郎が大きな余震で動けなくなったら支援活動の足手まといになる、場合によっては救出する人たちの命をリスクにさらす、といった考えをめぐらすことは到底できない。

自分の信じるものがすべて。他人がどんなに理を尽くして丁寧に説明をしても無駄である。それは支持者にとってれいわ新選組が心地よい居場所であり、楽園だから。筋の通った批判は楽園を汚し壊す攻撃。なのでますますいきり立ち、激しく反撃するようになる。

なぜ支持者にとってれいわ新選組が心地よい居場所なのか、はこちらを参照

あるれいわ新選組支持者の、人として軽蔑にしか値しないポストはこのような過程で生まれた。

あなたを救いたい、れいわ新選組を批判する人も救いたい、とのたまうこの党の奥底にあるものはこういったものだろう。

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